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「存在と無」松浪信三郎の最終講義
岩波新書で10月、松浪信三郎『実存主義』が復刊されるというのを知り、松浪の最終講義の記憶が急によみがえった。
【岩波新書2023年10月の新刊と復刊】
— 岩波新書編集部 (@Iwanami_Shinsho) September 1, 2023
大江健三郎『親密な手紙』
伊藤宣広『ケインズ 危機の時代の実践家』
野矢茂樹『言語哲学がはじまる』
岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』
[限定復刊]松浪信三郎『実存主義』1962年刊
松浪信三郎(1913-1989)は早大教授で、サルトルの主著「存在と無」の翻訳者として知られていた。
私は高校時代に松浪訳の「存在と無」を読み、理解したつもりでいた。自分は実存主義哲学者に生まれついたのだと自覚していた。
ところが、東京の大学に入ってみると、実存主義はとっくに時代遅れで、構造主義なんぞが流行っていた(サルトルも1980年に死んでいた)。私は哲学者の道をあきらめたのだった。
それでも、松浪信三郎の最終講義がある、という話には心が動いた。私は学生ではなかったが、早稲田に潜り込んで、最終講義を聞いた。松浪の話を聞いたのも、松浪を見たのも、それが最初で最後だった。
1983年、いまからちょうど40年前のことだ。
*
その最終講義の内容に驚いた。
「みなさん、実存主義を、じつぞんしゅぎ、と呼んでいる。
しかし、じっそんしゅぎ、という読み方もある。
じつぞんしゅぎ、と、じっそんしゅぎ、と、どちらが正しいか」
という話が始まった。
私は「じっそんしゅぎ」なんて呼び方は初めて聞いたので、何を言いたいのかとまどった。
実存主義哲学の深遠な話が聞けるかと思ったら、だいぶ違うぞ、と思った。
もう詳しくは覚えていないが、その後もほぼ、
「じつぞんしゅぎ、か、じっそんしゅぎ、か」
という話に終始した。
大教室に集まった満員の聴衆もとまどっているようだった。
これは何か、高級な冗談なのだろうか、と思った。
大学教授の定年年齢、70歳の松浪の口調は、東京出身の人らしく、江戸弁で話す噺家のようで、闊達だった。
これが哲学者の最終講義?
あっけにとらわれているうちに100分の講義は終わり、きつねにつままれた思いで教室を去った。
*
松浪信三郎は、早稲田の哲学科出身ではあるが、いまから思えば、哲学者、思想家ではなかった。
むしろ、哲学・思想方面のフランス語学者、翻訳家、というべき人だった。パスカルやモンテーニュの訳業がある。
哲学者の主著を訳しているから、偉い哲学者なのだろう、というのは、私の幼い勘違いだった。
それにしても、その後、実存主義を「じっそんしゅぎ」なんて言う人は見たことがない。
40年前の記憶を掘り返して、あれは何だったんだろう、と改めて思う。