ノウハウ的な文章が書けない人は、根がやさしい
さて、8月。
個人的にこの月は、ちょっと世界平和に思いを馳せたくなるとき*
無事に今月も、みなみな様のこころが平和であれますよう、
やさしく楽しく、充実した日々となりますようお祝い申し上げます♪
では、今日のお題は
「ノウハウ的な文章が書けないひとは、根がやさしい」について。
そして
「文章から上から目線をなくしていくことでも、世界平和につながっていく」について。
二つ書きたいのですが、
ぜんぶは書ききれないので、ほんの少しだけ♪
わたしは、こういったやや上から教えるスタンスのものが、すこしニガテ。
でじわじわ自然と伝わることの方が好きで、好む傾向があります。
もちろん、そこに優劣はなく
単なる「好み」の違いなのですが
時に、「こういうときは、こうしましょう」という書き方は
その人にとっての正解や、価値観を押しつけることにもなりかねないから…
わたしは、自分が書くときにはとても気をつけています*
だから、おなじように
「わたしの場合は、~~です」という書き方のひとや
「わたしは、こう感じます(感じました)」と書くひとって、
どこかおなじ空気を感じて、安心もするし
“とっても大切なもの”をわかっていらっしゃる気がして、
すごく、好感と共感をおぼえるのですね♪
で、その“とっても大切なこと”って、何かというと
自分で答えを感じようとするチカラだったり、
自分から求めるものを掴みにいこうとするチカラだったり、色々ですが
肝心な、絶対的な前提スタンスに
「正解は、一つじゃない」があるかどうか?
それを感じられる文章だと、
「あぁ、この方はお相手(おひと)の意思を尊重される方だなぁ」となるし
そうでない文章だと
「自分の主張なんだなぁ」となる*
わたしは、文章においても
“聴く”姿勢ってもてる気がしていて。
“書く”って、ともすれば一方的な行為かもしれないけれど、
そのなかにいかに“聴く(感じる)”がもてるかどうか?
そんなところが、じつは遠いようでいて
わたしの場合のnote継続のスタンスにもなっているし、
「生き方」にもなっているなと感じています*
…で、やっぱり一度には書ききれなくて、
『ノウハウ的な文章が書けないひとは、根がやさしい』
『文章から上から目線をなくしていくことでも世界平和につながっていく』
『本(原稿用紙/有料記事)とエッセイの違い』
なんかも、またわたしなりに感じていることを
またどこかで(求められてそうだったら汗)書いてみたいと思います♪
なんて書くと、おこがましさ甚だしいですが、
そして文章だけだと、なんだか高尚めいてしまって
どんどん ‘素’ から遠くなるのは全力で避けたいですがっ(笑)
今日も、笑顔いっぱい、元気&こころ平和な一日をお過ごしくださいね♪
お読みくださり、ありがとうございます。
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書く軸を定める文薬-ふみぐすり-(読むセッション)
書く軸を定めていきたい時の「読むセッション」です。 読むと、自然と「真ん中」に還っていける… 日々のプロセスから生まれる、飾らないことば…
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