電車の中のBL 同性愛と「みだら」の問題
会社を退職して以来、電車には滅多に乗らない。
数日前、用事があって新宿まで小田急線に乗った。ほぼ数カ月ぶりである。
すると、車中のデジタルサイネージで、若い男どうしのキスシーンが流れていたので、ギョッとした。
「パーフェクトプロポーズ」というドラマのDVD・ブルーレイ発売のCMだった。
ドラマ「パーフェクトプロポーズ」予告編
問題のシーンは、唇が触れ合う直前で終わるが、それがキスシーンであることははっきりわかる。
わたしが新宿に着くまでのあいだ、何度も流れた。
「こんなものが電車の中で流されていいのか。子供も見るのに」
と思ったのだが、周囲は平然としていた。
*
「パーフェクトプロポーズ」は、鶴亀まよの漫画が原作で、フジテレビによってドラマ化された。
「パワハラ」されて疲れた若いサラリーマンを、年下のゲイが「落としていく」話だという。
いわゆる「ボーイズラブ(BL)」の作品だ。
昨年10月にオンデマンドで配信されたあと、今年4月に関東ローカルの深夜帯で地上波放送されている。
こんなものが、深夜帯とはいえ、地上波放送されていることにも驚きだ。
わたしは大人になってからテレビを見ないが、数年前には「おっさんずラブ」というのが流行ったのは知っている。
テレビを見てなくてよかったと思うだけである。
こういうことを言うと、「ホモフォビア」で「差別主義者」だと言われるご時世であるのは知っている(もう引退しているし、もうすぐ死ぬので何と言われようとかまわん)。
でも、わたしにしても、地上波放送は、まあいいだろうと思う。
見たくない人は、見なくてすむのだから。
しかし、電車の中で流されたのでは、そうはいかない。
問題は「同性愛」だろうか。
いや、異性愛だって、公共的場所では性的シーンに制限がつく。
わたしはかつてマスコミに勤めていて、デジタルサイネージのビジネスとも少し縁があった。
電車の中で流すから、あらゆる世代のあらゆる階層が見る、ということで、厳重に内容がチェックされていた。
マスコミ人の感覚でも、厳しすぎるのではないかと思うほどだった。
週刊誌中吊り広告の女性の露出が問題になったこともあった。
電車の中だから、そうした性的刺激が、痴漢行為をうながすことがありうる。
とくに夏場は。
実際、ほんの10年前まで、わたしは毎日のように電車に乗って、デジタルサイネージを見ていたが、性的シーンが流れていた記憶はない。
この数年で、大きな変化があったようだ。
LGBT法の影響だろうか?
そのせいで、男と女の性的シーンはダメだが、男と男のシーンならOKとなったのだろうか。
なぜなら、それを制限すると、同性愛差別になってしまうから。
だとすると、おかしな話ではなかろうか。
(教育効果としては、異性愛より同性愛を推奨しているかのようになる)
「おっさんずラブ」の時も、わたしは見ていないけれど、
「男と女ならセクハラと非難されるようなシーンが、男どうしだとドラマ上許されているのはおかしい」
といった声があったのを覚えている。
*
いずれにしろ、「パーフェクトプロポーズ」が電車内で流されていることが、問題になっているという話は聞かない。
わたしだけが時代から取り残されているようだ。
おかしな世の中になった。もうあまり外に出ないようにしようと思う。
わたしに言わせれば問題は「差別」ではない。
わたしにしろ、個人的におこなわれる行為については、文句を言うつもりはまったくない。
しかし、それが公共空間で流されるとなると、公衆モラルの問題、規範と「みだれ」の問題になる。
それは「差別」とは別の問題である。昔から区別されてきた。
「LGBT」なんて新しげな言葉を使うので、同性愛は最近の問題のように思うかもしれないが、その「公衆化」について、わたしが物心ついて以来、少なくとも50年前から議論されている。
たとえば、1976年の雑誌「野性時代」に掲載されたエッセーで、哲学者の吉田夏彦は、以下のように述べている。わたしのモヤモヤを明晰に述べてくれているので、少し長いが引用したい。
みだらなことというのは、日本では、社会を前提にした概念である。他人の、あるいは、公衆の、一切関知しないところでおこなわれることがらは、みだらと呼ばれないか、仮に呼ばれても、道徳的非難、あるいは美的な批判、の対象とはなりにくい。外国では、性に関したことがらで、衆目にさらされているところでおこなわれるかどうかに関係なく、タブーとされてきたものがいくつかある。たとえば欧米における同性愛はその一つの例であろう。一神教の勢力がおとろえるにつれて、この種のタブーを解禁した国も、ヨーロッパにはいくつかあり、アメリカでも、同性愛のタブーの全面的な解禁のことが、近頃の大きな話題の一つになっている。この時、持ち出される論拠の一つが、「被害者のない犯罪は、実は犯罪ではない」という説である。たしかに、合意の上で当事者がふけっている行為は、他にそれにあずかるものがいなければ、被害者いないものといえよう。そうして、行為そのものの解禁が、時には、その公衆化の許容にまでつながることがある。
しかし、日本での「みだら」という概念は、公衆の知覚との相対的な関係にかかわる概念である。それだけに、みだらなことに関するタブーの問題は、外国の場合と必ずしも同日には論ぜられない面を感じているともいえよう。
(吉田夏彦『相対主義の季節』角川書店、1977、p180)
つまり、ある行為が合法であるとか、道徳的に是か否かという問題とは別に、「その公衆化が許容されるかどうか」という問題がある。
道徳的にOKなら、公衆化も許容される、という場合もあれば、そうでない場合もある。
それは、「公衆の知覚との関係」による、というわけだ。
吉田はここで、それが日本文化特有の問題のように書いているが、もちろんそんなことはない。
文化によって、何を「みだら」とするかは違うが、それぞれの文化にその基準は厳然とあるものである。
たとえば、タイでは電車内だけでなく、駅の構内でも飲食はタブーである。日本と同じ感覚で、電車の中で飲み食いし始めると、タイ人の非難の目にさらされる(もちろん車内販売がある場合は別)。
アメリカでは、路上や公園での飲酒は、タブーであるだけでなく、違法である(許可された屋台がある場合は別)。
麺類を、公の場で音をたててすするのは、アジア、アメリカ含め、日本以外のほとんどの国でタブーである。
それは「差別」とは別の問題で、「法」の問題ともまた少しちがう。
「公衆の知覚」は、理屈ではなく、漠然としているが、それだけに民族や国民の文化に直結している。
同性愛が公衆化されることについては、どうだろう?
日本人の「公衆の知覚」が変化して、それを許容するようになったのか。
それとも、LGBT法などの影響で、文句を言えない状態になっているだけか。
わたしが知りたいのは、どっちなのか、ということだ。
もし日本人が、これを許容する国民になったとすれば、世界でもまれな「先進国」だと思う。
表現の自由にかかわるので、「パーフェクトプロポーズ」の車内放送をやめろとか言うのは、心苦しい。
しかし、日本人の公衆モラルが、それをなんとも思わなくなる方向に変化したとすれば、わたしにはそれも悲しいことである。
*
そんなことを考えていると、わたしはたまたま、キリスト教徒とLGBT問題、というYouTube番組を見た。
わたしが見たのは、キリスト教会がLGBTに寛容すぎるのはおかしい、という趣旨の動画だ。
【藤本満】「LGBTQ 聖書はそう言っているのか?」の問題点を指摘!! 福音派の信仰者を見下す差別的な本を斬る!!! インマヌエル綜合伝道団・高津教会牧師:藤本満氏著(小林拓馬の裏クラウドチャーチNEWS 2024/8/23)
上に引用した吉田夏彦の文章に、「一神教の勢力がおとろえるにつれて」同性愛のタブーが解禁された、とあるが、一神教を信じる人はまだ世界に多数いる。日本にも、一定数いる。
この動画でも指摘されているとおり、キリスト教の聖典である新約聖書には、同性愛を明確に「罪」だとする箇所が複数ある。
正しくない者が神の国を受け継がないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を崇拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。
(コリントの信徒への手紙第一、6ー9〜)
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを受けています。
(ローマの信徒への手紙、1ー26〜)
聖書は神の霊感を受けて書かれたものだから、それを字句どおり受け取る信仰を持っている人は多い。この動画の小林拓馬氏もそうだ。
そうした人たちは、当然にLGBTの「公衆化」に葛藤を抱えているだろう。
この動画の小林氏は、教会が同性愛者を差別するのは間違いであり、同性愛者はキリスト教徒になれるし、聖職者になることも許容できる、と言っている。しかし、聖書に書いてあるとおり、罪は罪であって、その自覚は必要だ、という趣旨のようだ。
わたしはキリスト教徒ではないから、こうした神学論争に立ち入る資格も能力もない。
ただ、「パーフェクトプロポーズ」の車内放送のような問題は、わたしのような「漠然とした反発」では弱いから、こういう「原理主義的」な立場から批判してもらった方が助かる、と、ちょっとズルいことを思ったのである。
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