【自己紹介】体育先生→1年8カ月で広報のプロジェクトリーダーに。
みなさん、はじめまして。
中山 楓(なかやま かえで)と申します。
ご覧いただきありがとうございます。
noteを始めてから数年が経ち、久々に自分のプロフィールを確認したところ、現在の状況とかなり変わっていることに気が付きました。笑
ですので、ここ数年の変化も交えて、改めて自己紹介を書いてみたいと思います。最後までお読みいただけると嬉しいです。
プロフィール
家族
私は埼玉県草加市という、電車で10分乗ったらすぐに都内へと出れる、比較的アクセスの良い街で生まれ育ちました。
父:音楽業界で経営者
母:歯科助手
弟:日本料理人
上記のように、全員がそれぞれ何かしらの道を目指す、専門職が強い家族です。笑
両親仲はとても良く、外出時はいつも手を繋いでいて、そんな両親の後ろを5つ下の弟とそれとない会話をしながら付いていくのが、中山家の基本行動です。笑
昔何かの本で「両親仲や家庭環境がいいことは、子どもの精神に良い影響を与える」と読んだのですが、私や弟が特に擦れることなく、伸び伸びと育ってこれたのは、絶対両親のおかげだと思っています。
と同時に「あの2人の仲が良すぎて、夫婦に対する理想はすごく高くなってしまった気がする(*ノωノ)」とよく弟と話しています。笑
また、大人になってから気づいた両親の偉大さがあります。
それは、私が子どもだったときに「両親が喧嘩しているところ」と「お金の話をしているところ」を一切見たことがないということです…!
大人になってから「実はあのとき、こんなことがあったんだよ」と教えてもらったことがあるのですが、当時はそんなことが起きていたとは露も思わず、本当に両親が徹底して子どもの前では不安因子は見せないようにし、私と弟が何事にもチャレンジできるよう環境を整え続けてくれていたことに気づかされました。ですから、両親には本当に感謝と尊敬の気持ちでいっぱいです。
男の子によく間違えられた学生時代
昔から、じっと椅子に座っているよりも、体を動かすことが大好き。
髪型はベリーショートで、真冬でも半袖短パンで外を駆け回っている、そんな逞しすぎる女の子でした。
イメージでお伝えすると、学校の休み時間に男子に紛れてドッチボールしている女子。(学年にきっと1~2人は、そのような子がいたのではないかなと思います。笑)
ですから、男の子に間違えられることはしょっちゅうで、中学生のときには祖母への誕生日プレゼントに花を買ったとき、花屋のおばさまに「あら~!彼女にあげるの~?」と言われ、もう間違えられることに慣れ過ぎて、微笑みを返すだけにしていたときもありました。笑
学生時代はずっとスポーツ一色の生活で、幼稚園~高校3年生まで水泳を14年間やりました。そこから進学した東京女子体育大学では、今までの水泳経験を今度は「人のために使えたら」と、ライフセービング部に入部しました。
このライフセービングという活動が、私の性格を変えてくれるほどの多くの気づきと学びを与えてくれ、その魅力にどんどんハマっていき、最終的には社会人3年目のときに全日本大会で5位入賞をするところまでいきました。
体育の先生時代
大学卒業と同時に保健体育の中高教員免許状を取得し、体育の先生となりました。
一般的には常勤(一般企業でいう正社員のようなもの)を目指していくことが多いのですが、私はあえて非常勤講師という働き方を選びました。なぜなら、1人でも多くの子どもたちと関わり、体育の魅力や可能性を伝えていきたかったからです。
常勤だと1校しか勤務できませんが、非常勤講師だと掛け持ちすることができるので、私立の小学校と中高一貫校の2校を掛け持ちしながら、小学生~高校生まで、全領域の子どもたちに体育を教えてきました。
さらには、その掛け持ちができる環境を活かし、学生時代から続けていたフィットネスジムのインストラクターも継続しながら、少しでも指導の幅を増やそうと、トリプルワークでひたすらに毎日知識を吸収していってました。
当時の1日のスケジュールはこのような感じです。
我ながら、よくここまで体を酷使できたなと感じています。笑
寝る間を惜しんで、子どもたちのためにと奔走してきた20代でしたが、今後の人生や方向性について20代の後半から考えるようになりました。
変化のきっかけ
先生として多くの子どもたちと関わりたいと思い、寝る間も惜しんで自分の時間全てを費やしてきたからこそ、当時見えてきたものがありました。
それは「将来に対するギャップ」です。
元々アスリートレベルでスポーツをやってきたのもあって、当時はこのようなことを感じ始めていました。
特に不満があったわけではないですし、ずっと夢だった先生にもなれて、毎日充実した日々を送っていました。ですが、漠然とした不安があったのです。
さらには、学校で子どもたちと将来の話をすると、よりそのギャップを感じるようになりました。
そのようなときに、大学の同期を通じて、今現在もお世話になっている先輩に出会いました。
その先輩からたくさんのことを気付かせていただき、そして改めて将来について考えに考えた結果、「もっと自分自身の幅を広げよう」「大人として、先生だった身として、人生かけてずっと挑戦し続ける人になろう」と決めて、違う道へ行く決心をしました。
1年8カ月でベンチャー企業の広報リーダーに
人生初めての転職をし、最初は人材の営業になりました。そこからご縁で今の広報という仕事に出会い、まずはこの広報について究めていこうと決めました。
なぜなら今の時代、「ブランディングの力」はどこに行っても通用すると確信しているからです。
「自分は何者なのか」というセルフブランディングは、SNSでの発信や個人で仕事をしていく際に必ず大事になってきますし、会社としても「どんな企業なのか」ということを世の中に発信できる力は、どこに行っても重宝されると考えています。
ですから、まずは発信する力を磨くべく、広報の道へと飛び込みました。
もちろん最初はわからないことだらけ。そもそも先生と一般企業では常識も全然違いますし、一般的なビジネスマナーについても本当に0から全部学んできました。
それでも周りの方の尽力もあって、たくさんのことを学ばせていただき、1年8カ月経ったタイミングで、プロジェクトの広報リーダーとなりました。
(日々仕事術についてはマガジンにしているので、こちらも見ていただきながら、ご自身の仕事等で参考にしていただければ嬉しいです。)
今後のビジョン
私のビジョンは「圧倒的影響力を持つ人になること」です。
アスリートレベルでスポーツをやっていたとき、下記のようなタイトルにずっと燃えてきていました。
ですから私はものすごく単純で、「圧倒的」「前代未聞」「業界初」「日本一」などといった言葉だけで突っ走ることができます。笑
では大人になって、改めて自分の人生で「どこを目指したいのか」「どんな人になりたいのか」を考えた時に「圧倒的影響力を持つ人になろう」と決めました。
そして、それを人生かけて挑戦し続けるとするのならば、世の中にももっともっと貢献しながら成長していきたいと思い、経営者として活躍していこうということも決めています。
詳しい事業内容を考えるのはまだまだこれからですが、現段階では小売り、人材、教育、スポーツ関連の事業に携わっていけたらと考えています。
先生をしていたときの「1人でも多くの子どもたちと関わり、体育の魅力や可能性を伝えたい」という想いは今でも胸にあります。そこからさらにレベルアップをして、「地域や日本の子どもたち、さらにはそれを支える先生方や保護者の方へも貢献できる仕事をしていきたい」と今は想っています。
となるならば、私自身まだまだ努力が必要で、身に着けていくべきことも本当にたくさんあります。なので、これかも人生修業だと思って、日々精進していきます。
普段、私自身に関わってくださっている多くの方々、いつも本当にありがとうございます。
これからの人生も全力でチャレンジしていきます!
長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。