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『推しとショボンヌ』を読む

 蒼井杏さんの第二歌集。ひらがなの多い、パワーとユーモアのある一冊だった。表紙の淡彩イラストも可愛すぎた。

 短歌をする人は、要領の悪い、不器用な人が多いという自論がある。偏見やろ~、と反論される向きもあろうが、自論なのでゆるしてほしい。不器用にも色々あるが、宣伝が下手とか自己アピールが苦手とか、対人関係に弱いとか、生きていくうえで不利なことこの上ない。歌を歌うことで、短歌を作ることでその逆境がくつがえるかというと、そんなことはなくて、だが現状把握を韻律のある詩で明快に示してもらえるので、我に帰ることが出来る。いったん落ち着くことが出来る。「今日も嫌なこと尽くしであったな」と、とぼとぼ家路を辿った夜に、でも歌集を読むと不器用だけど、まあしゃあない、不器用だし。ま、そんでもしたたかにやっていこうか、という気にさせられるので、そういう歌集はいい歌集だと思う。『推しとショボンヌ』良い歌集だった。

歌集より

ミシン目のさいごのさいごでしくじってだいなしにする春のやくそく

切手が、春のやくそくと直結してる。でも、しくじってもはがきは出しそう。出した結果、はたんが待ってたとしても、ミシン目をしくじったしなあ、と納得は出来るかもしれない。納得できたとしても結果は変わらないのに、しょうがないなあ、とゆるすことが出来そう。

おきかわりほろんでゆくほうのむかしの せいいっぱいの なつくさのみち

夏草やつわものどもが夢の跡、という芭蕉の奥の細道の句を思い出す。おきかわり、は古い細胞がどんどん新しい細胞に置き換わって、昔のものが分子レベルでなくなっていく寂しさが出てて、さびしさが、さらにさびしみを帯びる。その滅びの抵抗のように脳裏に浮かんでくるなつくさのみちは、永遠性を感じられて希望がある。幻想的な希望も、希望なので、なんとかなる。

ふんわりとラップをかけてあたためるスプーンで午後をくずしてゆきます

ラップをかけて温められてるのは午後で、スプーンでくずされるのも午後。太陽が沈みやがて闇が訪れるけれど、午後で腹はふくらんでるので大丈夫そうだ。

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