【書評:ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』】遍在する「私」
小説内のリアリズムとは?
小説の世界にはリアリズムと呼ばれるものがある。科学の産物であるそれは主に視覚的な情報を正確に切り取るのがよいとされる価値観で、風景を描く際に顕著に現れ、同じ風景をリアリズムに則って書けば同じような内容になると思われている。ところが冷静に考えれば、身長が違えば見えるものも身長差の分だけ違うはずなのに、小説の中で描写するとなると、言語は風景を前にしたときの身体的個人差を均してしまう。同じ風景や物事は同じ言葉で表し得ると錯覚させる——言い換えれば個人差を抹消する——働きが言葉にはあり、この言語の殺傷能力が社会的な統一を強めることに一役かっている。
フローベールをはじめとした十九世紀の小説では、リアリズムの問題は死角にあり、むしろより優れたリアリズムの描写を生み出すことが小説の一つの争点だった。優れた作家がこぞってこの争点を極めた結果、二十世紀に入る頃にはリアリズムの文章は行き着くところまで行き着き、リアリズムを生み出した科学は繁栄を極めた。そこに勃発したのが第一次世界大戦である。戦争は西洋からすべてを奪った。日本人の感覚では戦争といえば第二次世界大戦だが、西洋においてはむしろ第一次世界大戦の衝撃の方が強く、大戦によって科学への信頼、宗教の力、人生の拠り所となるもの、こういった生きる基盤となるもの一切が信頼を失ってしまった。このような世界において人はどのように生きることができるか、この倫理を示したのがヴァージニア・ウルフによる『ダロウェイ夫人』である。
風をはらんで揺れるカーテンのように、この作品の語りは登場人物たちの心の中を自由にたゆたい、意識の中に眠る声を呼び覚ましていく。題名が指し示す作中の中心人物、クラリッサ・ダロウェイを軸に、第一次世界大戦に従事したセプティマス、クラリッサの夫リチャード、思春期に同性愛的関係にあったサリー、元恋人のピーター・ウォルシュ、娘のエリザベスといった人物が焦点となる。彼らの声が重なることによって浮き彫りになるのは個々人の感覚の差だ。ロンドンの一日はある者にとっては灰色の無味乾燥な世界だが、ある者にとっては——たとえばクラリッサ・ダロウェイにとっては——「大気の中へ飛び込んでいく」ような煌びやかな時間となる。
冒頭、クラリッサの意識を介して描かれるのは、誰もが己れの人生を愛する生命力に満ちた世界であり、他に代えられない唯一無二の瞬間の連続である人生を享受する彼女の姿である。クリケット場の若者、競馬場の馬、緑に輝くグランドや芝、公園で赤子に乳を含ませる母親、ペリカンや水鳥のいる瑞々しい風景、クラリッサはそんなものに囲まれて歓喜の絶頂にいる。彼女にとって生きることは喜びに満ちたものだ。だからこそ老いや死の恐怖は耐えがたい。スペイン風邪に罹って以来、老いの痕跡をありありと外見に刻んだクラリッサがこの恐怖と無縁であったとは思えず、冒頭の語りが風景を通して生命の歓喜を歌いあげる一方で、第一次世界大戦による暗い影——無数の死者、息子や大事な誰かを失った友人たち——が並行して書きつけられる。この配置は作者の単なる気紛れではないはずだ。クラリッサの分身とされるセプティマスは、戦争によるPDSD(シェルショック)により精神が崩壊しつつあり、結末において自殺する運命を持つが、彼が作中において最初に登場するのは、冒頭の場面に登場する、クラリッサが感動の目で眺めたのと同じボンド・ストリートに他ならない。人生の歓喜と死の影は常に隣り合わせなのである。
風景の中に生き続ける死者
第一次世界大戦が終わったばかりの六月のロンドンが舞台となっているこの作品において、宗教や大義は意味を失っている。敬虔なキリスト教徒となっている娘、エリザベスを見て、クラリッサは宗教は人生の一コマに過ぎず、人を無感覚にさせるものだと述懐する。宗教にも、大義にも、そして科学にも、もはや大きな力はなく、それらは拠り所にして生きられるようなものではなくなっている。人生に目的などなく、人間はやがて老いて死ぬだけの存在。このような世界にあって唯一可能な倫理は、クラリッサのように人生の瞬間瞬間を享受する姿勢である。断片的な瞬間の連続である人生を享受すること、これがこの作品の基本的な倫理観となっている。クラリッサの分身だと作者による前書きで明かられるセプティマスが「無感覚」の罪によって最終的には死に至ることからも、この倫理観が示される。クラリッサが体現するこの倫理は次のような形で死者を生かすことに繋がる
建築家の荒川修二がどこかで書いていたことだが、毎日歩いて親しんだ道はその人の延長になる。死体となっても髪の毛はまだ生きていて数ミリずつ伸びるという科学的事実のように、人間は死後も道や木や家の姿をとって生き残ることがあるのだという。毎日歩いて親しんだ道は「私」の延長になるという、この思想を仮に『遍在する「私」』と呼ぶなら、この思想と共通する述懐を作中でクラリッサは幾度かつぶやく。
「私」の死後もかたちを変えて命がつづくなら、大戦によって失われた命もまたそのようにしてロンドンのある一日の中を生きているのではないか。誰かが生前にブナの木の美しさに感動したとき、その感動は木の中に残り、通りかかった者の意識に影響する。毎日の何気ない瞬間を享楽するとは、遍在する死者たちと意識を共有することであり、彼らの影響から生まれた楽しさによって彼らの命を肯定することにつながるのである。これがクラリッサの姿勢を倫理と呼ぶ理由であり、こういう倫理を持った人にはある特別な瞬間が訪れる。たとえば次のような場面——通りに面した書店のショーウィンドーに目を止め、重い病気で入院している女友達に持っていく本を探すという場面——がそうだ。陳列された無数の本を眺め渡したクラリッサは、やがて「あの干からびた小柄な女の顔に、ほんの一瞬でも暖かな友情の表情を浮かばせるような本は、一冊もない」と気づく。「わたしはどんなに望んでいるだろう——部屋に入っていったときに相手が嬉しそうにするのを」、こう考えたクラリッサはすぐにきびすを返し、なにかをするのにいちいち理由をつけるのは馬鹿げていると自己批判をはじめる。しかし読者には彼女が馬鹿げているとは思えない。読者の胸にあるのは、この場面の美しさといったら! という感嘆である。ウルフの小説にはしばしばこういう瞬間が訪れる。風景に絶景があるように、人の心にも「絶景」と呼べるような美しい瞬間があるとするなら、人物の意識の流れを追うことで「絶景」を掬いとるウルフの天才にはいつも惹きつけられて止まない。そしてこの感動を生み出しているのが風景として生きつづける死者たちの力なのである。
死者たちの力は必ずしも人間にとっていいものであるとは限らない。無感覚の病に陥っているセプティマスはクラリッサと同じ「鳥の嘴のような鼻」を持つが、彼がクラリッサと同じ景色を見て抱く感慨は真逆のものになっている。クラリッサが死者たちの力を得て歓喜を見る光景に、彼は脅威を感じるのである。木の葉や枝の一本一本が戦場で別れたかつての仲間となって、生き残った自分を責め、手招きする。セプティマスの幻覚がこのように恐ろしいのは、クラリッサの観察が喜ばしいのとちょうど反対になっており、注意深い読者には二人の意識の流れがきれいにポジとネガになっていることに気づくだろう。二人が分身の関係にあることは作者によって言及されているが、そんな注がなくとも明らかなのである。
書かれることによって永遠に残る
ポジとネガは容易に逆転し得る。クラリッサが抱えるネガの部分を見てみよう。
人の無意識はしばしば手の動きに現れる。クラリッサの無意識は、パーティの準備をする使用人のルーシーが、いるかの置物を時計に向けてディスプレイしたときに現れた。クラリッサは思わずそれを正面に向け直すのである。時計=時間の進行=老いから顔を背けたい、という彼女の無意識の現れだ。彼女は確実に老いている。五十二歳という年齢のためではなく、スペイン風邪のダメージで髪の毛が真っ白になってしまったからでもなく、彼女が選んだ人生によって、彼女は老いたのである。クラリッサの夫リチャードは政治家であり、社会的な地位は得たが、仕事では成功に一歩届かず、熱意を持てるような大事業とは無縁の職務を律儀に果たしている。これはクラリッサが選んだ人生の写し鏡である。リチャードはクラリッサに静かな生活の喜びを与えてくれる代わりに、思春期にサリーに対して感じたような情熱、過去の恋人ピーター・ウォルシュとの間に生じた緊張をはらんだ熱意、そういったものを失うことになった。過去の決定的瞬間、クラリッサはピーターを捨てリチャードを選んだが、その選択の結果が現在の彼女なのである。セプティマスを影に持つ彼女は、生に絶望し死に向かいつつある。
スペイン風邪の静養で屋根裏部屋を寝室にして以来、彼女のベッドは狭くて清潔なものになった。シーツにシワがよることはなく、眠れない夜に読書をする他には使われていない。つまりリチャードとの夫婦生活が途絶えているのである。結婚してかつての魅力を失ったサリーは、そのかわり五人も子供を産んで育てており、夫婦生活は円満なようである。ピーターは成功とは無縁の人生を送ることになったが、五十を過ぎた今でも真剣な恋をして瑞々しく生きている。二人ともクラリッサとは対照的な人生を選んだ。そのことを彼女はまざまざと見せつけられる。老いとはこのときに彼女の中に生じる感情であり、時計を見るいるかの置物につい手を伸ばしてしまう無意識である。鏡に向かって顔を整え、パーティのホストとしての装いをつくろう彼女がうちに押さえ込むのは、老いへの恐怖と自殺願望に他ならない。
人妻との恋を抱えてインドから帰国したピーターがそんなクラリッサとひさしぶりの再会を果たす場面は、この作品の中でも指折りの名場面だ。メタファーを駆使して二人の意識が剣のように交差し火花を散らす様が巧みに描かれる。かつては結婚も考え合った間柄ではお互いの内心が明言しなくとも手に取るようにわかってしまい、有言と無言を跨いだ決闘がはじまる。このとき、ピーターはクラリッサの中にかつてとは違う性質を見出し、自分が戦っているものを理解する。それは瞬間への歓喜や富と引き換えに、情熱を失い、毎日に諦念する人生——リチャード・ダロウェイがもたらした人生——である。戦いの中でピーターは不意の涙に襲われる。クラリッサと結婚していたかもしれないのにできなかった、という思いに不意に襲われたのと同時に、クラリッサもまた同じ思いに駆られ、自分と結婚していれば毎日に諦念することもなく情熱の中で生きていたという思いに打たれていることに気づく。彼女への悲しみの込もった共感が涙となって溢れ、ありったけの思いやりを込めてピーターは「しあわせなのかい?」と問いかける。しかしリチャードからの、諦念と歓喜の人生からの援軍がやってきて、今からでも駆け落ちしたかもしれない二人の可能性とピーターの問いを断ち切る。娘のエリザベスがその場に現れたのである。勝者のいない決闘が終わりを迎えたとき、ビック・ベンが十一時半を告げる鐘の音を響かせる。乱暴に、なにかを引き裂くように。作中、しばしば印象的に顔を覗かせるこの時計は、クラリッサにとっては老いと空白、情熱の喪失を意味するもののように聞こえる。
同じ音を耳にしたクラリッサの影、セプティマスはうつらうつらと人生を振り返る。シェイクスピアを教えていた教師に恋をしたこと。「シェイクスピアの劇と緑色の服を着て広場を散策するミス・イザベル・ポールだけから成り立っているといっていい祖国イギリスを救うため」に出願し、義勇兵になったこと。そこで親友と出会うが、この戦友は終戦の間際にイタリアで戦死したこと。報せを受けたとき、塹壕の中で破裂する砲弾の音を聞きつづけていたセプティマスはなにも感じられなかった。悲しみも怒りも、なにも。なにも感じられない! 恐怖が彼を捉えた。花のうつくしさも女の魅力も、味覚も嗅覚も、なにも感じられない。頭で考えることはできるが、それだけになってしまった。セプティマスは苦悩の末、恋した人の妹に求婚する。薄暮ですらあるが自分に安心を与えてくれる娘と残された虚無の時間を過ごすことを選んだのである。二人が結婚し、イタリアからロンドンに移り、現在に至るまでの流れを追う文章は悲しくうつくしい。
ビック・ベンの鐘が鳴り止んだ頃、一人残されたクラリッサは自分がパーティを好むことについて、元恋人のピーターから俗物だと暗に非難され、夫が興奮して心臓に悪いのに子どもじみていると思っているのを察し、二人に対してこう自己弁護する。ふたりとも間違っているわ、わたしが求めているのはただ人生だけなのだから、と。
ピーターが「あなたのパーティの意味はなんです?」と訊ねたと仮定して、クラリッサは「捧げ物です」と答える。ひどく漠然としていて誰にも理解してもらえないかもしれないと彼女が言う通り、この「捧げ物」がなんなのかは容易には見えてこない。架空の議論の中でクラリッサはパーティと対置する形で、五十を過ぎても恋愛に翻弄されるピーターの愛を挙げる。ピーターは愛とは「世界じゅうでいちばん大切なものです。女性にはけっしてわからないでしょうがね」と言うが、逆に「捧げ物」を理解してくれる男性はいるかしらと彼女は問う。
それは誰に対する捧げ物かと自問し、クラリッサは「おそらく捧げ物のための捧げ物だ」と答える。それは宗教や大義には収束しない。人生の瞬間がそのようなものにつながらないように。「捧げ物のための捧げ物」とは瞬間を享楽する倫理に通じるものなのである。
クラリッサは娘に対して自分とは性質が違うと判断しているが、この倫理はエリザベスの中にも間違いなく受け継がれ、クラリッサの血として確かに流れている。デパートに出かけた帰り道、バスに乗ったエリザベスは降りるはずの停留所を越えてふだんは足を踏み入れない通りに寄り道をする。そこでラッパを吹き鳴らす失業者のデモに遭遇するのだが、このときエリザベスが抱く感慨がクラリッサの倫理に通じるものなのである。彼女は通りに面した家の一つに、いま臨終のときを迎えている家庭があったとしたら、と想像する。たとえばある女の人が息を引き取ったとして、最期を看取っていた家族が窓を開け通りを見下ろせば、その人の耳はこのデモの喧噪に満たされる。
人の死も悲しみも喧噪に呑み込まれてしまうが、喧噪がある限りそれらは消えることがない。エリザベスが言うのは人の死後も形を変えて残る意識であり、デモの喧噪という瞬間が無数の死者や無数の悲しみを内包しそれらを生かす形で存在していることなのである。これはクラリッサが瞬間を享楽しようとする倫理に通じるものだ。
エリザベスは「ある女の人」として想像した死者は、次の場面ではセプティマスという具体となって現れる。自殺を敢行する直前、彼は一時的に病から解放され、久方ぶりの夫婦水入らずの時間を過ごす。セプティマスが裁縫する妻を優しく見つめ、妻のレイツェアが喜びに震え涙するこの場面は作中で最も美しい。この美しさは、デモの喧噪が死者を留めるように、書かれることによって永遠に残る。
鎮魂の試み
自殺したセプティマスの、もう助からないであろう身体を救急車が運んでいく。サイレンの音を耳にしながら、クラリッサと再会したために感情的に大きな揺れを経験したピーターは、そのような状態のなかで青春時代にクラリッサが語ったことを思い出す。バスの二階に同席していた彼女が座席の背を叩きながら、自分があらゆる場所に存在している感じがするの、と言ったのだ。手を大きく振って車窓に見える通りのすべてを指しながら、こうつづける。
直前の場面で死を選んだセプティマスもまた「見えない部分」としてピーターに寄り添っている。ちょうど過去を回想しているピーターの耳に意識されずとも救急車のサイレンが聞こえつづけているように。それは招待されたピーターが出席するか迷いながらもクラリッサのパーティに顔を出し、人々に取り囲まれる彼女に隅から批判的な眼差しを向ける場面でも同じである。パーティの華やぎには影となったセプティマスが潜んでいる。
成功の兆しを見せはじめたパーティのなか、ホストであるクラリッサは階段の上に杭のように立ちながらこんな感慨を抱く。
人魚のような優雅さと輝きで総理大臣を迎えたクラリッサはつかの間の陶酔に浸るが、一方でその感情が見せかけであり、空しさをはらんでいることを意識する。老いが彼女から昔のような満足感を奪ってしまったのである。そこにセプティマスの主治医が妻を伴って現れる。二人はパーティに遅れたことを詫び、夫の方がリチャードとなにやら話し込みはじめる。妻の方がクラリッサに近より、今日起、若い青年が自殺したことを話題にする。夫が話しているのもきっとそのことよ、と。クラリッサはわたしのパーティに死を持ち込むとは! と憤りつつ、死について彼女なりの思いを馳せる。そこで対置されるのはやはり老いだ。青年がなぜ自殺したのかはわからないが、彼は一日一日の生活の中で堕落や嘘やおしゃべりとなって失われていくものを守ったと考える。人間にはある中心があって、人びとはその中心に到達することを願うが、それは不思議に自分たちを逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、人は孤独に取り残される。青年はそのような老いの運命に挑戦したのである。クラリッサは「いま死ねば、このうえなく幸福だろう」と感じたことがあるのを思い出す。若さを保って自らこの世を去る命、若くして戦場で散る命、生きながらえ凡庸になる命……
老いへの敗北を意識したクラリッサが広間の喧噪を離れて窓辺によると、窓越しに、隣家のおばあさんがベッドに入ろうしている場面と出会う。こちらではみんなが笑ったり叫んだりしているのに、あのおばあさんはもう寝ようとしている。その光景はクラリッサには魅力的に映る。おばあさんの姿を介して彼女は老いることにも美しさがあると知るのである。ふいに訪れた老いの肯定を持って広間に戻ると、そこには青春時代を共有したサリーとピーターが彼女を待っていた。
小説はここで幕を閉じるが、最後にリアリズムの話に戻りたい。
風景を言葉で完全に再現しようとするとアキレスと亀のパラドックスのように終わらない細分化に陥り、言語は視覚的なものを完全には再現できないという自明の理解に改めてぶつかることになる。視覚に属するものでなければ限界はないのかというとそうではなく、人の思考や意識であっても、完全な再現を目指せば同じパラドックスに陥るだろう。意識の流れを完全に再現することはできないのだ。人の意識は必ずしも言葉だけで成るわけではなく、断片的なイメージや匂いの記憶、動きの感覚、触った感触といった雑多なものの総合であり、言葉しかない小説でそれらを完全に再現することには限界がある。しかし、個々人の声を書きつけていくことで小説に固有のリアリティが生まれることがある。ドストエフスキーの登場人物はみな多弁だが、現実にあれほど口数の多い人間ばかりがいるわけではないといって批判してもドストエフスキー作品の魅力が少しも半減しないように、小説に固有のリアリティは現実とぴったりとは重ならないがその一部を確実に捉えることができる。
ウィリアム・ジェイムズによって提唱された、当時最先端の科学的アプローチを駆使して書かれたのがモダニズム文学における意識の流れであり、意識の流れは科学的アプローチでありながら言語の殺傷能力を相殺する方向に働く。科学の産物である自然主義リアリズムに対して一種の批判になっているのだ。今では前時代の古びた方法論として唾棄された意識の流れだが、この方法の批判的力は未だ有効なのではないだろうか。意識の中にある個人の声を重ねていくことで、失われた身体的個人差をページの上に蘇らせる力を持っているのではないかと、ひとりの書き手として夢想する。その力は生者のみならず死者たちの声をも拾い、彼らの命を肯定する。ヴァージニア・ウルフによる『ダロウェイ夫人』は、意識の流れを介し、人生の悲劇に散った命へなんとか救いをもたらそうとした鎮魂の試みなのである。
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