【分野別音楽史】#09-2 ドゥーワップ、ソウル、ファンク
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
1940~50年代は、ジャズ/ブルースからロックンロールやソウルミュージックへとジャンルが派生していった時期なのですが、ややこしいのは、「ソウル~ファンク~ヒップホップ・R&Bポップス」といったいわゆる「ブラックミュージック系」の源流となる分野と、「ロック史」のルーツとなる「ロックンロール」周辺の分野が、同じ「リズム・アンド・ブルース」という範疇の音楽で重なっていて、その境界線が曖昧なのです。
ブルース史のときにも触れましたが、現在ロック側の視点でルーツミュージックとして重要視されがちなデルタブルースやシカゴブルースなどの「ギターブルース」だけでなく、ジャズ的なサウンド傾向のある黒人向けポップスや、ブギウギなどを取り入れた「ジャンプ・ブルース」までもが同じ時期の「ブルース」であり、さらに前回や今回で触れているゴスペル系のボーカルグループの系譜もここに入ってきます。
「リズム・アンド・ブルース」とはつまりどういう音楽を指すのか?ロックンロールとの違いは何か?ソウルとの違いは何か?という素朴な疑問に対する音楽的な答えを一概には説明できません。
この時代、人種的分断に基づいて「黒人大衆向けの音楽」が「リズム・アンド・ブルース」という大きなカテゴライズで売られていた、という、歴史的経緯を以て理解するしかないでしょう。その中で、カントリーなどの白人サイドの音楽とも結合した動きが「ロックンロール」と呼ばれ、白人社会も巻き込んだ一時のムーブメントになっただけなのでしょう。
このような観点も頭の片隅に置きながら、引き続き見ていきたいと思います。
◉「ドゥーワップ」の人気へ
1930年代に出現したインク・スポッツやミルス・ブラザーズらの音楽を源流として、1950年代に「ドゥーワップ」というジャンルが人気となりました。
これは「ドゥーワッ」「シュビドゥワ」「ドゥドゥワ」といった歌唱(=スキャット)を特徴としており、ジャンル名の由来にもなっています。無伴奏のアカペラとは異なり、バンドの楽器伴奏が付いた上で4人~5人のボーカルアンサンブルで歌われるスタイルです。
当時、黒人大衆向けの音楽市場が大きく「リズム・アンド・ブルース」と呼ばれていましたが、それらと結びつきを深めていたゴスペルグループなどの黒人の音楽グループの中からドゥーワップが生まれ、人気を博しました。
ジャンルの境界線は曖昧で、そのアーティストや音楽は「ドゥーワップ」とされながらも同時に「リズム・アンド・ブルース」や「ロックンロール」または「ソウル」などもジャンルであるともされることに注意が必要です。
オリオールズ、レーヴンズ、ムーングロウズ、ファイブ・サテンズ、スパニエルズ、ハープ・トーンズ、ペンギンズ、クロウズ、プラターズ、ファイヴ・キーズ、ドリフターズ、ビル・ケニー、デルタ・リズム・ボーイズなど、多くのグループが活躍しました。
ザ・コーズの「シュ・ブーン(1954)」という楽曲や、ザ・クロウズの「ジー(1954)」という楽曲は、ビル・ヘイリーの説と並んで「初のロックンロール」だとする主張もあるようです。それほどジャンルの境界線は曖昧で、大枠で「リズム・アンド・ブルース」としてドゥーワップやロックンロールがカテゴライズされていたということです。
ドゥーワップというジャンル名は「1950年代の黒人音楽の一ジャンル」という限定的意味合いが強いため、同じようなの歌唱スタイルを取るその後のポピュラー音楽のコーラスグループにはドゥーワップというジャンル名は使われないようです。
ドゥーワップはソウルミュージックのルーツとなった音楽ですが、同時に、ブルースやカントリーと並んでロックンロールのルーツの一つであるともされています。また、日本のムード歌謡の一部にもドゥーワップの影響が見られます。
◉ソウルミュージックの萌芽
1950年代「リズム・アンド・ブルース」というぼんやりとした大枠がある状況下で、ドゥーワップ・ブームやロックンロール・ブームが起こっていた、という説明のしかたが一番妥当でしょうか。そしてそこから、ジャズやジャンプ・ブルースの時代から引き続いてソロシンガーも登場していくことになります。
ベン・E・キングなどはボーカルグループから独立する形でソロで活躍を続け、「Stand by me」の一大ヒットで知られます。
また、レイ・チャールズやサム・クック、ジャッキーウィルソンといったリズム・アンド・ブルースのアーティストは、ロックンロールとは別に影響力を持つようになり、後にソウル・ミュージックとして発達していくことになります。
1950年代~1960年代、世界中でリズム・アンド・ブルースが「ロックンロール」という形を装ってポピュラー音楽に浸透し始める中で、その系譜とは別に、ゴスペルの影響を受けた黒人のポピュラー音楽が存在感を現し始めます。
そして、「神様を讃える」敬虔なゴスペルミュージックと、俗物的な「悪魔の音楽」リズム&ブルースを「魂を売って」融合させてしまったと捉えられたために、自然発生的にソウル・ミュージックとして認知されるようになったといわれています。
◉モータウン・サウンド
ロックンロールブームのあと、ニューヨークのブリルビルを中心とした新しいティーンポップが人気となっていましたが、さらにアメリカ中西部にも、音楽生産の重要な拠点が誕生していました。
1959年、自動車産業都市であるミシガン州デトロイトに、フォードの下請け工場主だった音楽好きのベリー・ゴーディ・ジュニアがレコード会社を設立したのです。自動車の街=モーター・タウンにちなんで「モータウン・レコード」と名付けられ、目覚ましい勢いでヒット曲を量産していきました。
モータウンでの音楽生産は、基本的にティン・パン・アレーやブリルビルの手法を踏襲したものでしたが、さらに作曲家チーム、専属バンド、振り付け担当といったあらゆる専属スタッフを社内に抱え込んでいた点に特徴があります。ゴーディの自動車工場での経験からこうした分業体制の発想が産まれていたようです。
さらに、自身も黒人であったゴーディのプロデュース法の特徴として、黒人の尊厳の向上を目標とした「黒人音楽のポップ化(白人化)」があります。グルーヴ感を生み出すリズム&ブルースやゴスペル、ドゥーワップ、ソウル・ミュージックなどを基調としながらも、12小節ブルースを彷彿とさせるような初期の黒人音楽の要素は薄め、ポップ志向を強調しました。
熱心なジャズファンだったゴーディーは、ジャズやラテンの要素も取り入れながら、アレンジを洗練化させていったのでした。また、言葉遣いや立ち振る舞い、振り付けや衣装などのステージパフォーマンスまでをアーティストに教育し、都会的なスタイルをプロデュースしたのでした。
モータウンの第1号アーティストはスモーキー・ロビンソンをリーダーとするザ・ミラクルズで、「ショップ・アラウンド」という曲がヒットします。その後ロビンソンはモータウンの副社長となり、ソングライターとしても活躍します。
当時のモータウンを代表するガールグループには、ダイアナ・ロスを擁するスプリームスや、マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラス、マーヴェレッツなど、男性グループにはザ・テンプテーションズ、フォートップス、ジャクソン5など、また、ソロ―アーティストではメアリー・ウェルズ、メイブル・ジョンなどがヒット。
さらに、マーヴィン・ゲイや、スティービーワンダーなどの後の大物アーティストも活躍の準備を整えていました。
1960年代初頭の「モータウン初期のサウンド」としてはシンプルなロックンロールのような風味でしたが、1960年代後半にかけてシンフォニックなサウンドの導入など、念入りな作り込みがなされるようになり、さらに大きな発展を遂げていくことになります。
こうした音楽が、レイ・チャールズやサム・クックなどの【ロックンロール化しなかったリズム&ブルース】のルーツのアーティストから連なる系譜としてソウル・ミュージックと位置付けられるようになったのです。
ところで、よくある「ポピュラー音楽史」としては、ロックンロールからビートルズらのロックへと連なる物語だけを見て、その間に挟まれたこの時期がレーベル・プロデュースによるアイドル的な生産手法の音楽が主流だったために、ロックとして評価することができない「停滞期」「空白期」となってしまっています。しかしそれはあくまで、数ある音楽史のなかで商業ポップスを嫌う「ロック史」というただの一分野の視点であるということを強調しておかなければなりません。
一方で、今度は「ブラックミュージック史」というふうな視点のみで見た場合、突如「ソウル」という分野だけがピックアップされ、ロックンロールを含んだ「リズム・アンド・ブルース」の捉え方は分かりづらくなってしまいます。
ソウルの始祖とされているレイ・チャールズを始点として、差別問題とも密接に絡んだデリケートな切り口も孕みつつ、黒人が社会に立ち向かっていく姿として、その後のファンクやヒップホップまでの連なりの物語がブラックミュージック史として体系づけられています。
このあたりの関係性が、まとめ方が非常に難しい部分であると感じます。
◉「ビートルズ襲来後」も発達を続けたソウル
ブリティッシュ・インヴェイジョンによってアメリカの音楽市場は大きく塗り替えられ、それまで人気だったブリルビル系のティーン・ポップは急激に失速してしまいましたが、対してモータウン系は発達をつづけました。
これは、ブリルビル系が「レコード」をプロデュースする「楽曲中心」の音楽産業だったことに対し、モータウンは「アーティスト」をプロデュースしていたからだといわれています。
リード・シンガーに焦点を当てて「スター」を演出していたことで、ロック・スターの登場にも対抗することができたのです。ガール・グループが失速したのと対照的に、イギリスのバンド勢がアメリカのチャートを席巻した後もモータウンはヒットを量産し続けました。
デトロイトにモータウンが設立された頃、実はメンフィスやアメリカ南部にもスタックスやヴォルト、スペシャルティ・レコード、アトランティックといった多くの黒人音楽レーベルが誕生していました。
オーティス・レディングやルーファス・トーマス、アレサ・フランクリンなどのアーティストをヒットさせ、このような南部のソウルは「サザン・ソウル」「ディープ・ソウル」などと呼ばれます。これに対し、北部デトロイトのモータウンのポップなサウンドは「ノーザン・ソウル」とも呼ばれます。
モータウンに代表される北部のポップなノーザンソウルと、スタックスに代表される南部のディープなサザンソウルに分けられたソウルミュージック。
モータウンは「白人に媚びた商業的な音楽である」、スタックスは「黒人らしく、ソウルフルである」と評価される向きがありました。
しかし、実情はモータウンのほうがほとんどが黒人であり、スタックスには半分ほど白人のスタッフも関わっていたのです。ここに、リスナーの先入観と願望の存在が見て取れます。
「黒人音楽は力強く、粗野で身体的であり、洗練とは無縁である。“ホンモノ”の黒人音楽は南部に存在する」というイメージが根付いてしまっていたのです。
60年代前半、ブリルビルとモータウンというそれぞれのポップサウンドの台頭とともに、「人種」よりも「世代」の分断があらわれ、ビルボード誌のチャートでは1963年に一度「黒人音楽」という区分けが消滅していました。
しかし、ビルボードは1965年に「リズム&ブルース」のチャートを復活させます。これは、黒人コミュニティの音楽的志向がアメリカ社会全体からふたたび乖離し始めた、と業界が判断したからだといえます。
ブリティッシュ・インヴェイジョンとその影響を受けたフォークロックなどによって、「ロックンロール」ではない「ロック」が誕生した一方で、黒人音楽の領域には南部の「ソウルフル」なサウンドが期待されたのでした。
◉「ソウル」から「ファンク」への “リズム革命”
「黒人音楽」という枠組みが再び浮かび上がっていきつつあった1960年代中盤、ジェームズ・ブラウンは、リズム&ブルースやゴスペルをルーツとする「歌やハーモニーが基調のソウル」を脱皮させ、ギターやホーン・セクションまで含めた、バンドの全楽器がリズムを強調するような音楽を目指すようになります。
50年代は、もともとレーベルの意向にそってソウルミュージックを歌っていたジェームス・ブラウンですが、1964年の「Out Of Sight」や1965年の「Papa's Got A Brand New Bag」から、ビートを強調させる兆候が始まったとされています。
リズムやビートの強調とともに、コード進行の最小限化が志向されるようになります。60年代半ばの作品では、まだブルース進行の名残が見られる曲も多いですが、徐々にブルース進行さえも否定されていき、ただひたすら1コードか2コードを繰り返す楽曲形式になっていきました。1967年の「Cold Sweat」が分水嶺だとされます。
このようにジェームズ・ブラウンが推し進めた音楽スタイルが「ファンク」と呼ばれ、ソウル・ミュージックの新しい段階となったのでした。ロックにおける8ビートのリズムから、ファンクではハイハットを刻んだ16ビートへの移行が進んだことが重要な点です。
ジャズではコードの機能的な進行を避けた「モードジャズ」がうまれ、クラシックから続く現代音楽の分野でも、ひたすら反復を要求する「ミニマル・ミュージック」が誕生しており、サイケデリック・ロックでも、長尺のセッションの増加や東洋趣味(インド的な輪廻転生)にその志向を見出せます。この時代、既存の秩序からの脱出という「ポスト・モダン」の方向性として、「反復」に興味が注がれるようになったということがいえます。
さて、ジェームズ・ブラウンは黒人社会での影響力を大きく持つようになりました。68年にキング牧師が暗殺されたあとには、ラジオを通して平静を呼びかけたり、翌日のライブに急遽テレビ中継を付けて、「暴動を起こさず、家にとどまって俺のショーを見るように」と呼びかけ、放送された地域では実際に暴動が抑制されたといいます。
1960年代末になると、ジェームス・ブラウンが産み出したリズムやボーカルスタイルが、他のソウル・ミュージシャンも取り入れるようになります。
ソウルの段階において“funky”という言葉を使った最初の楽曲は1967年のダイク & ザ・ブレイザーズの「Funky Broadway(1967)」だとされています。
また、ジョージ・クリントンが結成していたパーラメントというドゥーワップ・グループが、契約上の問題で名前が使用できなくなってしまったことを機に、それまでのバックバンドを前面に出して1968年「ファンカデリック」を結成します。
これは「ファンク」と「サイケデリック」の造語で、もちろん当時のカウンターカルチャー、LSDの影響がありました。それまでのモータウン調のボーカルグループからサイケデリック・ハードロック・ファンクバンドに変容し、ジョージ・クリントンはジェームス・ブラウンとともにファンクの最重要人物となります。「パーラメント」と「ファンカデリック」、及びその構成メンバーによるファンクミュージックを総称して「Pファンク」という音楽ジャンルで呼ばれています。
また、サイケデリック文化が花開くサンフランシスコにおいては、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがより麻薬的なムードを作り出して成功しました。人種・性別混合編成のバンドであり、ロックとの融合したサウンドは白人にも人気となりました。彼らの全盛期は1968~1973年とされます。
以上のように、ジェームス・ブラウン、Pファンク、スライ&ザ・ファミリーストーンが、この時期「ファンク」というジャンルを確立した重要アーティストです。
◉ファンクを携えた新たなソウル
1960年代末にジェームズ・ブラウン、スライ&ザ・ファミリーストーン、ファンカデリックらのサウンドがファンクとして、新しいブラック・ミュージックのスタイルを確立しましたが、この動きを経てブラックミュージックとしては、60年代までのソウル・ミュージックとは一線を画す新しいタイプのサウンドが70年代に登場し、そのムーブメントが「ニュー・ソウル」と呼ばれました。
ニューソウル的な動きを始めたのはカーティス・メイフィールドで、つづいてダニー・ハサウェイやアイザック・ヘイズ、ザ・ステイプル・シンガーズといったアーティストらが、ともに新世代の黒人アーティストとして脚光を浴びたのでした。
さらに、このニューソウル期にはモータウンからも偉大なアーティストが多数登場してヒットを飛ばしました。
その代表格は何と言ってもスティービー・ワンダーです。さらに、マーヴィン・ゲイもニューソウルの筆頭とされました。他に、スプリームスを脱退してソロ活動を始めたダイアナ・ロスや、若かりし頃のマイケル・ジャクソンらによるジャクソン5、そしてライオネル・リッチーが所属したコモドアーズなど、ビッグアーティストがモータウンから輩出されたのでした。
◉フィリー・ソウル人気
70年代前半にはさらに、フィラデルフィア発のソウル・ミュージックも台頭し、人気となりました。これがフィリー・ソウル(フィラデルフィア・ソウル)です。
フィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)から発信されてムーブメントとなったこのサウンドは、作品の大半がシグマ・スタジオで制作されたことによりシグマ・サウンドとも言われます。PIRのハウスバンドであるMFSB(Mother Father Sister Brother)によって奏でられた、ストリングスを活用した甘めのサウンドが特徴です。
オージェイズ、ビリー・ポール、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツ、テディ・ペンダーグラスらが著名なアーティストです。
このようなストリングス・サウンドのアレンジが、ディスコブームのアレンジに影響していったのでした。
◉ディスコ・ブーム
1975年、ヴァン・マッコイの「ハッスル」が大ヒットします。ここから、70年代後半の、空前のディスコブームが始まりました。
ディスコとはもともと、レコードに合わせて客がダンスを踊る娯楽場を意味していて、そこでは60年代からソウル・ミュージックやファンクがかけられ、70年代前半にはフィリー・ソウルもブームになっていました。
そこで、客をより気持ちよく踊らせるのはどうしたらよいのか、という発想になり、曲のテンポが注目され、心臓の鼓動に合わせたようなテンポの曲が増えたのでした。さらに、ドラムのビートパターンとして、4つ打ちのキックと16分で刻まれるハイハットのリズムは、人々が踊るのに非常に適しており、新しいダンス・ミュージックとして急速に広まっていったのでした。
ドナ・サマー、ビージーズ、テイスト・オブ・ハニー、クール&ザ・ギャング、マイケル・ゼーガー・バンド、ヴィレッジ・ピープル、シック、シスター・スレッジ、ビーチズ&ハーブ、ジンギスカン、ABBA、シャラマーらが75~79年にかけて多数のディスコ・ヒットを飛ばしました。
◉ファンク・ディスコ・ソウルの再融合
こうした、ソウル~ファンク~ディスコが流行した70年代のブラックミュージックの各スタイルを包括して新たなポップミュージックの世界を開拓したバンドが、アース・ウィンド&ファイアーです。ツインヴォーカル、重厚なホーンセクションが特徴として、多数のヒット曲を放ちました。
◉ディスコが爆破された日
ディスコ・ブームの影響力は絶大で、ベテランのロックバンド勢までもが、ディスコ調の曲を発表するようにまでなりました。ローリング・ストーンズの「Miss You」、キッスの「I Was Made For Lovin' You」、クイーンの「Another One Bites the Dust」などがそうです。
こうした動きに対し、硬派なロックファンからは反発の声が高まってしまいました。
さらに、そもそも踊らせるための音楽であったディスコは、ソウルやファンクなどに比べても軽く見られる傾向が強く、往年の音楽ファンや音楽評論家からも「商業主義だ」という批判が容赦なく浴びせられてしまっていました。
歌詞の面でも、それまでのブラックミュージックに存在した、間接的表現やダブルミーニングといった要素が消え去っていき、盛り上がるために直接的にセックス関連の言葉が登場するなど、快楽主義的側面が強調されていたのです。
商業的に快進撃を続ける"エンターテイメント的"な黒人音楽によってロックが追いやられてしまうことを危惧した白人達による差別感情や、さらに、ディスコ人気は同性愛者やゲイ・クラブでの人気にも支えられたという文化的関連があったために、それに対する差別感情も高まっていたのでした。
そうしてついに、ディスコ人気に終焉を告げる決定打となってしまった事件が起こります。それは、シカゴで1979年7月に発生した「ディスコ・デモリッション・ナイト」です。
大のディスコ嫌いで、反・ディスコ活動をしていたラジオDJのスティーブ・ダールは、シカゴ・ホワイトソックスの球団にとある企画を持ち掛けました。それは、ホワイトソックス球場での野球の試合に、要らなくなったディスコのレコードを持ってくると格安で入場できるというものでした。当日、球場は想定以上の観客とレコードで溢れかえっていました。そして、1試合目と2試合目の間に、集めたレコードを爆破してしまったのです。
「DISCO SUCKS!(ディスコはクソだ)」というキャッチフレーズの書かれた横断幕が連なり、会場は熱狂。興奮した群衆は設備の破壊などの暴動を起こし、その後の野球の試合も中止になってしまいました。
ベースは盗まれ、バッティングゲージは破壊され、爆破された芝生には穴が開き、グラウンドは悲惨な状況となりました。持ち込まれて爆破されたレコードはディスコミュージックだけでなく、もともと黒人やヒスパニックなどのマイノリティが集まる娯楽場やゲイクラブで流されていたソウルやファンクなどの黒人音楽のレコードも多く含まれており、差別的な側面が色濃く出てしまった形になりました。
さらに、このイベントはテレビ放映されており、全米中に「反同性愛、反黒人」の考えを広める悪名高いイベントとして歴史に残ることとなってしまいました。ブラックミュージックの商業的成功に対して白人たちが募らせていた不満が爆発し、ディスコミュージックは大打撃を被った形となったのです。
こうして、白人社会を中心とした大衆にとっては、一時のディスコブームが終焉し、マイノリティに対する差別感情や、ダンスミュージックがかけられるディスコやゲイクラブへの嫌悪感が強まることになってしまいました。
しかし、そういった逆境への反動として、この最悪のムーブメントが起こったシカゴという街から、ディスコが引き継がれた新しい音楽文化が反撃を開始していくのです。
ハウスミュージックの始まりです。
この系譜は、別途「クラブミュージック史」という形でまとめたいと思いますので、今回の内容はここまでです。
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