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夏の忘れ物【八〇〇文字の短編小説 #34】

わたしは何日か前にヨーロッパ旅行から帰ってきた。大学の同級生の美咲とロンドンやグラスゴー、パリやウィーンなどを訪れた。

帰国してすぐに東京の街を台風が襲った。大雨のなか、わたしはロフト付きのアパートで、ロンドンで買った川上未映子さんの『All the Lovers in the Night』を読んで一日をつぶした。スイスコテージ駅前で開かれていた骨董市で手に入れた古本だ。英語は得意じゃないけれど、『すべて真夜中の恋人たち』は日本語で読んでいたから話の内容はつかむことができた。

わたしもいつか彼女のように「女性であること」に正面から向き合う文章を書いてみたい。大学二年生になって取り始めた小説創作の講義ではまだ何も形にできていないけれど、めざすべきモデルはある。頭の片隅にはいつもハナ・ネドヴェドの処女作『それはわたしの名前じゃない』があって、どうにかして女性の強さを描きたいと考えている。

ハナは「水仙が枯れるころ」という短編で、二十八歳で自ら命を絶つケイトについて、「つまりは女性らしさ﹅﹅﹅﹅﹅とは縁遠く、けれども、どんなときも自分の意思でハイヒールを履き、わざと音を鳴らすように力強く歩いていた。ケイトはその音がまるで自分の鼓動であるかのように前へ前へと進んでいった」と記している。わたしも、こんな文章を一度は生み出してみたい。

今回の旅行では唯一心残りがある。わたしは日本に戻った自分に向けて手紙を書いた。異国の空気にふれ、短編小説のアイデアが浮かんだのだ。骨董市で二ポンドで買ったパーカーの万年筆とパリのホテルにあった便箋を使って、子どもを産まない選択をした女性──彼女の母親は自分を生んですぐに自殺した──の人生を走り書きした。

でも、その封筒をホテルに置き忘れてしまった。わたしの意欲は急速に消えた。まだ書く時期ではないのだろう。わたしは代わりにこの文章を仕上げ、「夏の忘れ物」という題名をつけた。

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