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日常の心と体の調整行為としてのランニング

思い返してみると、自分が子供のころのと比べて、ランナーを見かける数が多くなった気がします。


昔から健康維持や趣味としてランニングやジョギングを習慣にしている方は一定数いたとは思いますが、各種ランニングイベントの数の増加を見ていても、実際に自分が街中を走っていてすれ違うランナーをみていても、20年前よか増加してるんじゃないかな、という体感です。参考まで↓


自分も走ることを生活習慣にしてからかれこれ15年が経過しています。
ミニ四駆、アメリカのドラマ、ゲーム、漫画・・・色々なことを趣味にしてきましたが、これだけ長期間にわたって継続しているのは、ランニングと読書くらいですね。
多分、ライフスタイルの変化があろうが、世の中が大きく変わろうが、この2つとは一生の付き合いになるような気がします。

自分自身、ランナーの数を増やそうという野望もありませんし、好きな人がやればいい、というスタンスです。
ただ、周りの人と話していると、

・あんなきついこと、なんのためにやってんの?
・健康にいいことはわかるし、医者にも運動を勧められてるけど、面白くない・・。
・(マラソン大会に出ることに対して)金払って苦しい思いをするって、どういうこと!?

といった反応をされることもあります。
すごいねーと称賛されることも時々ありますが・・・。

でも、その批判も称賛も、走ってる側からすると、ちょっと的外れな感じです。

現状

持論を述べる前に、自己紹介がてら自分のランニングに対する情報を書いておきます。

・年齢は30代後半。
・中学〜大学は運動部に所属していたけど目立った受賞歴とかはない。
・走り始めたのは24歳ころから。
・フルマラソンはサブ3.5、ハーフマラソンは1時間32分が自己ベスト。
・今は土日を中心に朝も早起きできたときにはゆっくり走るくらい。月間の総走行距離としては100km弱くらいか。一時期は月200〜300km走ってましたが。
・身長は175cm、体重は55〜60kgの間を推移。

こんな感じ。大学を出たばかりのころは70kg近くありましたが、そこから運動+食生活を改め、減量に成功、今も維持という感じ。

なぜ走るか?

走る、というフィジカル面にだけ着目すると、「あんな苦しいことをして何が楽しいんか?」となります。
村上春樹さんも言ってましたが、この苦しさというか、走り出す前の「いやだなぁ」という気持ちはだれでも一緒なようです。

人間なんて、言い訳を作り出す天才みたいなもんで、今日走るのをやめようとする理由なんて、”トラックいっぱい分” 作れます。
走ることに限らず、勉強したり、会社にいったり、習い事に行ったり。
多分、何かの打ち込んで「楽しい!」となっている短期間は別かもしれませんが、多かれ少なかれ、人間、何かを始めようとするときには億劫に感じるものですよね。

日々、意識をしているわけではありませんが、自分はこの「億劫がっていた自分に克つ」ということが一つ走る目的な気がしています。
今日も自分の中に渦巻いていた、悪魔に勝って体を動かせた。
朝一でそんなささいな勝利があると、一日、少し良い気分で過ごせる。
その1勝のため、ささいな気分の向上のためにやっているというのが1つだと思います。

実際に、学術的にも「運動は最高の抑うつの対策」ということもいわれており、メンタルにも健康にもよい、となると取り入れるっきゃないですよね。

メンタル関係で言うと、食事に対するメンタリティの変化というのも付随して得られる効能だと思います。
まず、運動により消費できるカロリーは微々たるものと言われ、運動だけでのダイエットは困難ということがよく言われます。
実際に運動したり、消費カロリーを計測してもそれは体感できること。
頑張って30分走ったところで、ご飯一膳分とか、そのレベル。

でも、すくなからず何もしないよりは消費しているというのは事実。
さらに、運動と消費カロリーの関係が体感でわかってくると、何か飲食をする際に「これを口にしたときの摂取カロリーを消費するにはあんなに運動しないといけないのか・・・」という暗澹たる気持ちになり、抑止力としての効果も得られます。
一歩立ち止まるというか。

自分が社会人なりたての頃から10kgほど体重を落とし現在も維持できているのは、ランニングによる消費カロリーと、それによる飲食の抑制効果の2つの影響が大きいことは間違いありません。

高価な道具は必要ありません。
なんだったら、ちょっと運動できる靴と道さえあればどこでもできます。

数メートルからでもいい。
少しでも共感いただけた方は、今日から1歩踏み出してみてはいかがでしょうか?

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