新任教員の苦しさとは何なのか?

 これは私に理解できることなのだろうか?
 まずはそれが大きな問いになるわけです。
 もちろん私にも初任者である時期が有ったわけでいきなり今のように老成していたわけではありません。信じられないかもしれないけれど。そのときの苦しさの一点は自分の能力の話ではなく、年齢が若いことであったように思います。若い教員と受け止められることに対してイヤだったということです。
 今考えると何と贅沢なことを言うんだと思いますが、このショーバイで経験が浅いと思われることに対しての悲観は今も昔も変わらないのかもしれません。女性、つまり母親は割りと担任に経験を要請する傾向が強いからです。

 そして今自分にある程度余裕のある状態で若手を見ていて思うことがここ何日かでありました。
 それはもしかしたら本人がどうか感じるかということ以上に私が個人的にしんどくなる要因としてその人に対して感じることなのかもしれないということです。
 別に自分が正しいというつもりはありません。うまくいかないことを責めるつもりもありません。しかし共通して見てとることができることが起こっているのではないかということです。

 それは必ずしも指摘すれば改善するということでもありません。指摘しない方が状態の悪化を見ないということなのであるという側面もあるように思います。
 それは逃げでもなんでもなく、冷静に状況を見るということだと思います。状況的に見て揺り動かして悪化させるくらいなら静止して今の状況を続けていく方が良いというのはこれまでの経験則でよくありました。特に「他者」の場合において。自分が行う場合の「変化」と自分が行えない場合の「変化」の要請は全く違う行為である。そのことは当たり前のように思えて実は気づきにくいのではないか?
 それを気づかない人間が初任者指導で効果をあげていると言ってみたり、伴走していることに満足してしまったりしているのではないかという問いかけです。もちろん初任者指導や伴走の全てが悪いと言っているわけではありません。

新任教員の「本人」と初任者指導・伴走の「他者」との噛み合わせ

とても単純に言って、他者と自己は入れ替えが効きません。今回はこの至極当たり前を強調しておきます。というのもこの一度決まってしまった担任ということに対して今の学校というのは覚悟が足りないのだと思うからです。これは本人も周りもという意味でです。誤解なきよう付言しておけば、責任を取れとか取り返しがつかないとかいうことを言っているのではありません。決めた人間以外が責任を取る必要もなければ、取り返しなどなんとでもなることの方が極端に多いからです。(これは学校文化の懐の深さが大きいと思います。最近は学校文化そのものが崩壊してしまっている学校も多いので)

 これも付け加えておきますが、一度走り始めたルールというのはなかなか軌道修正が効きません。クラスルームという共同体も同様に一旦開いてしまうと担任の感覚に基づくクラスルームの雰囲気というものは軌道修正が効きにくい。(これを指して黄金の〇〇日or週間とかいうこともあります)そのクラスルームの「バランス感覚」という視点でもし学校中で話し合うことができるならそれは教師にとっては最高の学びの材料になるはずだということです。「責めずひけらかさず真摯に」という対話の前提は実は相当に難しいことなんです。「良いか悪いか」「好きか嫌いか」そうした二律背反から逃れた対話というのは結論は出ないかもしれないからこその自由度の高さつまり価値の多様性に魅力があります。これは今に始まったことではないですが・・・

 初任者はここに問題を抱えることが多いです。特に学級経営上のシステムが定まっていないままにスタートせざるを得ないというのは「初めて」が抱える問題です。しかしこれは「固定的」に始めることが良いということを示しません。数年目の教員が固定的にやって学級崩壊を起こすことは今の現場では日常茶飯事だからです。同時にそこに「実際にはない違和感」から離職するという選択も数年目で起こります。つまり「初めて」が必ず失敗するわけではないということです。しかしそこに学級経営上の「しんどさ」の正体であることは確かなように思えます。 

 これが私が初任者のとき感じた若いと思われることへの嫌悪と重なりがあるのではないかというのは今だからわかる話です。だからこそ経験の浅い教員にとって助けとなるのは、教育の技術・引き出しや金言・名言ではないのではないかということです。

 実際は初任者および経験の少ない教員は今日を乗り切るためにこうしたものを求めがちです。「安全」を何より優先する「学校文化」や「教育委員会文化」を身に着けてしまっているからです。この安全は「やり過ごすことで得られる安全」であることが合意になる必要があります。それは批判対象ではないとするために。良い悪いではなく、そうした対処があっても良いけど離れてみるために必要なのは余白であるということです。余裕のない状況は人をパニクらせます。大人でも子どもでも。

 否定せず、経験することは与え、しかし余白を作るための援助をバランスよく内包した、伴走や指導を行うことは非常に難しいんだろうなぁ。そう思います。少し批判的に言えば今の初任者を取り巻く政策というのはこの辺にコミットできているとは言えないということです。
 まず一人の人間に常に寄り添う指導や伴走というものが存在していないからです。指導でも研修でもOJTでもなんでも良いのですが。困り事というの後に溜めてまとめて処理するということができません。そうしているうちに最初の課題がよくわからなくなってしまうからです。そもそも初めての人間には困り事を感知する能力も言語化する能力もありません。それは見て指摘してあげるしかありません。
 次にこの指摘を批判にしないことはかなり難しい技です。もちろん相手によっては不可能なこともあります。どうあっても批判であると受け取ってしまう人間というのはいるもんだからです。実は批判OKと言っておきながら実際に批判されるととてつもなく凹んでしまう子もいます。
 さらに初任者のクラスというのは一旦しんどくなってしまった要因を続けるしかありません。方向転換のための助言がうまく作用するはずもないからです。言われたことをやることはできるのだろうけど、一度崩れてしまったクラスルームでこうした助言が効果を発揮しているところを見たことがありません。形骸化の抜け殻のような言葉がけが虚しく響き渡っている場面を見ると「意味も分からず言わされている言葉」であることがよくわかるからです。そうした状況で発したことが相手に伝わるわけもありません。しかしこれが学習集団の言葉掛けの妙味で実は必死に受け取ろうとしている先生が好きな子どももいるんですがそうした子にはボリューム強目で、そうでない壊した子にはボリューム0もしくは逆の意味で伝わっていくんですね。これで不幸な子は誰かというと私はボリューム強目で伝わった子だと思うんです。昨今良くある毒親の元でいい子を強要されて破滅したというステレオタイプの物語とよく似ているからです。誰も幸せにならない助言の見本のようなもんです。しかし初任者指導はこうした助言を仕事として行なっていかなければならない。
 とにかく初任者指導というのはアポリアの塊みたいなもんであることは認めます。しかしこれで一番しんどいのは初任者であることを今一度理解する必要があると思います。学校として共有していかねばならない。

 こうした話がだんだん批判的になってしまった理由は一つ。最近数年で辞めたり休んだりする教員が増えた理由は初任者指導担当者と管理職の接し方に問題があるのではないかと思ったことがあったからです。それも一度や二度ではなく。それはすごく褒めているくせにその後すぐにダメになってしまう指導力、指導の中身の無さ、すごく貶して若者を潰すような人権感覚の無さを併せ持つような人間たちが教員として高評価であることに対する私個人の絶望であるわけです。子どもでも保護者でも教員でもなく、制度でも社会でもなくこうした評価が一般化している文化に対する異議申し立てです。

 もう少しフランクに初任者が仕事をでき、かつウデも身につけられる文化というのものが作れないものかな?そうしたことが言語化ではなく(良いように語ることが教員の得意技というのはもうバレています。私も含めて)可視化されるならもう一度教職の魅力を示すことに寄与できるのではないか?そんなふうに考えました。


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