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精神科医、准教授になる【前編】

皆様、こんにちは!鹿冶梟介(かやほうすけ)です。

藪から棒で恐縮ですが、大学病院におけるヒエラルキーってご存知ですか?

各大学によってシステムは若干違うかもしれませんが概ね...

(<=偉くない)研修医 < 医員 < 助教 < 講師 < 准教授 < 教授 (偉い=>)

…という序列になっております。

そしてプロフィールにも書いておりますが、恥ずかしながら小生も実は某国立大学で准教授をやっておりました。

この肩書きをみると凄いと思われるかも知れませんが、大学病院という「白い巨塔」で准教授になったわけではなく、"ややユルい"環境であったことを白状いたします😖

今回は10年以上前の話ですが、小生がその”ややユル"でありながらも「一応」准教授に就任したときのことについてお話しいたします。

アカデミックポジションを得たいと思っている若いドクターの参考になれば幸いです☺️


【精神科医、切羽詰まる】

精神科医は、切羽詰まっていた。

大学院で博士号を取り、2年間の留学経験を経て帰国したまではよかったが、大学にポジションはなかった。

自慢げに聞こえるかも知れないが、精神科医の業績は当時としては華々しかった。

大学院在学中に書き上げた論文は、10数年前の臨床精神医学ではまずアクセプトされないであろうハイ・インパクトファクター(*)雑誌に掲載され、さらに留学中に書き上げた論文も難治精神疾患に対する新しい治療法確立への嚆矢となった。

*インパクトファクター: 学術雑誌の影響度を表す数値。ドラゴンボールでいう戦闘力のようなもの

精神科医は喜色満面で帰国し、当然大学でのポジションは用意されているものだろうと信じていた。

しかし、現実は厳しかった。

帰国後1年間は精神科救急病院での勤務を、その翌年は総合病院での勤務を命じられたのだ。

それでも精神科医は諦めなかった。

休日や病院勤務後の夜間、大学院時代の研究室を訪れては実験に邁進し、医局から声がかかるのを待っていた。

そこまでして何故大学病院で勤務したいのか…?と疑問に思う方もいるであろう。

しかし、何も「白い巨塔」よろしく権力が欲しいという訳ではなかった。

純粋に大学病院にいる方がより面白い研究ができるし、より難しい症例を経験できる。

少なくとも当時の精神科医にとって大学病院は白い巨塔ではなく、知的好奇心を刺激する"象牙の塔"に見えたのだ。

光陰流水、総合病院での勤務が3年目に入ると流石に焦りを感じはじめた。

年齢もギリギリ30代…、この歳で大学に戻るのは正直言って遅い。

寧ろそろそろ退局(医局を辞めること)を考えるドクターのほうが多くなる年齢だろう。

精神科医は折に触れてA教授のもとに伺いそれとなく大学に戻れるか尋ねた。

しかし、返事はいつも芳しくなかった。

「うーん...、今は学内のポジションが空かなくてね…

A教授はいつものように頭を掻きながら、テーブルに目を落とした。

理由は分かっていた。

当時の医局は隆盛を極め、研究・臨床いずれも日本をリードしていると言って過言ではなかった。

医局教員陣もバランスが良く、精神科医が入り込む余地はなかったのだ。

「国立研究機関か国立病院のポジションのオファーはあるけど...、先生は臨床も研究もしたいんでしょ?でも、今はどちらもやろうとするのは難しいよ」

A教授はいくつか名前の知れた国立の研究機関や病院名を挙げてくれたが、いずれの提案も精神科医の食指は動かなかった。

(来年もダメそうだなぁ...)

教授室から退室するや精神科医は大きなため息をついた。

留学後3度回の教授面談であったが、はやり大学に戻ることは至難と言わざるを得なかった。

精神科医は切羽詰まっていた。


【精神科医、足掻(あが)く】

ここで大学病院における出世コースについて簡単に説明する。

概ねどこの大学病院でも、研修医=>医員 => 大学院 => 留学 => 大学教員、というパターンが主流である(留学をしない教員もいるが)。

そして大学教員のほとんどは助教から始まり、講師、准教授、教授の順で職位が上がっていく。

大学や科によっても違うが講師・准教授がサブグループ(例: 老年、思春期、脳生理、リエゾン等)のリーダーとして各グループを統括する。

教員・医員・大学院生はグループリーダーの指導のもと研究業績を積み上げ、最上位の職位すなわち"教授"を目指す...、というのが当時の大学病院の力動であった。

余談になるが、最近はこの"古典的"力動は弱まりつつある。

その理由は最近の若い医師は出世を望まず、敢えて医局に所属しない医師が増えてきたためと言われている。

さらに2024年に施行される医師の働き方改革も医局の体力を奪うこととなろう。


教授面談後、精神科医はまるで抜け殻であった。

過去に描いていた"未来の今"と目の前に突きつけられた"実際の今"との乖離に失望していたのだ。

毎晩のように通っていた研究室へは足が遠のき、書きかけていた論文も筆は止まった。

「もう、やめようかな...」

いつの間にかPubMedではなく医師転職サイトを眺める時間が増えていった。

それまで転職サイトなど目にしたことがなかったが、具体的な年収等の条件を見て精神科医は驚いた。

医師になってもあまり「儲け」を意識せず、大学で研究することを重視していた精神科医にとって、転職サイトにずらりと並ぶ数字はどこか現実離れしたものであった。

「まじか...、週4日勤務でこんなに貰えるのか...?」

ところが、精神科医は大学病院での勤務を諦めるという選択をなかなか選ぶことはできなかった。

今まで積み上げたものを全てぶち壊す勇気がなかったのだ。


そんな悶々としたある日、精神科医はレターボックスに一通のチラシを見つけた。

それは製薬会社が主催する某認知症薬に関する研究会の知らせであった。

皮肉に聞こえるかも知れないが、この手の研究会は製薬会社から寄付をもらっている医師がその会社の薬の良さをアピールするいわば「提灯持ち」の見本市のようなイベントである。

普段はすぐにゴミ箱行きのチラシであったが、精神科医はそのチラシにかつての恩師の名前を見つけた。

「土曜日の夕方からか...」

精神科医は、足掻(あが)いてみることにした。


【精神科医、恩師を語る】

精神科医が研究会に参加したのは他でもない、恩師に今後の進路について相談するつもりだったのだ。

恩師は精神科医が研修医・医員時代に大変お世話になった人だ。

彼を一言で表現すると「エピキュリアン(快楽主義)」が相応しい。

恩師は仕事(臨床・研究)はあまりガツガツするタイプではなく、それよりも飲み会で若い医師や看護師と飲むことを好んだ。


恩師にまつわるエピソードを語ろう。

彼があまりにも研究しないため当時の教授から「半年以内に論文を書け」と下知が下ったが、締切1週間前に右手に包帯を巻いて教授の前でひざまづいた。

まさかの土下座である。

「これ以上は書けません...」と振り絞る声で泣きついたらところ、怒髪天であった教授もついには匙を投げてしまった。

しかしこの話には続きがあり、土下座した日の晩、こともあろうに意気揚々と飲み会に現れ、「名誉の負傷」と包帯を巻いた右腕で勝利のシャンパンをナミナミと注いで見せたのだ。

結局論文を書かなかった恩師は大学内の職位があがるはずもなく、已む無く私立大学医学部へ左遷された...。


こんなことを書くと「何でそんなダメな人に相談するのか?」と怪訝な顔をするひともいるであろう。

しかし、彼は人を惹きつける独特の雰囲気を持ち、大学の医局長を7年以上も勤めた。

それ故、経験と人脈が豊富で進路相談をするのにうってつけの人物だったのだ。

前世でどんな徳を積んだのか知らないが、大学院時代には某有名病理学者から恩顧を受け、その分野では今でも数多く引用される論文を書き上げた(やる時はやる男なのだ)。

この研究成果のおかげで恩師はドイツの某有名大学に2年半間留学する。

当時の医局では"留学は1年まで"という暗黙ルールがあったのだが、恩師は様々な理由をつけてはなかなか帰国しなかった。

結局2年半での留学で恩師は論文は書かなかった。

代わりに思いっきり欧州文化を吸い込み、"人生を楽しむ極意"を体得して凱旋したのだ。

特にワインに対する造詣は深まり、誰が呼んだか知らないが「ドクトル・ソムリエ」の二つ名を持つほどであった。


【精神科医、感慨に浸る】

研究会は第一部が症例発表、第二部が招待講演と二部構成であった。

症例発表とはその名の通り発表者が経験した症例を紹介する場であり、この研究会においては研修医や医員など若手医師の登竜門的位置づけであった。

招待講演とは研究会の「目玉」であり近辺・遠方に関わらず有名医師・研究者を招き最近のトピックについて語っていただく企画である。

勿論我らがドクトル・ソムリエは...、第一部の座長(司会者)であった。

最後に会ってから随分経つが、遠目でも「彼」とわかる佇まいであった。

「(この感覚、前にあったなぁ...)」

精神科医は、感慨に浸った。

確かに恩師を目にするのは久方ぶりであったが、このノスタルジアには別の理由がある。

何を隠そう精神科医も同研究会で症例発表したことがあったのだ。

当時の精神科医は医師になって3年目であり、これだけ多くの医師らの前で発表するのは人生で初めてだった。

これは別の機会で語ろうと思うが、精神科医は若い頃から社交不安障害の傾向があり、プレゼンテーションにおいて何度か苦い経験がある。

従って当初症例発表のオファーがあったときは即断ったが恩師から…、

先生は今後多くの人に影響を与える医師になると思うだから早めにプレゼンテーションには慣れた方が良い

と煽てられ、この役を買ったことを記憶している。

実際、医師になるとカンファレンスだけでなく、学会・講演会等でプレゼンをする機会がある。

恩師のおかげで精神科医はこの症例発表を機に人前で話すことに慣れ、大学院を卒業する頃には海外で外国人の聴衆を前でプレゼンを行えるようになった(これもまた別の機会に語ろう)。


【精神科医、恩師に会う】

数多くの質疑応答がなされ研究会は盛況のうちに終了した。

我が恩師も無難に座長の役目を果たしていた。

研究会が終わると出席者の多くが隣接する大広間に案内された。

そこには純白のテーブルクロスに覆われた丸テーブルがいくつもあり、それぞれのテーブルにはグラスと数本瓶ビールが置いてあった。

さらに大広間の壁際に沿って会場を囲むように和洋中のさまざまな料理が並べられていた。

情報交換会…要するに立食パーティーがはじまるのだ。

当時製薬会社主催の研究会のほぼ全てにおいて、"情報交換"と称した立食パーティーが開催されていた。

勿論、情報交換会への参加は無料である。

余談であるが、情報交換会のクオリティは製薬会社の売上に比例し、当時"ブロックバスター薬"を販売していた某外資系会社が主催すると、寿司職人がその場でお寿司を握り、コック帽を被ったシェフが会場で牛肉を焼いてくれた。
一方、製薬会社でも売上なイマイチなところが主催するパーティーはグレードは落ち、焼きそばや焼き鳥など庶民的料理が並ぶことが多い。

これまた余談であるが、この手の情報交換会(パーティー)は現在でも行われているが、近年はその規模は縮小しつつある。理由はコロナ禍により研究会自体がオンライン開催が増えたこと、そしてコンプライアンス強化のせいか製薬会社の財布の紐が堅くなったことが考えられる。


製薬会社の支部長の挨拶の後、市内クリニックの名物院長が笑いをとりながら乾杯の音頭をとる。

明朗快活な"乾杯"の声を合図に参加者らは寿司カウンターや鉄板焼カウンターに参加者たちは列を作った。

空腹でふらつきながら精神科医も行列にお行儀よく並び、ようやく寿司にありついた。

「(美味!)😋」

中トロとイクラをパクつきビールを胃に流し込みながら恩師の姿を探す。

「(いた!)」

恩師はお寿司や鉄板焼きの列には並ばずワイングラスを片手に、研究会の演者らと談笑していた。

その凛とした佇まいは、紛れもなく「ドクトル・ソムリエ」であった。

精神科医は、会場の片隅に設けられたバーカウンターで赤ワインを受け取ると人混みをかき分けて恩師に近づいていった。

恩師は他の医師らと話し込んでいるようだったので、声をかけるタイミングを見計らう。

不審者(ストーカー)のように視線を送った甲斐あり、恩師も精神科医の存在にようやく気がついた。

「先生、お久しぶりです!」

ペコリと頭を下げ、精神科医は恩師との距離を縮めた。

「おぉ...、鹿冶先生。お久しぶり。元気そうで何より」

ワイングラスを軽くあげた恩師の目元に小皺が寄る。

「はい、先生もお元気そうですね。帰国してから挨拶が遅れて...」

精神科医は再度深々と頭を下げた。

「ははは...、まぁそう堅苦しくならずに。...で、そろそろ大学の戻れそうなのかい?」

この恩師は本当に話が早い。

「実は...」

精神科医は心許なさそうにワイングラスのステムに両手を添え、なかなか大学戻れない現状について説明した。

「なるほど...」

ドクトル・ソムリエは探偵が考察を巡らせるかのごとく、ワインをスワリングしながら精神科医の訴えに耳を傾けた。

「...と言うわけで、そろそろアカデミックキャリアは諦めようかと...」

自分でも情けない話をしていると思った。

上官に戦線離脱の許可を請う兵士の心境とはこのようなものかもしれない。

すると恩師は思いがけない言葉を精神科医にかけた。

うちに来る...?


<中編に続く!>


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