デジタル教科書という論点

 これだけ長くNOTEをやっていても、ICTについて多く書いていても、デジタル教科書に触れていなかったような気がする。まぁ語る価値もないような代物であることは明白なのだか。
 まず小中学校の校長にこのことについてアンケートを取ってもしょうがない。なぜならこの人たちはもう授業をしないから。授業をしない人にデジタル教科書のことを聞いても頓珍漢な回答しかないでしょう。
 もう一つはアンケートという枠組みでは聞いたことにしか答えてくれないので(システムとしては簡便であっても)それ自体にはそんなに意味がないことがあるということです。この場合は特にそうです。

 紙とデジタルを併用するという訳のわからないことをすれば単純に労力が2倍になるということ。

 これは教員が無駄な業務を生み出す天才という観点が抜け落ちている。これまでも教科書を(勝手に)デジタル化する教員はたくさんいた。それはべつに精通した教員でなくてもこれまでもやっていた。それが仕事の見映えがよくなる簡便な作業であることがよくわかっているからである。このこと自体に意味がなくてもそれはべつに構わないのである。それがアピール(デジタルをつかってユニバーサルデザインで障がい者やグレーゾーンの人に配慮しているよという意味です。)であることを割り切ってやっているのならまだ理解ができる。しかし残念ながらこのこと、つまり紙をデジタル化して書き込んだり、拡大縮小したり、音声画像を利用したりすることは、子どもの学びの主体性からは大きく外れている。これは全て受動的な学びに必要なことに、教師主導の学びに必要なことに、登場する場面だからである。それが悪いとは言っていない、主体性からは外れているだけで主導的に知識を押し込みたい場面では威力を発揮するはずである。しかしそれは使用価値があってこそ、子どもの側に学ぶ意思があってこそ、の話である。この辺は盛大にその価値と使用場面を見誤っているのではないかと感じることが多いです。残念ながらやってみよう世界ではこのことはあまり論点にならず、やってるね!すごいね!になってしまいます。

 それましたが、そこで最も大事なことは教科書をデジタルにしても利点が多くないということです。音声データや写真データ、動画というのは別にデジタル教科書に頼らなくともビッグデータ社会ではそこらじゅうに転がっている。(著作権上の問題があれども)そうしたことを使って授業を成立させることはそう難しいことではない。これまでも必要があればそうやって「授業づくり」を行ってきた。

 そもそも今もある教科書付属のデジタルデータというのはデータ形式やコピーライト、そしてそのデータ化された領域の問題からして使い物にならない、使っても意味がないものの方が多い。
 理由は簡単で、教科書会社はあまり授業をしない人間に金銭を渡してお知恵を拝借しているからである。残念ながら教科書会社の人たちは誰が授業がうまくてそうしたことに精通しているかを知る由がない。校長や大学教員、教育表彰されるような教員というのは、お世辞にも授業が上手いとは言えない人間の塊だからである。
 さらに教科書作りには何重もの縛りがあって検定や監督省庁との折衝の上に成り立っている。そうした苦労もあって出来上がったものは必ずしも教師や子どものためになっているということにもならないことは理解できる。
 それにしてもそうしたことも考えず子どもの荷物、配送や紙使用の削減といった訳のわからない理由に加えて文科省の利権のためにデジタル教科書が推進されるというのはどう考えても納得のいかない話である。しかも教育予算がない国、掛けたくない国ならいざ知らず、教科書の数を倍にしても使いきれないほどの予算のある国でただデジタル化しているからデジタル教科書を使いなさいと命令するのはあまり頭の良い行為には見えない。それをこの東大教授のように無闇に補完するような発言をメディアに垂れ流してしまうことも同様です。なにかを語っているようで何も語っていない。

 デジタル教科書化が誰のため、何のために行われてるかということはあまり合意されていない、そしてどうなる未来を目指しているかということもあまり深く考えられていない、という証左である。
 未来がどうなるかなんて誰にもわからない。でもせめてどうしたいかぐらいは示しておかないと「ありき」で考えると碌なことにならないと思います。

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