見出し画像

瞑想とデジタルデトックスを無理なく緩く

これまでと変わらぬ景色、そして見慣れたはずの風景でさえも見え方が違うような気がする。私にはそんな経験をしたことがあります。色が濃くなったような、コントラストが強まったような。兎に角、世界がもっと美しく広いものになったような感覚です。

自分に何かの価値観が加わったことで生じた化学反応。写真がフィルムから現像されるようなイメージかもしれません。

私が知らない事も、あなたはきっと知っている。私が面白いと思えなかったことも、あなたはきっと面白いのだと思える。そして、”あなたは必ず、私がしたこともない経験をしている”のです。その素晴らしさに気づいたとき、私は他人をもっと受け入れるべきであるように感じました。それまで大層カッコつけて生きていたような気がして、そんな日々を恥ずかしく感じました。

それから、誰からも話しかけやすい人間であるほうが、ずっとずっと得であると感じるようになりました。

こうした人生における化学反応は、幾度となく起きています。小さなことから述べればきりがないのでしょうが、大きなことで言うと数度は経験する事が出来ました。それは、私とあなたが見ている景色が、同じようでいて違うということを心の底から理解する事になった経験でもあります。

私の人生は、これまでもこれからも、このような化学反応を求めています。

初めて視界が開けてから、私にとっては小さな挑戦の始まりでした。今もずっと少しずつ挑戦をしています。それは誰からも評価されることも無い挑戦でありながら、自分にとっては今見ている景色をもっと美しく感じられるようになるための行程だと思えます。

過去より今、そして今よりもきっと未来は、もっと多くの経験をしています。楽しいことや嬉しいことばかりではありません。辛いこと悲しいこと、悶々とした気持ちを抱えてきた事もありました。それでも、今の私にはその経験が掛け替えのない宝です。

たとえ壁があろうとも、打ち破るだけが人生ではありません。迂回して遠回りに感じようとも、その道で出会う多くの光景と経験が糧になります。壁に縄をかけて登ってもいいかもしれません。そこには私しかできない経験が待ち受けているのです。私の人生はそうした遠回りの連続でした。しかし、今その意味を深く理解しています。

私の見ている世界を何度も繰り返し、現像していきたい。それが私が常に求めている生き方だったりするのです。

そこで最近になって、睡眠時間におけるデジタルデトックスと瞑想を始めてみる事にしました。

私はお風呂が好きで、日勤の時には朝と寝る前にお風呂に入るような生活をしていました。お風呂ではリラックスして、情報が遮断され、脳が却って活発になります。そんなときの自分の中に起こる化学反応も多少なり理解していたのですが、ここにきて最近の比較的大きな悩みを抱えるに至り、瞑想やデジタルデトックスを始めてみる事にしました。

実は瞑想は堅苦しく高尚なものでは無く、誰でも今すぐに始められます。意外なことに誰もが歩く事や書く事や寝る事や入浴する事などといった多くの場面で、多少なりとも行っているようです。

元々、寝室にはテレビや時計なども無く、枕元に携帯を置いて目覚まし時計にしていました。そうすると時間を気にするあまり携帯電話に触れれば、おのずと様々な情報へ吸い込まれていく事が分かっていました。だからこそ、これからは寝室には"目覚まし時計"と"本"しか持ち込まないことにすることにしました。

最近、夜勤の明けの日などは心身の疲労感からおかしな感じがするのに、したい事にも手が付けられないし、YOUTUBEなどを盲目的に流し見してしまうような自分も居ました。決して主体的で能動的な時間ではなく、客体的で受動的な情報との接し方。そして時間だったのかもしれません。その時間を少しでも瞑想に充てる事にしました。

約20年ほど前、思い悩んでいた私の背中に父が手を添えて、そっと目を閉じて、深呼吸をしてみると言うことを提案してくれました。そのことをついこの間、Noteのフォロー記事を読んでいるときに思い出したのです。Noteを始めてからたったの1ヶ月弱に過ぎません。これもまた小さな挑戦の一つに過ぎませんが、明らかに化学反応の兆しが見え始めているように感じます。

瞑想については今のところ、素晴らしく充実しています。

それ以外に何か大きな化学反応が起こったという訳ではありませんが、兎に角、素敵な環境である事に間違いはありません。目覚まし時計は、夜勤と日勤で二通り設定できる電波時計にしました。今のところ順調です。この取り組みも、きっと私の大切な日常にしていきたいと思っています。

いいなと思ったら応援しよう!