これに介入しない教育委員会の存在価値があるのか?怒
大変釈然としない気持ちになりました。
まず逮捕。
多分逮捕されていないけれど。警察がそこまでするようになってしまったか?これは警察がそうまでしなければならない話なのか?他の機関が機能していない証拠である。
児童相談所などと大仰なことを言っているけれど機関として全く機能していないことを多く感じる事が多い。
それがこれ。
全て部外者であることは甘んじてご批判の対象になるとはいえ、あまりにもあまりである。これ連携していたところで結果は変わらなかっただろうということ。悔しいけれど。現場も苦しいけれど。そもそも予算もなければ、権限もないわけで法律上の裏付けが全くない中で責任だけが現場に負わされている典型である。
こんな釈明に何の意味もない。
何度も言うが、文科省は学校に来ないことを容認している下では学校現場にできることは何もない。再三再四関係機関に突っついても何にも返答がないのが世の常です。世の中にはこうしたことで溢れている。別に小樽だけの問題ではない。教育に金をかけるといい、福祉を充実させるとのたまう。しかし日本の現実はこの程度なのである。これで子どもを守れるわけがない。
いつも思うけれど103万がどうのこうの言う前にまともに行政が機能するように、まともに政治が機能するように、グリップできる方法はないのだろうか?それてしまったけれど、
では警察に子どもを突き出せば良いのか?
話はそう単純ではないと思う。部外者だけど。何事もなく卒業させたかったと言うのは聞きようによっては非常に無責任な発言でもあるわけで。
事例としては実際に子どもが殴る、蹴る、破壊するというシチュエーションには出合った事は何度かあります。警察が視野に入ることもあったんですが、非常に後ろ向きな意見によってそれは無しになりました。おそらくですが、今回警察に行った件についても非常に後ろ向きな考え方が発動したのではないかというのが私の妄想です。
というのもこうした案件が起こった場合、まず学校の半数以上の教員は関わり合いになることを避けます。うちの事例でもそうでした。いっちょかみだけがのこのこ出張ることになるんです。
そうした先にあるのは、この困った状況をなんとか先送りする方法はないものかという後ろむきの発想である事が多いということです。困難な問題であればあるほど即時的な解決方法が効かない事が多い、というかそういう方法をとってしまい壮大な逆効果になることが時々訪れます。この即時的な解決方法というのは一般的に管理職が言いそうなことです。マニュアル本に書いてありそうなことです。つまり耳障りの良い子ども礼讃の説教くさい方法が採用されています。これが不発に終わった時ほど物事がめんどくさくなることはありません。いっちょかみは尻拭いをすることが多いからです。あの時はこう言ったやんという言った言わないの話に対して誰に対しての何のためかよくわからない謝罪をすることになります。このようにいっちょかみが訪れた時点でもうすでに逆効果が発動した後であることの方が多い。もう少し早く呼んでくれていたらこうはしなかったのに・・・といつも思うわけです。
こうした状況はもはや真っ当な話し合いができる素地は1ミリも残されていません。そうしたことに管理職は教育委員会を出演させることはできません。評価や出世に響くからです。ではどうするか?学期の切れ目まで先延ばしにするとか有耶無耶にするとかそういうことです。それでもフラッシュバックのように、波のように、問題を蒸し返して存在価値を示そうとするクレーマーも世の中には存在します。もちろん正当な要求もその中に紛れ込んでいます。結局無能のヒトには本質的な解決など(その道筋ですら)描けるはずもなく視点をズラしてなんとかやり過ごすしかなくなってきます。それを何度も繰り返すしかなくなります。どっかの県知事がやったように。どっかのテレビ局がこれからやるように。
では再び、「何事もなく卒業させたかった。」これは卒業させるという耳障りの良い言葉と先送りさせるという意味が二重に入っています。受け取る人間に解釈が委ねられている状況だと思います。先送りが悪いとは言ってない。なぜならその先に成功が待っている可能性も大いにあるからです。教育に疎い人間ほど今がダメなら先もダメと考えがちです。それは悲観的楽観的とも違う蓋然性の話です。当人に全く悪気がないから平然としてメーワクをかけた学校に入学・卒業報告をしにやってくるんですよ。子どもは。鍛えてさえいれば、新しい出会いに中でなんとか生まれ変わっていくレジリエンスを持っているというのが私の持論です。
卒業させたかったという過去形と願望にはそういう先への希望を打ち砕いたという自覚を感じます。警察に行く頃にはこの教員と子どもの間に入る教員は誰もいなかったのだろうと思います。最初にこの教員に仲裁してもらった教員はさっさと逃げてしまっているだろうことは想像に難くありません。そしてそれがおそらく年嵩の人間であることも・・・
奇しくもこれは中学校にはもはや教育力がない、レジリエンスがないことを証明してくれる事例になると思います。しかし中の弱者の苦しさもわかる。しかも対処法として教科指導ムラ、生徒指導結束、部活動縛り、の3点セットからの明確な脱却が必要であるというわかりきった改革が行われる兆しもないのです。
誰が悪いという話ではない。
しかし
今回の事件に対し中学校を所管する教育委員会は、「学校からの報告は受けていたが、介入の必要性は感じなかった」としています。
これはない。
これは最初に述べたとおり、小樽のように関係機関に報告したところで結果は同じということを証明しているわけです。
どこで関係機関との連携を断つかは誰にでもできるということです。そのハサミはみんなが持っている。教員も保護者も教育委員会も連携機関も。これは報告とか連携とかの話の次元ではなくなっているということです。報告してもムダ、メンドーなことには誰も関わりたがらない。そういうことです。
だからいつも言うんです。教育委員会はいらない。関係機関もいらない。学校にムダな人員はいらない。まして中学校の三十五人学級なんて何の価値もありません。人員設定より関わりの深化に価値を見出せる組織を作るためにそれ以前にできることが山ほどあるはずです。欠員(即時)補充すらまともにできない組織は削減、それで良いのではないでしょうか?
予言しておきましょう。そういうのは好きではないのですが・・・学校にむだで暇な人員を増やしていけば教育問題や不祥事がやたらと増えていきます。それはさらなる人員不足を招いていくことになるでしょう。これだけ学校組織運営が難しい中で簡単に休むことを是としていけばそのうち休まずに踏ん張っている人間からの不満が爆発することになり、より疲弊して問題だけが澱のように静かに溜まっていきます。
そうなったときにはもう遅い。教育現場は再生不可能になっていくはずです。それを止める事ができるのは大学教員でも、文科省でもなく、現場の実践家による主体的な運営方法の確立だけなのです。時間が残り少ない私にできることはそう多くない、でも少しでも実践しておく必要があると信じているんです。正しいことは正しい、正しくないことは正しくない、と。