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ワークショップ日記⑧~『永遠』をめぐって。「永遠であるのは私でありかつ私ではない」~

「わけがわからない」という経験


ー今日は「永遠であるのは私である」の3回目、「永遠であるのは私でありかつ私ではない」という文になります。この辺からまた、わけがわからなくなっていきます(笑)。

〈Bさん〉 もう十分わけがわからないです(笑)。

ー少し寄り道になるけど、その「わけがわからない」という経験こそ、このワークショップでは目的のひとつとしているところです。

〈Bさん〉 わからないことが、目的? どうしてそうなるの(笑)。

ーでは、ぎゃくに尋ねると、僕たちが“それ、わかる”というとき、いったい何がわかっているのだろうか?

〈Aさん〉 だから、例えば、“いま何時かわかる?”と尋ねれば、“いま何時です”と答えるときは、尋ねられた問いの答えが「わかっている」ということになる。“これ、お茶?”と尋ねて、“お茶”と答えられるのは、お茶だとわかっているから、とうことですよね。

ーそうそう。でもヘリクツを言えば、いま何時という問いに正確に答えようとしたら、いまは日本時間で何時何分何秒…、と答えなきゃならないし、お茶かと尋ねられれば、それが緑茶なのか、番茶のことも含むのか、お茶の定義づけからしなければならない。でも現実にはそんなことはありえない。

〈Aさん〉 そんなことをしていたら、会話が進まない(笑)。

ーはい。通常の会話では、僕たちは「常識」を用いて、それまでの習慣にそって答えを決めている。いわば、答え方を「自動的」に導き出しているといえる。だから会話が進む。

〈Aさん〉 確かに「自動的」だよな。

ー日常的に会話においては、ほとんど発語は「自動的」といえる。もうちょっと手の込んだ質問、例えば、あなたの生きがいはなんですか、という問いにも、たいがいは常識の範囲内で答えていると思います。日常会話って、そういうことです。

〈Cさん〉 わかります、わかります。普段の会話で、生きがいは何?と聞かれたとき、生きがいの定義から始めよう、なんて言ったら、とたんに面倒くさいヤツと思われる(笑)。
だから、「わけがわからない」というのは、すでに日常の枠を破り、一歩踏み込んでいることになる。

〈Aさん〉 (Bさんに)どこに一歩踏み込んだの?

〈Bさん〉 それもわかりません(笑)。

時間の流れに漂う


ーということで、本題に入ります。「永遠であるのは私でありかつ私ではない」。Bさんからお願いしていいですか?

〈Bさん〉 はい…。「永遠であるのは私でありかつ私ではない」。なぜなら、永遠という時間を感じるのは私自身だけど、時間をつくる要因はいろいろなところからくるから。

ー「いろいろなところ」とは?

〈Bさん〉 時間って、環境みたいなものかなと思うんです。うまく言えないんですけど、時間って自分で自由にできるものじゃないですよね。自分のあずかり知らないところですでにできていて、自分はそこの上で漂っている、みたいな。だから私ができることは、時間の流れを漂っている、その感じを味わっているだけ。

ー詩を聴いているみたいですね。時の流れに身をまかせ…、という感じかな。あ、テレサ・テンか(笑)。要するに、自分たちは時間の流れに身をまかせている、いわば基本的に受け身の存在である、ということですね。

〈Bさん〉 はい。私は普段でも、けっこう受け身かなと思います。子どものときは、何かと主体的になれと言われて、困っていました。

ー主体的に動けは、よく学校の先生が言いがちなセリフですね。

〈Cさん〉  親とか先生は、自分で判断して自分から動ける人間になれ、とか言いながら、いざ自分の判断で動こうとすると、よく大人の言うことを聞きなさい、とか言い始める。どうしろって言うの、って思ってた(笑)。

ーいまのは「クレタ人はうそつきだとクレタ人が言った」と同じような、まさに自己言及のパラドックスだね(笑)。

〈Cさん〉 そのクレタ人の話、聞いたことがあります。

「そのとき」に備えることはできるのか?


ーではAさん、お願いします。

〈Aさん〉 「永遠であるのは私でありかつ私ではない」。なぜなら、私は私の最後の瞬間を知らないが、最後の瞬間が来ることはわかっている。前回の「死は人生の出来事にあらず」という、ヴィトゲンシュタインの影響がちょっと残っているかもしれない(笑)。

ーヴィトゲンシュタインの言葉は吸引力がすごくありますからね。でも、もう少し深掘りしていえば、最後のフレーズは、まさにヨハネ黙示録。いつ「そのとき」がくるかは、わからない。

〈Aさん〉 あ、そうかもしれない。この後すぐに「そのとき」がくるかもしれない、と備えることの大切さ。頭ではわかっているけど、なかなか実感としては…。信仰心がまだまだなのか(笑)。

〈Bさん〉 Aさんでも、そんなふうに信仰について自問自答されることがあるんですね。

〈Aさん〉 これ、よく勘違いされることがあるんですけど、信仰は一度持ったらずっと不変みたいに思われているみたいで…。そんなわけないですよ。日々、問い続けていくものだと思います。特に、信仰が問われるのは、やはり「死」ですよね。いつか死すべき自分とどう向き合うか。

〈Cさん〉 死と向き合わない宗教なんて、ありえないものな…。

〈Bさん〉 だからお坊さんがお葬式をするんですか?

お葬式に関する雑談


ーうーん。少し込み入った話になるけど、死と向き合うことと死の儀式をつかさどることは別だと思う。

〈Bさん〉 …。

ー極端なことを言えば、死と向き合わなくても死の儀式をつかさどることはできます。だって、お葬式はいまやビジネスだから。仏教でいえば、斎主である僧侶が必ずしも日々死と向き合っているとは言えない。

〈Bさん〉 いまだから言えますけど、昔お葬式のとき、来られたご住職がすごくいい加減な感じがして、嫌な思いをしたことがあります。

ーもちろん、全部が全部、そういう住職ばかりではないけどね。ただキリスト教のお葬式に参列したことがあるけど、とても感動的だった。讃美歌を歌っているとき、クリスチャンでもないのに自然と涙が流れてきた。そして、また逢いましょう、って。正直に言って、仏教とキリスト教でこうも違うのかと、愕然とした。

〈Aさん〉 あと、かかる費用が全く違う。ふつうのお葬式はお金がかかり過ぎる。キリスト教の教会でのお葬式は、あんなにかかりませんよ。

人間とは「受け身」な存在


ーCさん、お願いします。

〈Cさん〉 「永遠であるのは私でありかつ私ではない」。なぜなら、ものごとはいかようにも捉えることができるから。でもここで付け加えなければならないのは、ものごとはいかようにも捉えることができるけれども、どう捉えるかは自分では決められない、ということ。

〈Bさん〉 え? もう一度、お願いします(笑)。

〈Cさん〉 簡単に言うと、ものごとを自由に捉えることはできるんだけど、それをどう捉えるかは自分では決められないよね、ということ。例えば本を読んだとしますよね。以前読んだときはつまらないと思ったのに、いまはとても面白いと思える。それって、自分では決められないことですよね。

〈Bさん〉 そのときどう感じるかは、自分では決められないということですか? 確かに、最初から感動しようと思って観た映画でも、そうならないときがある。

〈Cさん〉 ぎゃくにぜんぜん期待していなかったのに、感動してしまうときもある。こういうことって、自分では決められない。

ーでは、なにが決めているんだと思いますか?

〈Cさん〉 なんだろう…。さっきのBさんの話とつながっていくと思うんですけど、人間ってとても受け身な存在なんじゃないかと。起こったことを受け入れるしかない。

ー「受け身」であること。日本だと、受け身というと消極的とかネガティヴに捉えられることが多いけど、西洋哲学や西田哲学では、人間の根本的な姿勢として定立されているんだよね。

〈Aさん〉 キリスト教でもそうですよ。受け身でなければ、神の御言葉を聴くことができないし、祈ることもできない。

物来って我を照らす


ーさきほどのCさんの「自分では決めることができない」ということについて、少しばかりかんがえてみたい。また西田幾多郎に登場してもらいます。
西田はこんな言い方をしています。
【物来って我を照らす】

〈Cさん〉 物が来るんですか?

ーそう、物が来て、自分を照らしている。これもいろんな解釈ができるんだけど、僕はわりと素直に読んでいいんじゃないかと思っている。
例えば、散歩しているとするでしょう。ふつうは何気もなく見ている風景だけど、あるとき道端に咲いたタンポポの花に目を奪われたとする。このとき何が起こっているのか。それまで風景にうずもれていたタンポポの花が、ある質感をもって意識に顕れる。まさに「物」が来る。そして「ああ、きれいだ」とか、我にかえる。そう、まさに「物」が私という意識を浮き上がらせる。

〈Cさん〉 「物」が顕れた瞬間って、それに圧倒されて自分がどうなっているのかわからなくなる。「我にかえって」という感覚、よくわかります。

ーその圧倒されていることを、西田は「純粋経験」といって、人間と世界の最も根源的な場所だと定めた。場所といっても、単に空間的な場所ではなくて、時間も含めての場所。「その場、そのとき」って感じかな。なので我にかえってからの出来事は、純粋経験から派生された出来事、もっと言えば、純粋経験を自分なりに解釈して言語化したものだとしたんだ。
僕たちはこの純粋経験を言語化することを「認識」と呼んで、どちらかというと純粋経験よりも「認識」の方が大切なような気がしている。

〈Aさん〉 言語化しないと、その経験が共有できないしね。

ーそう。ただ、言語というのは一般的な機能だから、言語化するとどうしても「常識」や「日常」的な表現になってしまって、純粋経験の個別性みたいなことが伝えられないというジレンマがある。

〈Cさん〉 わかります。だからもう、言葉にしなくていいやって気持ちになる。まぁ、相手にもよりますけど(笑)。

ーここで確認しておくことは、西田にとっても我、つまり自己、自分というのは、物から照らし出される「何か」、つまり「受け身」な存在ということ。
文であれば、主語ではなくて述語的な存在。これを敷衍していえば、「私」が主語になったときに語られた「私」は、解釈された私、つまりフィクションとしての私ということなる。

「私」は「嘘」としてしか語れない


〈Aさん〉 確かに「私は○○です」とか自己紹介するときは、若干「盛った」話になるな。
〈Bさん〉 自己紹介しながら、いったい誰のことを話しているんだ、と自分にツッコミをいれたくなるときもある(笑)。

ーそう、つまり私を主語にして語り出したときは、それはあくまでも物語としての自分を語っているんだ、ということだよね。理想の自分や周囲の人にそう思ってほしいという願望を含めた。

〈Aさん〉 いままでの経験だと、自分のことばっかり話している人の話って、どこか嘘くさい。

ー「嘘くさい」というよりも、ある意味、「私」はひとつの「嘘」としてしか語れない、というふうに言ってもいいかもしれない。

〈Bさん〉 じゃあ自己紹介って、どうやればいいんですか?

Cさん 大きな嘘にならない範囲で、テキトウに言っていればいいんじゃないの(笑)。誰にも迷惑かけない範囲で。

〈Bさん〉 そうします(笑)。

ーということで、次回いよいよ最終回になります。

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