くちびるリビドー 番外編 『Who am I ?』
――わたし、ワタシ、私。
――ぼく、ボク、僕。
――おれ、オレ、俺。
人はどうやって、自分に馴染む「主語」というものを選び取るのだろう。
英語なら「I」で事足りることを、日本人は不思議なほど多様に表現したがる。そしてプライベートの《ore》と、公の場での《boku》とを、巧みに使い分けたりもする。
アイ、マイ、ミー、マイン。
アイ、マイ、ミー、マイン。
シンプルに、これでいい。簡単に記号化できる自分がいい。
だから……とりあえず自分のことは「NEO(ネオ)」と呼ぶことに決めた。漢字表記の「寧旺」ではなく、アルファベットの「NEO」の心持ちで。意味なんて、どこにも存在しないかのように――。
だけど結局、NEOはどこかへと消えてしまったわ。
そもそも「NEO」として気兼ねなく話せる相手は限られていたし、多くの場合は《boku》という音を必要に応じて「ぼく」とか「ボク」とか「僕」に変換させて用いていたわけだけど、出会ってしまったのよね。この「ワタシ」という最強のキャラクターに。
そう、これこそが彼からもらった最大のプレゼント。
「小泉寧旺という人間のために創りました」と、あのとき(シナリオとなる紙の束を直接手渡してくれたのよね)彼が口にした言葉は、そのままワタシの真実となった。もしかしたら、それ以上かしら。
彼が創り上げたこの役と出会って、演じて、あの瞬間――役を生きている間、ワタシは最高に自由だった。心の底からハッピーが満ちてきて、通り過ぎる街も、垣間見える空も、名前も知らない草花も、全部がバカみたいに愛おしかった。全人類を愛せるような気がしたわ。男でも女でもなく、だけど同時にどちらでもある、どちらにもなれる、変幻自在の……まさにマージナルな生き物! 容れ物はワタシに違いなかったけれど、中身は完全にワタシを超えていた。限りなく人間のふりをした、何か別の生命体のような。そのくらい、ただ愛だけが燃えていて、毎日が史上最大に「生きてる!」だった。
もう戻れないと思ったわ。初めて「役」から戻りたくないって、そう。本気でよ?
これを自分から引き剥がすくらいなら、もう役者なんてやめてもいい。このまま自分は「ワタシ」を生きていく。生きていこう。
だって、すべてがそこにあったんだもの。「ワタシ」で生きていく限り、何かを演じる必要なんてもはやない。これ以上のキャラクター、きっとどこにも存在しないし、二度と出会えない。それならもう、ドラマも映画も興味がない。そして創造主である彼とともに在る限り、この「ワタシ」は本物でいられる。すべての夢は現実になる。
だけど、神は死んでしまった。
あんなにも「小泉寧旺」という俳優を愛し、面白がってくれた人はいなかった。これから先も、おそらく現れることはないのだろう(絶対で唯一の、神は一人で充分だ)。
どこまで見抜かれていたのだろう。
そもそも、どうして一緒に過ごしてくれたのだろう。
いろんなことを理解し合っているようなふりをして、あえて言葉になどしようとせず、ただあなたに見つめられながら息をして、笑って、笑って、眩いスポットライトの中、集う人々を癒して、癒して、全部あなたの視線の先。世界は舞台となり、主人公は永遠に生き続ける。あなたが見ていてくれる。見ていてくれる。見ていてくれる。
それなのに……結局はまた、もの足りなくなったのだ。夢の果て、日常化していく現実に。あっという間に慣れていく自分自身に。
――もっと、もっと、もっと、もっと、光が欲しい! 人々の熱狂を! 喝采を!
何かが再び暴れ出す。あんなにも呑み込まれていたはずなのに、気がつけば、採り込んでいるのは自分のほうで、一日二十四時間、有り余るエネルギーを消費できない。外へ、外へ、拡大しようとする自分を止められない。
決して離れたくなんかないのに。このまま留まっていたいのに。
いつだって願いは叶わない。大切な人は、向こう側へと去っていく。
神さえも餌にして、この獰猛な「欲望」はどこへ向かっていくのだろう。
透明な容れ物に、人間のあらゆる側面を次々放り込んで、ドロドロに溶かし吸収して、ごちゃ混ぜに重ねて重ねて、キャラクターは更新され、世界に放たれ続ける。
更新され続けなくてはきっと、生きてはいけないのだ。
変化し続けることだけが、この命を明日へと向かわせる。
――もっと、もっと、照らしてくれ!
――I'm here ! I'm here !! I'm here !!!
こっちを見て。稲妻みたいにビリビリと、感電させてあげましょう。
あなたの心の一部を奪い去り、代わりに刻みたい。その記憶の片隅に、この命の欠片を焼き付けて――いつか忘れられるとしても、あなたが目にした事実は永遠。その肉体に、細胞に、何かがきっと残るはず。
*
わたし、ワタシ、私――?
ぼく、ボク、僕――?
おれ、オレ、俺――?
キミの求める「小泉寧旺」を教えてくれるなら、どんな人物にも化けてみせよう。
(性別を、この肉体を、母親に受け入れてもらえなかった「可哀相な男の子」がお好みなら、それでいい。そのせいで「男しか愛せない男」へと成長するほうが萌えるというなら、それでもいい。この美しさがきっと役に立つだろう。もしくはシンプルに「本当は心が女なの!」を期待されるなら、そうしようか?)
そうしてふわりと超えて行く。
眠る前に呼んで。
夢の中で待っていて。
(C)Kanata Coomi
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長編小説『くちびるリビドー』を楽しROOM
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