目に見えない病(やまい)
病(やまい)という言葉は嫌いだ
病気だからできない、病気だから諦めなければならない、病気でなければ、病気のせいで…
側(はた)から見たら言い訳に聞こえるだろうし、自分で自分自身にできないように言葉で呪いをかけているような感じがするからだ
そんな私は躁うつ病という病を抱えている
周りの人と変わらず働いているし、どちらかといえば健康だし、他者とのコミュニケーションもとれているほうだ
つまり何が言いたいかというと、この類の病気は「目に見えない病」ということだ
初めて心療内科で「うつ病」と診断を受けたのは21歳の時だった
繁忙期は月残業100時間を優に越えていたし、力仕事かつ常にプレッシャーをかけられる、精神的にも肉体的にも辛い仕事だった
私はうつという診断を受けて、医師に仕事を休みたいかどうか訊かれた
「いいえ、まだ頑張れます」
今から思えば、滑稽なほどの強がりだった
朝は7時出勤、夜は23時以降まで働いた、帰宅後はメイクも落とさず倒れるように寝たし、寝坊で遅刻することも多くなっていた、休日は一日中寝て潰したし、職場から電話がかかってきて対応に追われることも少なくなかった
気づけば肌も髪も体もボロボロで、爪はジーンズをたたむだけでポロポロと欠けていくほど脆くなっていた、一日中めまいが止まず、業務用ミシンで指を縫ったこともあった、腹痛もひどく、生理は3〜4ヶ月に1度しか来なくなっていた
職場に行くのが怖かった、でも職場に行かないと自分の居場所がなくなってしまう、そんな焦燥感があった、職場に行くのが怖いと認めてしまうのが怖かった、自分は精神的にも肉体的にも強い人間だと信じていたかった
「自分は精神病である」と認めるのに、一体何年かかっただろう?この8年の間に何度も病院に行くのを辞めたり、断薬したり、散々だった
心療内科の受付の事務員に失礼な態度を取られたことも何度もあった、心療内科に通っている、それだけで頭のおかしい人間だと、心の弱い人間だと見下されるのが苦痛だった、他人に対して「少なくともお前よりは辛いことをたくさん乗り越えてきている」と何度心の中で思ったことだろう
自分の中から醜い感情が蛆のように絶えず湧き出て、心底自分という人間に失望した、自分が自分でいられなかったし、そもそも自分とは何者であるかも分からなくなっていた、こんな自分など社会に必要ないと自死を考えて実行したことなど数えきれない
そんな私は、18歳で大学を中退してから28歳までの10年間、もちろん休職していた期間も何度もあるが、ほとんどの期間フルタイムの仕事をして過ごしていた
仕事をしていないと社会という共同体の中に入れない気がして、休むという選択肢が取れなかったのだ
もちろんその間、心療内科にかかったり精神病の診断を受けたことは会社側には話していない、面接や入社の際に「私は病気ではありません」と誓約書を書かせるところも少なくなかったが、悪びれず名前を書いた、あくまで健常者として働きたかったのだ
「見えない病」であることは私にとって好都合だった、嘘をついているという罪悪感はなかった、むしろ自分は嘘をついてでも働ける、ハードな仕事でもやっていけるという自信を得たかったし、仕事で認められれば認められるほど嬉しかった、自分は心底仕事が生きがいの人間なのだと実感した
転機は3年前、25歳の時だった、相変わらず仕事を頑張りすぎては体調を崩し転職を繰り返していた私は、ある仕事を辞めたタイミングで祖父が癌に冒されたことを知り、祖父母の住む田舎へ帰ることにした
田舎では昼間は近くの自動車学校で免許取得の授業を受けながら、夕方に家に戻り祖父母と3人で祖母お手製の田舎料理を食べた
自動車学校が休みの日は布団を干したり広い家の床掃除、電球の取り替えを手伝ったり、庭の柿を収穫して皮をナイフでとり、紐で括って干し柿にしたり、祖父の部屋にある大量の書籍から気になる本を引っ張り出し、ある時は植物図鑑の頁に唐突にイロハモミジの葉が挟まれているのを発見したりと、ゆったりとした日々を過ごした
そして私が自宅に戻ってから数週間後、祖父は静かに息を引き取った
祖父母の家にいたとき、祖父の様子を見て何となく嫌な予感がして、近しい親族に「なるべく早いうちに祖父に会いにきてほしい」と連絡していたため、親戚から「ヨウちゃんありがとう、ヨウちゃんのお陰で最後に会話ができて本当に良かった」と何度も感謝された
私は生まれてからずっと祖父に愛してもらって、そんな大切な祖父が亡くなり、私は今まで祖父に何ができただろう?とずっと頭を抱えていた、でも私の一声で親戚が集まって最後に会話できたことは、少しは重要な行いができたのかなと感じることができたし、自分の中にある家族への思いやりの気持ちを周りに伝えることができた、そのことがありのままの自分でも生きている価値があるし、きっと誰かの役に立てる時もあると感じたまさにその瞬間だったのだ
祖父が亡くなった後も様々な仕事を転々としたし、ハードワークに挑戦しては壁にぶつかり、何度も自分を嫌いになった、でも「集団の中にいなければ」という焦燥感や固定概念はだんだんと消えていった
そして27歳になり、会社という組織から離れ、フリーのイラストレーターとして自分の時間や仕事量を自分で調節できる仕事に転向することを決めた
周りからどう見られるか、ではなく、自分がどう生きたいか、の方が重要であるということ、そして、自分は何もできなくても無価値などではなく、自分らしく生きているだけで価値のある存在なのだと祖父から教えてもらったと思っている