無駄の研究 レジリエンスから見る子ども

 子どもはレジリエンスの化物というのは私の仮説でもあります。
 ハイパーセンシティブという受け取りをする心理学者がいることを承知の上でこの論理展開を無駄という観点から切り取ってみたいということです。不登校も無駄の産物としてとらえることはコンプラ的に攻撃を受けそうですが、そもそも私は無駄を悪いこととしては受け取っていません。
 不登校をつまずきと称した大学教員の講演の話は何度かコスっていますが、それを聞いてクレームをいれるのは全く建設的とは言えません。つまずきを悪として受け取っているのは異を唱えた方だけだからです。話者にしても聴衆にしても悪いイメージとしてすら感じていません。これはコンプラ、弱者道徳と建設的対話(そもそも建設的である必要もないのが対話の内実だと思っていますけど)とそれに巣食うクレーマーを考える上でもなかなか優れたエピソードだと思います。
 実はそれ以上に無駄な一手間に教育的な意義を見いだすということに一役買うのではないかと思います。というのも本来つまずきという無駄は本来ない方がいい。でもつまずかなければ足元を顧みることもないし、立ち上がるという経験ができません。この経験は後程役立つ可能性があります。しかもつまずく人間ほど役に立つはずです。つまづきやすい人間ほど立ち上がる必要性が高いからです。そのとき重要なのは自分の経験であるということです。他者の経験を内在化するというのは書物の使用とかでよくありますけれど技法や感性、性格の問題などを引き受けてしまいます。もちろん自分の経験だからこそ受け入れがたいという側面もあると思いますが、そうころんでもやはり得難い自分知識であることは疑いないと感じます。経験上。

 レジリエンスという概念に日本語がないという話をする人がいますけれど、私には復元力よりは一歩手前の躓きを採用するのが文学的ではないかなと思います。そもそもこうした復元力のような議論は不登校議論が盛り上がったときによくやられた内容に非常に良く似ています。今のように躓いていない人間に広く採用するのか?不登校のようにつまずいた人間にだけ採用するか?それだけの違いのように感じます。
 非認知能力というのは新しい言葉のように見えて、これまでも議論された個別の困りごとの解決方法を普通の人間に援用しているだけなのだろうということが考えられます。こう見ればレジリエンスはとても日本ではよく見慣れた光景ということもできると思います。

 さて本題です。こうしたレジリエンスというのは(無駄を題材した)失敗を前提にするというのがビジネス書の発想ではないかと受け取っています。教育で語られるレジリエンスをそういう文脈で大筋いいのではないかと理解しています。

 そこから立ち上がって復活していく様にかっこよさを感じるというヒロイズムかナルシズムの権化のように感じるのは私だけでしょうか?しかし良く考えれば本来こうしたことは特別な事象がなくとも日常的に内面的に多発していることだと思います。特にクラスルームでは。

 子どもというのはとにかく痛みに弱い。強めに痛みを感じやすいというのもありますけど痛みに対する知識が乏しいため対処法を知らないんです。だからしんどいからと言って泣きます。泣いても何ともならないにも関わらず。
 普通の大人ならこうした出来事を起こそうものなら二、三日へこむようなこんなことでもすぐさま立ち上がってきます。そうした忘れっぽさというかおおらかさというところに子どものレジリエンスの化物感が感じられます。これは神経質な子どもであっても一般的に見られます。赤信号みんなで渡れば怖くない、を地でやってくるんです。普段○○していいですか?を連発するような子でもです。神経質と大胆という大人ならあり得ないような持ち合わせをしてきます。

 こうしたレジリエンスというのは、子どもの持つ無駄そのものに強さの内実があるように思われます。というのもレジリエンスとは無駄とぶつかることによって発見される、姿を表すというスタート地点を持つように見えるからです。これは子ども時代の経験則が重要であることも見逃せません。無邪気に失敗できるのは子ども時代の特権だからです。
 その後の無駄の積み重ねによってレジリエンスというのはより鍛えられます。これも子ども時代に優位性があります。無駄を積み重ねる時間的な余裕やそうしたことを容認する疑似社会性、のめり込み、推進する共通で特有の関係性といったものを持ち合わせている場を教育としても提供しているからです。これまでの日本の教育の場や実践というのはレジリエンスという言葉を使わずにこうした力についての十分なコミットをしていたことになると思います。
 さらに新しい視点となると言えると思いますがこれを書いていて、レジリエンスは集団性を廃した非常に個別的な強さに価値を見出すという特徴があるように感じました。集団的な視点としては無駄とも言えるレジリエンスは、そうした側から無駄を見る対象としては面白いかも知れません。
 というのも元に戻るだけでより発展的な要素に欠けるのがレジリエンスではないかと思うからです。教育であれば復元だけでなく欲張ってより発展するように働きかけるからです。いや立ち直らないよりマシだろということなんでしょうけど、元来教育を受けた昭和の、田舎の、人間というのはそうしたことでへこたれることすら許されなかった。そういう経緯、経験があります。明らかにコンプライアンス違反の昭和的感覚ではありますが・・・。

 復元力を考える以上は子どもに対する負荷を考えることは不可欠です。その負荷を何を持って適正の範囲内と考えることは今の負荷のない学校教育にとってはとても重要だとは思います。
 それがこれまで遊びやギャング集団の中で、教師の指導の中で、上下関係の中で自然と育てられていたとしたら、こうした無駄をコンプラやハラスメントという言葉で一律に無慈悲に狩っていく行為に対して考え直す時期に来ているのではないでしょうかということです。

 それが無駄を考えるといくことなんでしょうか?

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