自立を支援すること 通級指導教室という罠
軽度のしょうがい児を対象として、通常学級にいながら特定の教室に通うというのが通級指導教室の非常に簡便な説明だと思います。
もちろん制度的には通常学級に所属するかしないかとか知的にしょうがいがあるかなどさまざまな違いが特別支援学級との間で存在することは承知しています。しかしながら全国的にみて一律にそうした制度間にはっきりとした目標の違いがある取り組みがなされていないのではないかと私はみています。
これまでもそうした教育については何度が述べてきましたが、私は基本的に特別支援対象児童を通常学級児童と「分ける」ことにあまり賛同は致しません。それはインクルーシブを推進したいというよりは分けることによる教職員の間での子どもの見方や取り組みの差というものがうまれ、どうにも仕事をやりにくくしているのではないか?ということを考えてしまうからです。
この凸凹がよくない、ただそれだけ。継ぎ足し継ぎ足ししてできた制度を思い込みで運用していくことはあまり効率的だと思えないし、そうしたことを推進していくことで教師が自分で自分の仕事をやりにくくしていくことにつながると感じているからです。
特別支援教育の後から「付け加えられ」てきた通級指導教室という発想もさらに子どもを区「分け」する作業の追加に過ぎないと思います。
対応を細分化すると表現する人もいますが、わたしはそうは思いません。学校における〇〇担当者の増加は、その新しい仕事のポジションの設立であるだけでなく、そのポジションに付け加えられていく新しい知識に対する学び(というか屁理屈)とか、連絡や調整とか、会議や報告とかを無限に生産していきます。それはワークシェアリングというカビ臭い発想が悪い方に作用して無駄な仕事を増やしていく作業過程であるということです。
今の教育現場には仕事に合わせてヒトを増やしていくのではなくて、人に合わせて仕事の無駄を減らしていくという発想が必要です。というのも専門職においては人は質が下がるにつれて数は増えていくものだからです。
これまでも通級指導教室の設置算定基準、指導時間対効果などその理論的根拠の薄弱さについては指摘してきたところです。
結局これはトップダウン方式の勢いだけでせっかく制度を作ったんだからあとは現場でやってみろ!みたいなことです。これはICTやGIGAにもあったとりあえずやってみようみたいな現場の自由度と裁量権拡大という意味不明の解釈と同型だと思われます。実質的、丸投げです。そこには少しの予算とおざなりな人的配置しかありません。行政が現場の困難に対応しているかのようなアリバイづくり対応に教育現場は巻き込まれているだけです。吉本興業のマネージャーがコロコロ入れ替わるように教育委員会の担当者もコロコロ入れ替わってその制度設計に対して責任を取る形で、最後まで実行し続けるということは全くありません。やっては捨て、新しいのをやってはアリバイとするという仕事の仕方しかやらないからです。これが教育委員会制度の制度上の一番課題だと思っています。そういうシステムになってしまっている。そしてそれに何人たりとも触れない。触り方がわからない。触ればどうなるか予測もつかない、結果毎年先送り。素晴らしく自己防衛だけが強固になるように働くシステムです。
それましたが、通級指導教室というのは極めて個別性の強い実践性を持っています。困り感を基底にするということが一般性から離れて個別性への接近を強めていきます。個人的には最近のこうした流れは公教育の役割として妥当なのかということに対して大きな疑問を持っています。
これは確か眠くて眠くて死にそうな時に踏ん張って(やっつけで)書いた文章なのですが、読み返してみると非常に素直な気持ちの文章になっている気がします。重要なのは誰にでも採用できる一般性だということです。パブリックというのはそういう意味ではシンプルでやさしく効率的である必要があるのです。一見非効率が優先されるように見えるけれどそれだけではポピュリズムによって利権のたまり場になってしまう。みんながみんな「個別である特別」として採用されることを望み始めた時にシステムの崩壊は始まるということを示しているのではないでしょうか?というバラバラすることに対する批判です。
社会の動きがパブリックから離れる動きを顕著にした時、社会学ではそれをプライバタイゼーション(私事化)と呼んで大きな社会的課題にしようとしました。1970年ごろの指摘です。それ以降社会は実際に意図的に「公」から離れていく動きとして新自由主義や小さな政府、セフティネットという名の自己責任論が実現していきました。学問は私事化の悪い部分を押し止めることができなかった。そういう前科持ちであるということです。
今教育にある個別化の動きも実は非常にこれに似ていると思います。もちろん「個別的であることの集合体」として教育が存在することは自明であるにしてもそれが意図的に個別の方向に強く突き動かされているとなると話は別だと思います。これは自由進度や個別最適化、オンデマンドそして特別支援教育のなかに潜んでいる要素の一部分なのではないか?
そこでわかりやすいのは通級という今の動きです。「個別の要求」に対して特段のコストを割くこと、それはほとんどなんのエビデンスもないまま公金を投入し、効果の検証もないまま継続していく公による公の私的利用に他なりません。これは実は私事化の公的領域への侵食ではないかと思います。もちろんすべてがそうとはいわない。社会的に意味のある部分が存在することは理解できるのですがあまりにも境界線が曖昧すぎます。問題はその取り組みに公的な社会性が担保されているかということです。いくら公が枠組みを作ったとて、私がそれから積極的にはみ出すことを是としてしまえば、罰則以外に押し止める術がなくなってしまいます。
国親制度をどんなに拡大解釈しても通級が受け持っているある部分というのは効果の面でもコスト面でも説明のつかない罠があります。それは携わっている方々が一番よくわかっているはずです。
これが分ける意味がわからない理由です。細分化してもそれが成果として一人立ちできる見込みがない、すごく少数の子どもに対してパブリックが普通クラスを犠牲にしてまで大きな労力を掛けていくことへの警鐘です。
担任が足りない学校があるにも関わらず、空き時間もなく欠員分の仕事をしている教員がいるにも関わらず、通級にそうした人的配置をすることは普通クラスを、普通の子を犠牲にしていることになりませんか?
少しドラスティックに言えばそういうことですよ。