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美食と短命 谷崎潤一郎と福田和也

トンカツ保守主義


2日続けて福田和也さんのことを書いたから、もういいかと思ったが、あと1回だけ。

いやね、昨日は朝から、何か無性にトンカツが食いたくなって。

福田さんの訃報で、あの若い頃の豚ーーいや、ふくよかな顔の写真を何度も見たから、豚を連想して食いたくなった、わけではない。

やっぱ、福田和也さんといえばトンカツ、トンカツといえばダーフク。

福田さんはトンカツを語るトンカツ評論家でもあった。トンカツの著書もある。

旧ツイッターでのアカウント名も「トンカツ王子 @TONKATSUOOJI」であった。


とん太、行ったんだ。御苦労様。悪いトンカツ屋じゃないけどさ、いつも小三治と親父がスピーカーについてだべっている(たしかに、いい装置はもってる)というような、どうでもいいトンカツソースを、ドバドバかけたら怒られるというような、早稲田方面的、純文学がヤなんだけど。ってこれはイジメか。
(福田和也 2010/2/25)


だから、福田さんのことをしのぶうちに、みんなサブリミナル的にトンカツが食いたくなった。

福田さんの訃報が流れた9月21、22日は、トンカツ屋が文学好きであふれたという。以下のようなポストがあった。


福田和也さん、亡くなった。63歳。 対談させて貰ったり、談春の会でお会いしたりしたけど、JR五反田のホームでちらっとお見かけした時の姿が忘れられない。コートを着て、ちょっと酔ってたのか、ふらつきながらも、目つきが鋭かった。 若い時に大きな仕事をしたひと。 今日はとんかつを食べに行く。


福田和也を偲んでトンカツを食べている人を見かける。かつやの客が皆文豪にみえてくる。そうでもない。


福田和也さん追悼のため新宿のとんかつ屋王ろじへ。黙祷してからいただきました。



福田さんは、トンカツ好きが高じて、保守主義とはトンカツ屋を守ること、と言うほどだった。


「生活の内側に大切なものを持っていること、それを守ろうとすること、長年通ったとんかつ屋が政府や都の愚策に翻弄されていないか、そこに生まれる文化が死に絶えることがないか気にしていること、これすなわち保守・・・保守として「靖国神社よりもキッチン南海を守る」ことを生き様とする先生」


そして、福田さんが健康を害したのは、トンカツのような高カロリーなものを長年食い続けたからだ、という観測がもっぱらであった。


福田和也さんが体調を崩した原因として、長年の不摂生が大きく影響していると言われています。福田さんは若い頃から、暴飲暴食を繰り返してきました。特に30代、40代の頃は、夜遅くまで飲酒し、高カロリーな食事を続けるという生活を送っていました。例えば、フレンチやイタリアンを楽しんだ後にカツカレーを食べるなど、一般的には考えられないような量を平然と摂取していたのです。


文芸評論家の小谷野敦氏は、こう書いている。


西村賢太にせよ福田和也にせよ、食事の仕方が命を縮めたよね。40歳過ぎたらラーメン食べるのは年に二回くらいにすべきだよね。


谷崎潤一郎の「反面教師」


福田さんの美食は、いかにも都会の旦那、高等遊民、通人のおこないで、かつての文士たちの模倣でもあると思う。

昔の作家には、禁欲的な貧乏人もいるが、「食」をきわめる健啖家が多かった。

暴飲暴食と聞いて、私が連想したのは、谷崎潤一郎だ。



谷崎は、福田さんが最も高く評価した文学者であったが、福田さん同様、食いしん坊で美食家だった。

美食だけでなく、酒飲みで、女好きで・・とにかく人生の「甘美」をきわめ尽くそうという人だった。


そんな谷崎だが、案外長命で、79歳まで生きている。(谷崎の世代の平均寿命は60代)

なぜか、というのがここで書きたいことだが、それについては、実は以前も一度書いている。


谷崎は若い頃から暴飲暴食していたが、一方で自分の健康に不安を持っていた。

なぜなら、身近に「定(さあ)ちゃん」という反面教師がいたからである。

その「定ちゃん」のことは、谷崎の「高血圧症の思い出」(1959)の中に出てくる。


本名は高木定五郎。深川の材木商の一族で、裕福で、学問もあり、文士たちのパトロンであった。戦前から谷崎らとつるんで、東京の名店を飲み歩いていたのである。

谷崎はこう書いている。


(定ちゃんは)現在の東京工業大学の前身である蔵前高等工業学校の建築科の出身で、学問もあり、それにキビキビした江戸っ児で身の丈が高く、色が白く、今の時代に移って来ても相当な好男子で、而(しか)も食通で、飽くことを知らぬガストロノマー(食道楽)であった。

この木場の若旦那は文壇の誰彼とも対等に付き合い、正宗白鳥、永井荷風の如き大家も友達扱いにしていた。
(谷崎潤一郎「高血圧症の思い出」中公文庫『夢の浮橋』p126)


谷崎が定ちゃんと知り合ったのは20代の頃だが、お互い中年になり、大東亜戦争下となっても、二人の「若旦那」は特別あつかいで東京の名店を回っていた。

二人の共通した大好物は、トンカツならぬビフテキだったが、とにかく脂っこいもの、高カロリーなものが好きだった。

二人が戦時下によく行った日本橋の高級中華料理店「偕楽園」(店主は谷崎のパトロン)では、「清蒸肉(チンチンニョ:豚の白身を蒸かしたものをスライスして味噌をつけて食べる)」や「鶏蛋肉(キイダンニョ:豚の肩ロースを蒸かして叩いて薄焼卵で渦巻きのように巻いたもの)」を「前菜」で食べるのが常だった、と書いている。


この「定ちゃん」が、谷崎を上回る食いしん坊で、谷崎も恐れを感じるほどだったのだ。

定ちゃんの食いぶりを、谷崎はこう描写している。


恰(あたか)も鴻門の会の樊噲(はんかい)が彘肩(ていけん)の肉を啗(くら)うが如くで、「臣は死をすら且避けず、卮酒(ししゅ)安(いずく)んぞ辞するに足らん」と云っているようであった。私もおさおさ健啖についてはヒケをとらないつもりであったが、彼の様子を見ていると恐くなることがしばしばあった。定ちゃんがいかに頑健であっても、早晩脳溢血にでもならなければ不思議だと思えた。
(同p127)

(*ここで谷崎が引用しているのは「史記」「十八史略」に記された故事。漢の劉邦を暗殺しようとした楚の項羽の宴で、劉邦の武将、樊噲が宴に乱入し、豪快に酒を飲み、生肉を食らってみせて、項羽を威嚇する。)


もともと高血圧だった谷崎は、定ちゃんと食い歩くうちに、不安になってくる。

さすがにこんな食い方をしていると、死ぬんじゃないか、と。


谷崎の不安は的中し、定ちゃんは昭和17年(1942年)に倒れる。脳出血であった。

だが、重篤な障害は現れず、しばらく療養したのち、また飲み歩くようになる。

しかし、2回目の発作が、昭和19年の正月に来た。


あんな豚の支那料理だの豚のビフテキ(?)だのを矢鱈に食べたら無事では済まないと、かねてから江藤博士の心配していたことが、遂に事実になったのである。その晩定ちゃんは友人を招いて偕楽園で小宴を張る予定になっていたが、突然容態が変り、笹沼夫妻が電話を聞いて駆けつけた九時頃には、対の大島の衣装を着たまま既に事切れていた。最後の病名は尿毒症と云うことであった。
(同p130)


享年は書いていないが、おそらく谷崎と同世代で、当時50代だっただろう。

谷崎は、定ちゃんについての不安が当たったことで、自分も死ぬのではないか、という強い不安にとらわれる。

ここから、彼の「高血圧症」との戦い、というより、「高血圧で死ぬんじゃないかという不安」との戦いが始まるのである。


谷崎は、10代の頃から、いわゆる不安神経症、今でいうパニック障害を起こしている。

「自分は今、死にかけている」という不安に、突然とらわれて、恐慌状態になるのである。


森田正馬が言ったように、不安神経症の人は、人一倍「生きたい」欲求が強い人だ。

生への欲求が強いあまりに、死への恐怖も強い。


谷崎は、客観的には健康体で、人より頑強な身体の持ち主だったが、内心は、「自分は長生きできない」という不安でビクビクしていた。

食欲や性欲が人一倍強かったが、それにも増して、「生」欲が強かった。


谷崎潤一郎が長生きできたのは、そのおかげだと思う。

食欲も性欲も死ぬまで衰えなかったが、定ちゃんの死を間近で見たことで、自分の血圧に関して非常に神経質になり、たえず医師の診断をあおぎ、健康管理に気をつけるようになった。

そのおかげで、彼は戦後、代表作である「細雪」を仕上げ、「瘋癲老人日記」のような老年の傑作も残すことができた。



福田さんに、谷崎の「小心さ」が欠けていたとしたら、惜しいことだった。

福田さんの堂々とした豪快な生き方も立派だとは思うが、私は谷崎のようにビクビク生きて、せめて長生きしたい。(だから、昨日のトンカツへの食欲は抑えた)



<参考>





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