幼稚園の年長組のときと、小学校1年生のときに、自家中毒(周期性嘔吐症)になったことがある。 元気に遊んでいたのに、乗り物酔いでもないのに、熱があるわけでもないのに、急に気持ちが悪くなって、吐いてしまう。 そのとき、母に「(自家中毒は、)神経質な子がかかる病気なのに、なんであんたがかかるのか」というように言われた。いかにも私が無神経な子のような感じで皮肉っぽく言われた。しかし私は、気持ちが悪くて反論する元気もなかった。 そして、私は、精一杯気を遣っていて、しかも気を遣っ
子どもの頃、飼っていたネコが、コタツの中で子どもを産んだことがある。 生まれたての子ネコは、膜のようなものに包まれていた。母ネコがなめると、子ネコが膜から出てくる。膜から出てきたばかりの子ネコは、濡れた毛がへばりついていて、お世辞にも「かわいい」とはいえなかった。 母ネコが、子ネコを舌でなめると、子ネコの濡れた毛が毛が乾いていく。普通、なめると湿るはずなのに、なめると乾くのがとても不思議だった。 生まれたばかりの子ネコは、目も開いていない。よく、「人間の生まれたての赤
壊れているのではなく、アナログのままで、デジタル化していないのだ。 確か、アナログが停波したのは2011年だった。その年の3月に東日本大震災があり、世の中は大混乱し、エネルギーが不足していて、ものを大切にしろ、とか言われていたのに、まだ使えるテレビを買い替えろ、というのはおかしいと思った。 状況が変わっているのに、一度決まったことだからと、押し通すのはおかしいと思う。 太平洋戦争だってそうだ。百歩譲って、開戦したのは やむを得なかったとしても、途中で引き返すことは、
子どもの頃、夏になると、近所の商店街でウナギの蒲焼きの実演販売をやっていた。 ウナギをさばくのは、まだ若いお兄さんがやっていたが、その手さばきがとても鮮やかで、いつも見ほれていた。 ウナギはプラスチックの桶に入っていて、その上に板(まな板)が載せてあった。 ウナギ屋の人は、ウナギをよく見もせずに桶からつかんで、まな板の上に載せ、千枚通しのようなものをウナギの頭に刺して固定する。 次に、包丁でウナギを割いていく。 そして、頭、ワタ(内臓)、骨、身に分ける。頭、ワタ
「過去にとらわれず,未来を思い悩まず,いま,ここに生きる」のが大切,というけれど,それはとても難しい。 ご飯を食べているときや,お風呂に入っているときでさえ,「次は何をしよう,あれもしなくちゃ,これもしなくちゃ」と思ってしまう。そして,それではダメだ,もっと「今」に集中しなければ,と思う。 けれども,過去を振り返り,未来に思いを馳せることこそ,人間ならではの特質ではないか。人間以外の動物は(たぶん)過去を悔やんだり,未来を思い悩んだりはしないだろう。 そして,過去や未来
得で好きなら,もちろん,それを選ぶ。 損で嫌いなら,もちろん,それを避ける。 しかし,得だが嫌いなことと,損でも好きなことの場合,どちらを優先すればいいのだろうか。
3歳ぐらいのとき,お祭りに行って,迷子になった。 見つかったとき,親に「どこへ行ってたんだ!」というように怒られた。 でも,子どもが怒られるのは理不尽だと思う。 本来なら,親のほうが子どもに向かって,「目を離していてごめんなさい」 「怖かったでしょう」と謝るべきなのに。 親は「こんなに心配したのに。親の気も知らないで」という。 でも,子どもだって,「こんなに心細い気持ちなのに。」「迷っただけでもつらいのに,怒られてもっとつらい」と思う。 「親の心子知らず」という。けれ
私は子どものころ、いつも、「変な子」と言われていた。「悪い子」ではなかったようだが、どうも、他人と違うことをしていたらしい。 たとえば、学校の休み時間。「雨でなければ外に出て遊びなさい」と言われる。その言いつけを守って、外には出るのだが、みんなとは遊ばず、一人で鳥小屋の前に行き、じっとしゃがんで鳥を観察していた。そこにはセキセイインコやキンケイチョウ、チャボ、ハトやアヒルがいて、見ていてあきなかった。キンケイチョウの雄は羽がキラキラと輝き、光の当たる角度によって、緑色に
ケガや病気をしたり、重い物を持っていたり、山道を登っていたりするとき、「大丈夫?」と聞かれることがある。聞く方は、心配しているのだろう。でも答えるほうは、そう聞かれると、本当は大丈夫でなくても「大丈夫」と答えてしまうことがある。 迷惑をかけたくない、というのもある。「このくらいで弱音を吐くなんて、情けない」とも思う。弱みをさらしたくない気持ちもある。 そして、後から「せっかく声をかけてくれたのに」と後悔する。強がらなければよかった、と思う。でも、一度断ったのに、今さら助
「子どもは親を選んで生まれてくる」という説がある。 事実かどうか、確かめるすべがなくて、非科学的なのはもちろんだが、それ以上に、つらい状況のもとに生まれてしまった子どもたちを傷つける言葉だと思う。 本当に、子どもが親を選んで生まれてくるのなら、虐待をする親のもとになど、生まれてくる子はいないだろう。戦争で爆弾が飛んでくるような時代・場所や、食べ物が得られないような時代・場所には生まれてこないだろう。 そういうと、「意識ではなく、無意識で選んでいる」と言われる。しかし、
大人になると、時の流れが速くなったように感じるという。 毎年、10月ごろになると、「今年ももう終わりだね」「1年なんてあっという間だ」とか言う人がいる。 でも、そんなことを言うのは、よほど平穏で、かつ、中身のない日々を過ごしていた人ではないか。 心が動揺し、揺り動かされ、激動する。流れが速すぎて、奔流に呑まれる。 流れが渦巻き、逆巻いている。そんなことがあると、同じ年月を過ごしていても、とても長い時がたったように感じる。 光速に近い高速で運動している物体から見る
「少子化対策」が盛んに叫ばれる。確かに、子育て支援は大切だと思うけれど、少子化は、そんなに悪いことなのだろうか? 「ネズミ算」で有名なネズミですら、いくらエサが十分にあっても、殖えすぎると、それ以上は殖えないという。 地球の人口は80億人を超えた。そろそろ限界が近づいているのではないか。それを本能的に察知して、人口増加を抑えているのではないか。 これまでは、「死亡する」ことによって人口が調節されていた。原始時代には、ほかの動物に食べられていた。その後は、感染症によって
悩んでいるとき、「こうしたらいい」というアドバイスより、共感が欲しい。 もちろん、本当にその方法がわからないこともある。渦中にいると見えないこともある。だから、アドバイスが有効なこともあるだろう。 でも、そんなこと、他人に言われなくたって、自分でもわかっているのに、できなかったりする。動くだけの気力が出ないこともある。 方法がわかっているのにできないと、行動力のなさを責められているような気がして、よけいに落ち込む。 といいつつ、自分も、他人が「どうしたらいいんだ
「バーチャルシニア」とは、高齢者の体験をすることである。障害者体験、妊婦体験も聞いたことがある。いずれも、装具を着けたりして、「弱者」の体験をするものだ。 だが、それらには含まれていない「弱者」が1つある。「子ども」である。 不幸にして、高齢になる前に死んでしまう人もいるし、幸運にも、障害をもたずに一生を送る人もいる。男性はもちろん、女性でも妊娠しない人もいる。 だが、子どもでなかったことのある人はいない。しかし、1度は子どもであったからといって、覚えているとは限らない。
仕事がないと、どうして不安になるのだろう。もちろん、生活に困る、ということはあるけれど、それだけではない。 この世の中に生きていく、居場所がないような気がする。世の中に必要とされていない。「いらない人間なのだ」と烙印を押される気がする。だから、失業すると、気持ちが落ち込む。 また、「こんなんでやっていけるのだろうか」と思い、自信がない。それでも、今までは何とかやってこれたけど、だからといって、これからもやっていけるとは限らない。 失業したり、あと少しで仕事が切れそう