どうしたらいいんだろう、と問うとき

 仕事がないと、どうして不安になるのだろう。もちろん、生活に困る、ということはあるけれど、それだけではない。
 この世の中に生きていく、居場所がないような気がする。世の中に必要とされていない。「いらない人間なのだ」と烙印を押される気がする。だから、失業すると、気持ちが落ち込む。
 また、「こんなんでやっていけるのだろうか」と思い、自信がない。それでも、今までは何とかやってこれたけど、だからといって、これからもやっていけるとは限らない。

 失業したり、あと少しで仕事が切れそうになると、不安でたまらず、つい誰かに相談する。でも、電話したりすると、よけい落ち込んでしまうことも多い。
 ある人に、「チャンスだ」と言われたことがある。それはそうかもしれない。
 でも、そのときには、とても「チャンスだ」なんて思えなかった。
 私の苦しさをわかってもらえない気がして、電話を切ってしまった。
 そしてさらに落ち込む。

 「どうしたらいいんだろう」と尋ねる。
 でも、そのとき、「こうしたらいい」という具体的な答えがほしいわけではない。
 「どうしたらいいんだろう」と問うほど、しんどいことを、受け止めてほしいのだ。気持ちを受け止めてもらって、元気が出たら、具体的な方法は、自分で考えることができる。
 それなのに、「それは自分で考えることだ」とかお説教されたり、あるいは「職安に行けば」とかいう方法を教えられたりすると、気持ちが納得できない。
 せっかく親切に考えてくれているのに、よけいしんどくなってしまったりする。

 もっと自分に合った仕事がある気がする。もっと能力を活かせる仕事があるのではないか。
 でも、すぐ、みんな、生活のために、いやいや仕事をしているのだ、好きなことを仕事にしている人なんて、ほんの一握りの人にすぎない、贅沢なことを考えてはいけない、と思う。
 あるいは、そんなに能力があると思っているのか、思い上がるのもほどほどにしろ、と思う。
 それに、もう年だし、世の中で成功している人は、みんな、もっと若いうちに芽を出しているのではないか。今まで出なかったのに、いまさら芽が出るわけがない、とも思う。でも、どこかで、まだ持っている力を出し切っていない感覚もある。

 世に出ている人は、みな、「初めは小さな流れだった」と言う。
 それはそうだけど、逆は真ならず。
 小さな流れがみな大きな川になれるわけではない。
 大木も、初めは小さな種である。
 けれども、種から出た芽が、すべて大木になれるわけではない。淘汰されてしまう芽のほうが数の上ではずっと多いのだ。
 そして私はどうなのか。いい加減そろそろ芽を出すか、せめて根は出さないと(芽より根のほうが先に出る)、種が腐ってしまう気がして、あせっている。

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