ICTと主体的な学習とは結びつけない方が良いのでは?

 堀田さんについては何度か論述したけれど(あんたも好きねえ、あんま需要ないのに)再び。この方はこの方なりに一生懸命やってるんだろうけれどやればやるほどズレていく典型みたいなもんです。そもそも現場に寄り添おうとする気がないのかもそれません。自分さえ良ければそれで良いと思っているか、もしくはスタッフ言いなりのテレビ芸人のように文科省に踊らされるかマウントとってれば良いと思っているか、のどれかでなんでしょうか?。

 教育改革の土壌としてどうしても「新しい」「これまでにない」ことをめざそうとするとICTと主体性・対話にならざるをえないようだけどそこには徹底的に異を唱えたい。というか唱えざるを得ないのでしょう。

 しかし主体性を語る筋には過去にあった個性というワードとの違いがどこら辺にあるのかを問いたいわけである。これがまず一点である。

 もう一つはICT・GIGAと情報教育はなにがちがうのか?ということです。発展形のような論理構成ではとてもじゃないと納得できません。(これは主体性にも同様のことが言えます。)
 というのも情報教育のキモはメディアリテラシーだったと考えればそれには別に一人1台が必要ないことは自明だからです。メディアという幅広い理解ならそれは教科書や書籍、なんなら新聞やチラシでもよいことになってしまう。
 それは既存のハトマメマス(古い古い教科書です)という古来の学習と全く変わらない方法しか語ってないからです。今のICT実践にもそうした視点しか設定していないものが多すぎる。そういった前提のない人間がとりあえずやってみようという掛け声でやるとそうならざるをえない。それは古くから教師をやっていればフツーにわかる話なのだけれども、古い教師は今の技術に追い付けていない場合その箴言を発することに対して及び腰になるしかないのは当然の帰結です。常に新しい教育というのはそうした効果を悪用しているきらいがあります。

 今のGIGAというのは異常なスピードで環境整備が進んでもそれをいかしきれない典型例のようなものです。実は子どもは結構対応している、そして教師もわりかし対応している。実はもっとも対応できずに起こるかどうかもわからないような恐怖(VUCAという実態のないよくわからないものです)におののいているのは教育委員会制度と保護者だったりするのです。もちろん(メシのタネとして)煽る側の研究者も同様です。
 これまでは環境が主導して教育を変えるみたいな論述がありましたが、今のGIGAはそれが異常に難しいことを表すエビデンスのようにはたらいてしまうという皮肉をオモテに出してしまいました。もちろん私もそういう語りで教育改革に関わっていたことがありましたが、訂正に追い込まれました。とりあえずという発想では池に石を投げこんで波紋を広げるということにはならない。それは空間的広がりだけではなく、時間的、人(の)間的なひろがりも生み出さないという意味で。

 お仕着せの環境では、総合的に見て実践にあまり効果を及ぼせないということです。もちろんそこには教師の責任も含まれていることは否定しません。そこはなんとかせねばならないと思いますが、現状は様々な要因のためそうしたことが成り立たない。これまで一人一台あれば…みたいなことを言っていた人間にしたっておんなじです。
 私は7、8年前情報教育で「(格助詞を主に据えた)文章の書き方」とプログラミングを掛け合わせた授業を低学年でやりましたが、そのときはクラスに7台程度でもできるよね、一人一台なんて必要ないよねという結論に至りました。そのときはお世辞にも使いやすい端末やアプリは用意されるわけもなかったのですが、それでもやりようでなんとかなるし、機材トラブルすらも授業の一部として処理することが難しくもなんともありませんでした。
 結局授業力というのはアドリブの即時性と多様性および実用性の帰結ということです。その地点、その地点にその子に合う学びを投げつけていく(イメージですよ、実際はヒントを手渡すような感じです。)ことができることが授業であるということはICTだろうがハトマメマスだろうが方法としては変わらないということです。ただそこにいる教師にはそうとう違いがあるのだけれども。マインドセットも含めて。
 結局教師の側も主体性が重要ということです。主体性がオリジナリティにつながり、オリジナリティがハラに落ちる授業につながるということだからです。他人にとりあえずやりましょうと勧めることはこれを破壊する作業に他ならない。どんなに優れた人間にでも一端の思考停止を求めることになります。もしそこかしこで主体性なく勝手なお勧めから授業の「つくり」の手始めが起こってしまえばそれはもはや穴を掘って埋めることを永遠に繰り返すだけのことになってしまいます。
 そこに達成感というものがもし伴ってしまったら(普段なら達成感といういうのは良い言葉なのですがよくない方向性に達成感を見出してしまうことはマイナス方向への進行を助長してしまうということ。これはスマホゲームの課金への誘導に近い発想でありやめられない止まらないというかっぱえびせんを連想させてしまういわゆる射幸性ということと近い)その穴を掘って埋めることを是として積極的に継承し始めることに荷担することになります。そうした人間をたくさん見てきました。
 情報教育の総括して葬らないままにICTに発展したかのように見せかけたことは、ICTの教育方法としての発展を著しく阻害することになりました。
これは戦後の総括、全共闘の総括の必要性を説いた人たちのなかで出された葬って悼むという発想を実践できていないことになります。
 確か内田樹さんが言っていたと記憶していますが、どこかで情報教育にはこうした葬って弔う作業を過程することでGIGAへと進んでいけるのではないのでしょうか?どこまでも途切れのない情報教育の亡霊には一度ご退場いただく必要があるように思いますがいかがでしょうか?

 主体性と個性の違いについてはまたどこかで。ちなみに言葉尻は違うのは当然ですが当時の個性の拡張性には舌を巻くほどの、そして回収不可能な程の、多くの伏線と論理構成が張り巡らされたことは私にとっては記憶に新しいところなのです。
 実は部活動を教職員の仕事の拡張性のように語りますが、私の親世代の教員というのはまだまだサボリーマンで成り立つほどの仕事量の少なすぎる人間が多くいました。実際一緒に仕事をしていた中にはその時代を過ごしたギリギリの世代がいたこともあります。とてもじゃないけど公に言えないような教育現場での犯罪行為をごめんねで済ましてきたような人間たちにとってはすでにあった部活動よりもその後の教育問題やそれに対応を求める通達・自主規制の方が仕事をしにくくしたと言っても良い感覚であろうと思います。それは実は給特法よりも問題である基本給カット・手当削減に自治体が手をつけ始めた時期と見事に合致していくのです。
 部活動でも給特法でもなく、教職員の待遇を悪くした犯人というのは無限に教師の仕事を拡張することを主導した中教審、臨教審、文科省と教職員の給与・手当をカットした自治体の首長とそれを容認した議会ということなんです。

 教育を改革したいなら、少しは教育のおけるエッセンシャルワークのあり方を考えるぐらいの配慮をして欲しいものです。本当に。(溜息)

いいなと思ったら応援しよう!