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フジテレビ問題を予言した2冊の哲学書 井上達夫『共生の作法』、アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』
「1980年代問題」と知識人
中居正広とフジテレビの問題によって、「1980年代」が裁かれている。
ーーという問題意識を、社会学者の與那覇潤さんは持っている。
「悪ノリも全然アリな内輪ネタ」を横行させた、1980年代の病症を、フジテレビがいまだに引き摺っている、という診断だ。
その観点から、彼はnoteに「フジテレビ・中居くん問題を生んだ「終わらない80年代」」という記事を書いた。
その記事は、私も以前紹介した。
彼はこう書いている。
当時から、どこに問題があるのかを、知的に考える人は知っていた。だけど今日に至るまで、どうすれば解決できるのかが、誰にもわからない。(中略)
すべてが楽しく、知的にキラキラして見えた80年代の終わらせ方を、私たちはいまも手にしていないのだ。
与那覇さんは、「当時から、どこに問題があるかを知っていた」「知的に考える人」の例として、ドゥルーズとガタリ、そして、その「リゾーム」概念をベストセラー『構造と力』(1983年)によって日本で広めた、浅田彰の名前をあげている。
私は、当時から問題の所在を知っていた知識人として、別の二人の名前を挙げたい。
井上達夫とアラン・ブルームだ。
「相対主義」の季節
井上達夫の『共生の作法』(1986年)と、アラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(原著1987年、邦訳1988年)は、日本とアメリカの哲学者によって、互いにまったく独立に書かれた本であるにもかかわらず、1980年代に顕著になった同じ問題を取り上げ、それがやがて大問題になるであろうことを予言している。
その問題とは、「相対主義」であり、つまりは「なんでもアリ」の精神だ。
法哲学者の井上は、相対主義が「正義」の最悪の敵になることを予言し、政治哲学者のブルームは、それが社会の「徳」を決定的に滅ぼすことを予言した。
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「相対主義」が時代の精神であることを、日本で最初に指摘した哲学者は、吉田夏彦であったかもしれない。
彼は、1977年に『相対主義の季節』という本を出している。
その最初のページで、大学教員(当時、東工大教授)として学生を観察し、彼はこう述べている。
一つだけいえることは、この十年あまりのあいだに、絶対主義者が少なくなって相対主義者がふえたように感ぜられることである。これとても、せまい見聞をもとにしてのことであるから、どのくらい普遍性のあることか、わからないのであるが、この感じが正しいものだと仮定して世の中をみていると、多少うなずけるような感じがする時がないでもない。
(吉田夏彦『相対主義の季節』角川書店、1977)
上の記述にある、なんだか自信がなさそうな吉田の「感じ」は(吉田は論理実証主義者なので記述が慎重だ)、10年後に出たシカゴ大教授、アラン・ブルームの本では、「確信」になっている。
大学教授がこれは絶対に確実だと言えることがひとつある。大学に入ってくるほとんどすべての学生は、真理は相対的だと信じていること、あるいはそう信じている、と言うということ。もしこの信念が正しいかどうかには検証の余地がある、という異論がでた場合、学生の反応は予期に違わないものである。すなわち、学生は異論を理解しようとしないだろう。誰かが真理は相対的なりという命題を自明ではない、と見なしでもしようものなら、あたかも2+2=4に疑問を差しはさまれているかのように、学生は驚く。
(アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』1988、みすず書房、p17)
井上達夫も『共生の作法』の冒頭で、1980年代における同様のアカデミアの現象を述べている。
ひところ、大学や高校の学園祭では、月光仮面がよく出現した。思い思いの衣装に趣向を凝らした学生たちが、活劇を繰り広げ、例の歌が、朗笑を交えつつ屈託のない声で斉唱される。「……月光仮面のおじさんは、正義の味方だ 善い人だ……」(中略)
軽薄さが、軽やかさという積極的価値に転換された現在の文化状況(「軽チャー」)の下では、正義という超重量級の概念について、何ごとかをまともに語ろうとする者は、内心の面映い気分を克服する気力を要するとともに、「セーギの味方」なる栄えある称号を授与されるのを覚悟しなければならない。(中略)
正義を論じるなどということは、彼らにとってそもそも「マジ」なのであり、「クライ」のであり、殆ど犯罪的な悪趣味なのである。(中略)
正義に対する嫌悪は、実は軽チャー病に憑かれた人々に限らず、もっと「シリアス」な知識人をも含めて、現代日本においては広範に共有されている感情である。(中略)
この感情の言わば「哲学的基礎」をなすと思われる三つの要因を挙げておきたい。(中略)
第三は、価値判断一般、従ってまた正義判断は客観的基礎を有し得ず、原理的に主観的・恣意的にならざるを得ないとする相対主義の立場である。
(井上達夫『共生の作法』創文社、1986年、p3-4 現在は勁草書房から再刊)
井上達夫の重厚な文体を引き写しているだけで、朝から疲れてしまったのでw、あとは手短に書きたい。
以上3人の哲学者の証言からわかるとおり、「相対主義の季節」は1970年代に訪れ、1980年代には、日米ともに、相対主義が時代の精神になっていた。
日本で「シラケ世代」と言われた、学生反乱の1960年代の反動であったことは、誰でも気づくだろう。
そして、井上が書いている「軽チャー」のノリを、最も体現していたのはフジテレビであったことも、多くの人に賛同してもらえるだろう。
偽の「寛容」、偽の「リベラル」
井上とブルームの論点は多岐にわたるが、ここでは、一つだけ指摘しておきたい。
両者が共通に、「相対主義」と「寛容」を混同するな、と警告していることである。
1980年代のどこに問題があるか、と言えば、それは、
「相対主義」によって、「寛容」という徳が蝕まれている
あるいは、
「相対主義」が、「寛容」に取って代わろうとしている
ということである。
相対主義は、寛容を旨とする「リベラリズム」に、一見、似ている。
しかし、
世の中に「絶対に正しい」なんてものはない。
だから、なんでもアリだ。
ーーという相対主義から生まれてくる「寛容」は、見せかけの寛容であって、本物ではない。
その点を、井上とブルームは、それぞれの著作で強調している。
井上によれば、真の寛容は、「自分の信念もまた誤っているかもしれない」という「可謬性の自覚」から生まれる(『共生の作法』p198)。
しかし、ブルームによれば、そもそも現代の相対主義者は、「自分の信念」を持っていない。
自分の信念を持つ前に、「すべての信念は絶対的ではない」という「信念」を持つのである。
学生は何かを信じもしないうちから、すでに信念を疑うことを習得している
(『アメリカン・マインドの終焉』p35)
ブルームは、信念なき者たちの間違った「寛容」により、いまに「多数派」は「少数派」に逆らえなくなる、と予言した。
それこそ、まさに今起こっていることである。
真のリベラリズムは、不寛容に対して寛容ではあり得ない、とブルームは強調したが、偽のリベラリズムである「相対主義」は、不寛容に対しても寛容である。
だからこそ、キャンセルカルチャーが横行する。
いま世間で考えられているような寛大さは、きわめて有力なものに対する屈服、あるいは立身出世崇拝をいかにも原則に基づくかのように見せるやり口にすぎない。
(『アメリカン・マインドの終焉』p15)
井上とブルームの考察は、フジテレビ問題に限らず、フジテレビを糾弾する側の問題を含めて、この50年間ほどの思想を検証する基礎になる。
『構造と力』は、最近文庫化されて再び注目されたが、この2冊も、今だからこそ改めて読まれてほしい本だ。
とくにアラン・ブルームの本は、タイトルのせいで、アメリカだけの話だと誤解され、損をしていると思う。(訳文が硬いこと、また、ブルームが本書出版後まもなく若くして亡くなったことも、普及のために不利だった)
今回再読して、トランプの再選まで予言している本だと感じた。できれば新訳で文庫化されてほしい。
<参考>