【杜若エッセイ】街の本屋さんで本を買う、ということ
2024.12.2追記
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(以下本文)
こんにちは。
かきつばたデス。
私は東京の人間なのだけど、このところ急に晩秋の色合い、初冬の空模様になってきたなとしみじみ感じます。
手の乾燥も激しいわ笑
いよいよこの一年も最後のひと月。
寒くなってきたので皆様ご自愛くださいませ。
では、サクッと本題に入ろうか。
▪️10代の頃の「本」は、特別で日常
近年、街から大型の書店がどんどん姿を消している。
私が今更言うまでもなく、もう何年も前から始まっていた本屋さんの衰退。
街の本屋さんのラインナップを見ればその街が分かるなんて言われていたけれど、今はその本屋さんそのものが無い。
10代の頃、駅前の本屋さんは情報のオアシスだった。
文房具を買うためだったり、参考書を探すためだったり、マンガの新刊をゲットするためだったり、、特に意味はないけどフラッと立ち寄ったり。
そんな場所だった。
私にとっては、学校と家の中だけでは決して教えて貰えない、異文化とも社会とも言うべきものとの出会いの場。
そういえばあのお店、店内BGMはなぜかいつも決まってピアノのソナチネだったなぁ。(♪ドーミソ シ〜〜ドレドー)
だから今でもその曲を聴くと本屋さんを思い出してしまう。
19の頃は縁あって神保町にも脚繁く通った。
普通の書店には絶対置いてない、意味の分からないサブカル的な文庫本や、おどろおどろしいサイケデリックなラヴクラフト集とか買ってみたことが記憶に残っている。
100円のワゴンセール品だからという理由で読みたいときにサラッと買ってしまうため、気付いたら川端康成の雪国を3冊も持っていた。
新刊の本そのものはあまり買えないけれど、お茶の水の丸善にもよく行った。
こちらは、海外からの輸入品のワゴンセールを物色するのが楽しみだった。
あの頃の私はお金が無かった。
友人にはかなり恵まれていたけれど、友達とカラオケに行くとか、可愛い服を駅ナカのビルで買うとか、そんな贅沢とは無縁の学生だった。
神保町界隈の純喫茶に永遠の憧れがあるのは、貧乏時代の私には行けなかった大人の世界だからだと思う。
当時は疲れ切るまで歩き通すしかなかった私は、コーヒーを啜るたび「なりたい大人」になれた喜びも一緒に味わっているのである。
(実はね笑)
私の青春。
音楽と、スノーボードと、語学。
それから、本。(と、バイトとちょっと男の子)
音楽とスノーボードはとにかくお金がかかった。
その点、「本」のコスパは抜群だった。
お金のない学生の楽しみ。
一人の時間の「友」であり、多感な時代に私という人格を形作ってくれた「礎」そのものだったと思う。
▪️街から本屋さんが消えたのは、誰のせい?
そんな私が大人になり、社会人としてお金を稼ぐようになった頃から、Amazonが急激に台頭してきた。
平日は仕事、週末は趣味のスノーボード…
とにかく多忙な上、移動は全て車が基本だったこともあり、本を読む時間はほとんど無い2年間を過ごした。
周辺の人たちにも読書習慣があまりなかったようにも思う。
今思えば、環境の力とは大きなものだ。
社会人3年目で転職をし東京に住み始めたのだが、その街にはなんと、本屋がなかった。
古本屋しかなかったのである。
(念のため言っとくけど、所得層はかなり高い街です)
驚いた。この街に本屋がないだって??と。
仕方なく、古本屋さんとコンビニ、もしくはAmazonで書籍を賄っていた。
結婚し子どもが生まれてからは、とにかく絵本を買い与えたかった。
けれど絵本はあんな薄いのに(失礼!笑)お値段はまぁまぁする。(そりゃカラーだし紙も違うしね…)
メルカリやヤフオクでまとめ売りをせっせと購入した。
そして今。
本を入手するときは、
図書館・メルカリ・Amazon。
このどれか。
よくよく考えてみる。
街に本屋がないのは、私のせいだ。
▪️書店で本を購入するという「徳」
で、思った。
Kindleだって別に悪くない。
なんなら早々に飛びついて買ったクチだ。
でも、でも、やっぱり。
どんなに小さな力でも、私の消費行動を変えるべきなんだ。例え一冊でも、街の本屋さんで本を買う事が、本屋さんが残る唯一の道なんだから。
昨晩、私は己に恐れ慄いた。
気になる本をここnoteで見つけたのだが、私は何も考えずメルカリで検索し、新刊だから出物がないとわかるとAmazonでポチろうとした。
息を吸うようだった。
…いや、待てよ。
明日、本屋さんで買えばいいじゃないか。
ひとつでも「徳」を積みたくなった。
そんなわけで、今日は街の本屋さんを訪れてみた。
小さなお店だけど、それでもたくさんの書籍のタイトルが目に飛び込んでくる。
ネットの世界の「オススメ」では絶対に出会えない本達との出会い。
これが、世界だ。
ランダムに溢れた情報だが、たくさんの人たちの目と手を通った、たしかな頭脳と心の集大成。
人間を人間たらしめる一要素、それが「書物」。
なんだろう。
ワクワクした。
偶然の出会いに、人類の叡智に。
それと同時に、お会計の金額を見て、ものすごく贅沢なことをしている、とも思った。
(いや、本代はケチってはいけない!と己を鼓舞しながらカードを切った)
▪️同志としての「本好き」のトキメキ
ところで。
今の大人は、紙の本を愛好する者同士はどこか、何も語る前から「同志」のように感じるところがある気がするのだが、それは私だけだろうか?
きっと己の礎を本の世界に持っている、という共通言語のようなものを勝手に感じてしまうのだ。
音楽好き、スポーツ好き、お酒好き…本好き。
そんな感じに、紙の本を読むか読まないかは既に万人のものではなく特別な「趣味」になってしまったように思う。
紙巻きタバコを吸う、みたいに。
先日、まだあまり通い慣れていないバーでのこと。
たまたまそこに並んで座っただけだが、お隣に座った方も私も互いに、カウンターに本を置いていた。
そこからなんとなく、「何かこの人は…話ができそうだ」と感じ取った。
何を読んでいるのか?という質問をきっかけにして、たいそう話に花が咲いた。
バーテンダーさん曰く、この店の常連さんは本好きが多いという。そういう本人も、紙の本が好きだと言う。
バーテンさんが本好きだから、本好き同士で親近感が湧くのかもしれない。
あのお隣の方も常連だというから、またあのバーに行けば楽しくお話をするだろう。
良い出会いだった。
私がよく行く純喫茶でも、同じような感情を持つ事がある。
紙の本を読む人に、フッと惹かれる。
その姿、醸す雰囲気、軸を感じる生き方に。
▪️終わりに
そんなわけで、私は今後の消費行動を変えようと思う。
それなりに稼げるようになった大人として、恩返しとして、当然の対価として。
本に携わるすべての人と、最新の本が物理的に集積する場所、価値のある情報や娯楽の源泉を守るために。
これからは、
紙の本を、街の本屋さんで購入する。
うん。そうする。