読書記録「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、J.D.サリンジャー 村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」白泉社 (2006) です!
・あらすじ
これから君たちに話すのは、去年のクリスマス前後に、僕(ホールデン・コールフィールド)の身に起こったどたばたについてだ。
その頃、僕は学校を追い出されたばかりだった。ペンシー・プレップスクールというとんでもなくくそったれしかいない学校さ。
いや、全員がくそったれなわけじゃないぜ。きっと2人くらいはちょっとましな生徒はいただろうけれども、そういうやつは、入学する前から、ちょっとましだっただけだね。
教師もろくな奴がいないんだ。大体、学校から追い出すってのに、「グッドラック!」だなんて言って欲しくないよね。そういうのって、ひどく参っちまうんだ。
そんな話はどうでも良い。どうせ僕は学校を退学されたのだから。
だけどなにしろ時期が悪い。クリスマス休暇前だってのに、今家に戻ったら母親はきっと、いや絶対にヒステリーになるだろう。
そんなわけで、僕はニューヨークでしばらく暇を過ごすと決めたんだ。ホテルに泊まって、バーで酒を飲んで過ごせばいいと。
僕は未成年だけど、背は人よりも高いし、おまけに白髪も生えているものだから、お酒が飲めるんだ。もっとも、いつでも要望が叶うわけではないけどもね。
だけど、いざペンシーを離れるとなると、あんなくそったれな学校でも、名残惜しくなるものなんだよ。分かるだろう?
もっとも、ニューヨークが退屈しのぎになるかって言ったら、そうでもないんだけどね。
劇場も、映画も、プロ気取りのピアニストも、知り合いですら、皆うそっぱちさ……。
東京読書倶楽部の読書会で、今年になって3回ほど紹介を受けた作品。その中の一人は、学生時代に読んで以来、人生の根底を支えていると語っていた本著。
いつかは読みたいと思っていたところ、神保町はブックフェスティバルの白泉社ブースにて見かけて、この度紐解いた次第。
ここ最近、心がくさくさしていたのは、この本の影響なんじゃないかってくらいには、感情移入してしまうほど読み耽っていた。
あらすじで書いた内容が誇張じゃないくらいに、僕ことホールデンは、何もかもが嫌で嫌で仕方なくなるほど落ちている。
学校も、ルームメイトも、先生も、映画も、一部の文学作品も、演劇も、ガールフレンドも。とにかく人間全般に関わることがすべて嫌でいる。
普段は真面目そうな顔をしているのに、裏では破廉恥なことをしている人間がいると思うだけでも、気が滅入ってしまう。
そんなホールデンにも、「好き」と言えるものはある。
一番は若くして亡くなった弟 アリー。そして妹のファービー。それから公園で遊ぶ小さい子どもとかだ。
この一節から感じる通り、別にホールデンがロリコンってわけではなさそう。
ただ、ホールデンが求めているのは、彼(彼女)らの「純粋さ」なんだと思う。
汚れを知らず、それこそスラングな言葉の意味も知らなくて、純粋に生を全うしている姿に、一種に憧れを感じているのだろうか。
終盤、妹のファービーから「結局、お兄ちゃんは何が好きなの?将来何になりたいの?」と聞かれた時にも、(有名な)あのセリフを述べる。
ホールデンは博物館が好きだとも言っていた。なぜなら、そこは何もかもが「静止」しているからと。
変わっているのは、そこに来る来場者である「君ら」だけで、展示物は何一つ変わることなくそこにあり続けると。
だから若くして、純粋なまま亡くなったアリーに対して、(傍から見たら)異常なまでに思いを馳せる。
世の中の嫌な部分を見ずに生きていけたら、どれだけ幸せだろうか。
そりゃ私だって、なるべく平静は保っているけれども、人の嫌な部分を全く気にしないで生きているわけではない。
隣でこれみよがしに貧乏ゆすりをしている人とか、信号無視をしているくせに「悪いとは思っているよ」みたいな顔をする人とかね。
対象的に、赤ん坊を連れて散歩している親子とすれ違ったり、兄夫婦から送られる姪っ子の写真を見て、ホッとする気持ちも分かる。
別に彼(彼女)らが、私の人生に何らかの影響を与えているとは思わないのだが、なんか無性に気になってしまう。
だけどさ。ホールデン風に言わせれば、だからといって、人類全員が卑しいわけではないだろう。
そりゃ人の悪い部分が見えたとしても、根っからの悪者ってわけではない。たまたま悪い部分が見えただけかもしれない。
元を辿れば、同じように赤ん坊として生まれた人間なのだ。純粋さをまるっきり失ったわけではなかろうってね。
紐解いている間は、だいぶ本著の影響を受けた考え方をしまいがちであったが、読み終わってみれば、案外清々しさすら感じる作品でした。それではまた次回!