毒語になるかは相手次第。

「毒語」なる言葉があるようです。

まあ公認心理師なるものは信用していません。好き嫌いのレベルですから誇れるようなもんではありませんが。誰にどう公認されているかが非常に怪しいからです。たとえ国家資格であっても少なくとも私は承認しません。歴史がないからというのもあるのかもしれませんが、診療報酬獲得のためだけに資格を作ること自体にも賛同しません。
人の心理などというものは解釈することはできても確定づけることができないものだからです。
それによって個人的な解決をみることができたとしても集団的には何の解決でもない。学校内にいる心理職を見てそう思います。それは決して心理職が悪いのではなく、システムにシステムが合っていない。それだけの話です、どっちが偉いとかどっちが正しいとかいう話ではない。食い合わせが悪い。それを何も考えずに持ち込んだ人間が悪いということになります。
 今の学校はこうした心理職の人間をなんとかして生かそうと必死です。それがまた教職員の負担を増やすことにつながっている。私も心理職が好きではありませんが同様に好きではない、関わり合いになりたくない保護者というのも存在します。こうした人たちは教職員の援助や介入についても拒否しがちなので別に心理職が悪いのでもありませんけれど。

 まあそれはさておき、毒語と名付けられる区分けが存在することは理解できます。威圧したり、脅したり、禁止前提で話したりすることはあるからです。それが毒か薬かどうかはまた別としても。

 問題はそれが十把一絡げで悪であるというのはだいぶ乱暴なロジックです。毒語がそうでないという組み立てになっていたとしてもそのネーミングと区分けには、そういう独り歩きはあるからです。
 もはやこの言葉はそういう独り歩きをしてしまっています。それは良い使い方をされているのではなく、他者を攻撃するためのツールとして使われているということです。

お前はダメな教師だ、教師失格だということです。
それだけのために学校に入り込んでいます。保護者にしたって同様です。親失格だ、親になる資格がない、そうした使われ方しかしません。物言いというのはそんな簡単に変えられないからです。
 そうした相手に対してそういう論理構成をすることはとても建設的議論という事にはなりません。

毒語に毒語をもって対抗するということでもできなくなってしまうからです。
それだけで対抗手段を一つ失ってしまう事になります。
毒語というのはただただキレさえすれば問題が解決すると思っている大人に対してこそその効果を最大限に発揮すると思われるからです。そうした人間を暴力や村八分以外で抑え込むために合法的にやれることというのはそう多くありません。
そうした中でキレるカスタマーに対して対応することは現代社会の大きな問題でもあるからです。それは学校現場の方が無策という意味では相当先行しています。私は率先してクレーマー対応していた時期がありますが、今はやめました。肩代わりすることで教職員の負担が減るのならそうしたこともいいのかなというだけの取り組みだったのですが、そういた対応をしていくことは結局クレーマーを特別扱いされていると錯覚させるだけのことになってしまうことが多かったからです。なので明確にクレームの対象が存在する場合の肩代わりはやめたという次第です。今でもふんわり学校というものに文句言いたいだけの筋のクレームには積極的に対応していますが、これは別に大丈夫なようです。

 それましたが、結局毒語を使うことか適切かどうかは相手によるという事になってきます。なぜなら男女年齢問わずそうしたコミュニケートの形態が心地よい子どもが一定数いるからです。
 そしてこれが毒語設定の最も大きな問題です。そうした層へのコミットを完全にシャットダウンした場合、そうした子どもたちは子ども集団の中に入れなくなってしまいます。そうした大人に怒られる事によって存在価値を発揮したり、達成感を持ったりする子どもがいるという事です。
 こうした子どもが毒語を回避するために無視されたり、軽んじられたりすことで教室に入らなくなったり、学ばなくなったりすることに繋がります。というかこれは随分昔から言われ続けてきたことです。叱らない大人に嫌気がさした子どものエピソードというのはかなりたくさんストックがあるからです。これを続けた結果、不登校の拡大や学校秩序の崩壊につながっていることも多く見かけます。

 これはしょーもないコミュケートと言えるかもしれませんが、私は繋がりのある徒労であるとも考えています。その全てが肯定的に捉えられるものであるとは言い難いにしても、その逆に全てが毒語として封じられることにも違和感しか感じません。結局加減の問題です。
 もちろん後ろから味方に撃たれることが常である教育委員会制度支配の中できちんとサバイブしていくためには毒語という(恐れの)捉えによる自己防衛は必要であるということも理解はできます。用心するに越したことはないからです。しかし何にも増して、子どもの成長発達と集団性による非認知能力の向上を考えるなら毒語ですらその一手段とするくらい強欲さは必要なのではないでしょうか?
 叱らないという発想もそうですが、自分の側の切り札を減らしてまで勝負に勝とうとするのは愚か者の発想でしかありません。まして多くの選択肢の中から最良手を選ぶからこそ深まりはあることを考えれば相手を観察しないままに無条件に毒語を省くというのは悪手でしかないと思われます。
 しかもそれをやる方が自主規制で省くのならまだしも(責任のない)外野の無責任な声掛けで強制的に除外するのが良いことであるはずがないでしょう。それが心理職なら私は尚更イヤだということです。誠に個人的な感想で恐縮です。

 ちなみに叱らぬ教育の実践を記した霜田静志東大名誉教授によればASニイルは子どもに盗みが悪いことだと分からせるためには教師に一緒に盗みに入れという例え話を出して叱らぬように諭していくという事を指導として示しています。
 いやそれはムチャです。今の世の中許されません。しかしこうでもしないと叱らないということが実践し難いということです。そうした覚悟を持って子どもに接していくことを考えたニイルらしいと言えばそうなんですけど。

 であるならまだ毒語をつかう方が現実的ではないですか?基本的に話してわかる子に毒語をいきなりつかうようなことはプロならしませんしね。そうした間合いの測り方ぐらいは教師ならできるはずだからです。
 保護者には無償の愛という必殺技もありますし、レジリエンスの化物たる子どもとの合わせ技なら、毒語によるいさかいにはそこそこの耐性がある関係性であるはずです。

 結局毒語が毒語になるか、薬語になるかは相手の子ども次第ということではないでしょうか?それなら毒語というものを規定する必要も排除する必要もないのではないでしょうか。これまで通り凡事を丁寧にゆとりを持って徹底していく、そして必要な場面があるなら覿面という形できちんと平等に注意していけば良いということです。
 何の面白みもないいつも通りの主張です。
 自分のメシのタネのために無理して新しい見方を作らなくてもいいですよ。

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