尾崎豊が見出した「自由」とは、いかなる意味でスピノザ的な自由に似ているのか
尾崎豊。日本が誇る、唯一無二のシンガーソングライター。私はそう思っている。若い世代の方は、この固有名をどれくらい知っているだろうか。私たちの世代においては、圧倒的な共感と指示を得たカリスマ的な存在であった。
26歳で急死。1992年の出来事だから、私がまだ14歳、中学生の頃である。その出来事は連日メディアで報道されていた。私もまた、テレビにくぎ付けになっていた。
代表曲は、『I Love You』『15の夜』『OH MY LITTLE GIRL』『卒業』『僕が僕であるために』『Forget-me-not』『シェリー』『十七歳の地図』といったところだろうか。私はこれらの歌を全部歌える(笑)。相当練習をし、カラオケという遊びを覚えた高校生から、40歳を越えた今もなお、尾崎を歌い続けている。
尾崎の音楽を貫いていたテーマの一つに「自由」というものがある。これについては疑う余地はないだろう。彼は何にも誰にも縛られないものとしての自由を歌い、大人たちへの反発、社会的な規則、支配への抵抗を叫ぶことで、多くの若者の心をつかんで離さなかったのだから。
この時代、ロックンロールというジャンル自体が、そもそも「自由」を希求する若者らの、行き場のない怒りをエネルギーに変え、表現するという運動そのものだったと思うわけだが、尾崎にもロックの要素はありながらも、ベースはアコースティックギターによるフォークソングである。
音楽の最初の入り口は、井上陽水やさだまさし、イルカだったようだ(Wikipediaより)。70年代のフォークからロックの音楽的なルーツや、全盛期のブルース・スプリングスティーンを彷彿させるという点からも、「フォークロック」に位置付けられるのかもしれない。
とはいえ、そのようなジャンルの区分けはナンセンスであろう。尾崎の固有性は、そのようなロックなのかフォークなのかという解釈におさまるものではない。
さて、問うべきはこの尾崎豊にとっての「自由」である。ここでの考察は、多分に私の勝手気ままな解釈によるものであるから、尾崎が本当はどう考えていたか、真実はどうであったのか、歴史的背景は何であったか、といったものとは無縁なものであることはお伝えしておきたい。
あくまで彼の歌詞世界と、若干のエピソードなどから見えてくる人物像、それとわが哲学者スピノザが考える「自由」についてを補助線に入れながら、尾崎が求めていた「自由」とは、はたして何であったのか、その紐解きを試みたい。
尾崎豊、自由、と並べてすぐに連想される曲は『15の夜』であろう。メジャーデビューを果たしたシングル曲である。本歌詞の内容は、尾崎自身のものではなく、友人のエピソードをモチーフにしているということは、のちに分かったことだが、本人の実体験かどうかは重要なことではない。そうでなければ、マフィア映画は本物のマフィアが作らなきゃいけないという理屈になってしまう。作家の表現における優れた部分とは、それが本人の体験からくるか否かよりも、ある種の普遍性を獲得しているか否かに求めるべきである。
そういう意味では、『15の夜』とは、同い年くらいの少年少女の思いや感情を代弁しているものとしての普遍性を持っている。自我が芽生えはじめるのが小学生高学年くらいだとして、中学生にかけてはその芽生えた自我はいよいよ鋭さを増し始める。
大人であることと、まだ子供であることのちょうど狭間の時期でもあり、ただ大人の言うことに従って生きている自分とは、一体何ものなのかという疑問や、そのわからなさに対しての怒りにも似た苛立ちが沸き起こる年齢でもある。その「やり場のない気持ち」はどこへ向ければよいのであろう。
この歌は、あまりにも有名である。バイクを盗んだり、煙草を吸うかどうかはともなく、学校や大人たちが決めたルール、束縛から脱け出し、己の自由のままに生きたいという<解放>への願望は、多くの若者が、この時期に感じるものであろう。
その昂る感情が、<解放>に向けて走り出す際の疾走感を、彼はバイクで表現するのである。何かが、大きくシフトしていく、そして止まらない運動としてドライブしていく、そこには、「自由」への期待、「予感」がある。だが、その行き先、辿り着く先は、彼自身もよくわからない。
ここで注意しなければならないのは、彼はまだ「自由」を手に入れていないということだ。あくまで「自由になれた気がした」で終わるのである。彼は、15歳であるということが、「なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な」ということがよくわかっている。わかっているのだが、「自由」を求め続けるのである。
私たちも、同じ年齢の時に抱いたであろう「自由」とは、この世界のどこかにきっとあるはず、といったような「外」の自由である。それは、大人になっても抱くユートピアへの幻想と似ている。尾崎もまた、自分が今存在している「家」や「学校」とは違う何処か、という意味での「自由」を探そうとしているように見える。
『卒業』という歌も、基本的には『15の夜』の世界観の延長にあるのだろう。
結局、学校生活の中においては、「自由」というものがまだ得られていない。その答えを求めることと、逆らい続けることやあがき続けることは同義であった。だが、それでも「自由」は見えてこない。もはや、「うんざりしながら」時間が過ぎていくことだけを待つしかないのだが、一つだけわかったことがある。「この支配からの卒業」である。
だが、彼は、その卒業が一体何を意味するのか、すでに別の「予感」を抱いている。
そう、「この支配からの卒業」とは、また別の支配への移行にすぎないのだ、ということを彼はすでに予感している。卒業=解放ではないのか? 自由ではないのか? というさらなる葛藤が、この歌には読み取れるわけである。そして、自分たちが感じている「自由」、世間が言う意味での「自由」というものが一体なんであるのか、彼は薄々気付き始めている。
これは『卒業』のラストの歌詞だが、「この支配からの卒業」の次に「闘いからの卒業」とある。いったい何と闘っているのか。大人たちか、学校か、この社会のルールか? そのように捉えることはできるだろうが、しかし、先の歌詞に「これからは 何が俺を縛りつけるだろう」とあるように、終わりのない束縛を彼はすでに予感しているのである。
であるならば、この闘いの意味は、少し前の歌詞である「仕組まれた自由」と結びつけるべきである。そう、「仕組まれた自由」とは、自由に生きているかのように思わされているだけの「世界構造」そのものの意であると、私なら捉えたい。
自由、自由ってみないうけれど、そんな自由、どこにあるの? どこにもないものを欲して、俺たちはもがき苦しんでいるのか、であるならば、そのような自由への問いそのもの、希求そのものが、仕組まれた虚構にすぎないのではないか。だからこそ、「あと何度自分自身 卒業すればいいのだろうか」、という終わりなき問いを、彼は察してしまっているのである。
実際の彼は、その本当の意味での自分自身の「自由」を求めて、音楽に携わり、ミュージシャンになったはずなのだが、待っていたのは、「音楽業界」という新たな束縛であったであろう。あるいは、メジャーデビューしたことで多くの若者の共感を呼び、一気に「時の人」として押し上げられたことによる戸惑い、世間やレコード会社によって造りあげられた偶像性、虚構性がまた、彼自身を縛りつけてしまったのかもしれない。そこには、自由の歌を歌い続けなければならない、<宿命>という不自由さがあったのかもしれない。
だからこそ、彼は「自由」ではなく、「愛」にもすがり、歌うのである。ある記事によれば、彼の歌には、「自由」が30回、「愛」は182回も出てくるのだという(参照:『「自由」を30回、「愛」を182回歌い上げた尾崎豊。31回忌に精神科医が思うこと』)。
『卒業』と同じアルバムに収められた『シェリー』には、「自由」という言葉はどこにもない。
シェリーとは、実在のモデルがいたとも言われるし、尾崎自身、あるいはファンのことを意味しているとも言われるが、彼自身は「ボクが歌手っていうものになって、この世界でやっていくことの不安感や決意みたいなものを歌った曲」と言っている。
歌詞からは、不自由さに雁字搦めにされた人間の、もがき、焦り、葛藤が、苦しいほどに伝わってくる。執拗に繰り返される「問い」。この「問い」そのものが歌詞を構成している。しかしそれは一体誰に向かっての問いなのか。シェリーなのか、あなたなのか、自分なのか、それとも「世界」なのか。あるいは、一度は見失ってしまった「自由」そのものに問いかけているのかもしれない。
この執拗な問いかけは、もはや「祈り」のようなものに近いのかもしれない。彼は、自分が、この世界において、あらゆる規則的なもの、人間関係、虚構的な社会、そういったものから逃避しようという思いはない。逃避したところで、それはまた別の不自由さに縛りつけられるに決まっている。
だからこそ、この不自由さの中で生きていくしかないのだが、その不自由さの中で、ちゃんと笑えているか、ちゃんと愛されているか、正しいことをやっているのか、常にその「不安」の中でもがいているのである。
いつものごとく、だいぶ長くなってきてしまったので、そろそろスピノザにも登場してもらうが、スピノザ哲学が教える「自由」とは、自然(世界)の必然性を認識し、その必然の中において生きることである。よく誤解されるのが、スピノザがいう世界は、すでにあらゆることが決まってしまっている「決定論」である、という認識だが、これは違うと思われる。
スピノザの世界とは、「決定論」の世界ではなく、すべての事象には原因があり、神=自然の法則が貫かれているという「必然主義」である。しかし、スピノザのいう神=自然とは、この世界で次に何が起こるかは、神さえも予測できない、リアルタイムに生成する<現実>そのものの意でもある。ただその<現実>の現われには、必ず何かしらの原因があるよ、関係性があるよ、ということである。
だから、すべての人間の行いは、あらかじめ神によって決められているという「宿命論」的なものでは決してないのである。そしてスピノザにおいては、その自然(世界)を貫く必然的なものを認識すること、従うことこそが、よりよく生きるということであり、そのよりよく生きることが「自由」と呼ばれる。
その反対は、「強制」や「隷従」である。「自由」は、身体や感情の必然的な認識=能動に関わるものであり、強制や隷従は、認識しないままに従うこと=受動的なものにほかならない。魚が自由に泳ぐというとき、魚は自身の本性と、水の中で生きるという自然の本性に従い、その中において必要十分な力を発揮しているから自由といわれるのである。
スピノザがいう自由は、この世界のどこかにあるユートピア的なもの、「外」なる自由とは無縁である。それは、己の認識において、受動的な認識から能動的な認識へと至るプロセスにおいて見出せる「自由」である。
そのことは、じつは尾崎もまた、初期の段階から気付いていたものではあろう。「外」に自由を求めていた『15の夜』が収められたアルバムには、もう一つ彼の代表的な歌がある。『僕が僕であるために』である。
この歌は、「両親に対する思いや自身の弱さを克服するにはどうしたら良いのかについて結論を出した曲」と言われている。『15の夜』が同い年の若者たちを代弁するものだったのに対し、この歌は、英題で「MY SONG」とつけられている。自分自身を歌ったものと解すべきであろうが、『15の夜』ですでに見られた、「自由」への幻想というものは、ここには見られない。
そして、尾崎の歌詞には「街」というものがモチーフとしてよく出てくる。タイトルにも「街」がよく使われる。『街の風景』『愛の消えた街』『街路樹』などがそうである。『十七歳の地図』の舞台も、「街角」である。尾崎にとってのこの「街」とは、「この世界」と同義であろう。彼は、その「街」の中で生きることを決意する。
『15の夜』や『卒業』には見られない、「落ち着き」がどこかにある。彼はまた、「自由」とはいかなるものであるか、それが少しづつ解り始めているのかもしれない。それは、決して闘いや抵抗の中で見出していくものや、「外」にあるようなユートピアとは違う。「外」を求めて卒業(=解放)しても、別の「内」があるだけだ。つまりどこまでいっても、私たちは「外」に出られないのだ。
ここでの尾崎はそうではない。この街=世界に生き続けることが、そもそもの条件なのだと、生きることの大前提に立つわけである。そのうえで、なにが「自由」と呼べるものなのか。彼は、こう叫ぶ。
それは、この街=世界との和解、少しだけ心を許すといったような認識がまずあり、そして、「僕が僕であるために」、自分の本性のままに生きるということ。それが尾崎にとっての「自由」ではないのだろうか? 歌詞には「自由」という言葉は出てこないが、この街=世界と向き合えたこと自体に、彼の「覚悟」、心の「自由」を私は読み取る。
このある種の「覚悟」は、『17歳の地図』においても貫かれている。蛇足だが、この『十七歳の地図』というタイトル、作家中上健次の『十九歳の地図』からきているのだという。その歌詞、言葉は、『シェリー』にあったような繊細さ、ナイーブさとは異なり、どこか力強い。内からあふれ出てくる力、決意が感受できるのである。
では、そのために、「僕」は一体に何に「勝ち続け」なければならないというのか。それは、ありきたりな言葉でいえば、「自分自身」ということになると思うが、「仕組まれた自由」という受動的感情、隷従的な関係性からの解放ではないだろうか。その解放は、けっして物質的なものとしてはありえない。この「街」は、どこまでいっても、この「街」である。規則もルールも、人間関係も、感情もぐちゃぐちゃになった世界という現実(リアル)である。
だが、その中においてさえも、自由が可能なのだとしたら、それはもはやスピノザ的な意味での自由しかないであろう。よりよく生きるという己の本性、普遍的な生への喜びの獲得のために、この世界を認識し、その中で自らの必然性に従って生きるということである。
しかしそれもまた、答えがどこにあるのかはわからない、不確かなものである。だから自分にできることとは、「この冷たい街の風に歌い続けてる」ことにしか、ない。
ここで紹介してきた尾崎豊の曲は、けっして時系列に並べているわけではない。『シェリー』は、『僕が僕であるために』や『十七歳の地図』よりもあとから出されたものだ。したがって尾崎には、私が順を追って描いたような、「自由」という「外」への希求→葛藤→「内」なる自由の認識というものが、発展的・階段的にあったわけではない。
それらは、もうだいぶ初期の頃から混在していたのだといえる。しかし、まさにその混沌、複雑に絡み合った葛藤そのものが、尾崎豊というアーティストの多面性、結晶としてのプリズムになっていたのも確かだ。
晩年の尾崎は、最後のアルバム『放熱への証』で、まさに『自由への扉』という歌を残している。この「自由」が、果たして彼自身が探し求めていた「自由」であったのか、それは定かではないが、ありきたりのまとめでいくのであれば、彼のその「自由」への希求、そのプロセスそのものが、歌うことそのものが、彼の「自由」を体現していたのだと考えたい。