教育に個別化を求める人たちのコスト感覚はどうなっているのだろうか?
教育は個別化して個々の興味に対応するべきだ、無理やり登校させることは良くない、多様性を認めて自由であるべきだ、などなど昨今の教育にまつわる言説はさまざまあると思います。これらを見渡していて思うことがあります。それは公教育の枠組みの中でそんなになんでもできるのかということです。
今日はそれをコストの面から見てみようと思いました。
以前noteを書いていて思い出したエピソードに大阪府知事横山ノックさんを府立高校生が表敬訪問した話があります。うろ覚えな方が臨場感が増すかと思いますのでそのまま書きます。確かその時あまり行儀の良いものの言い方をしなかった高校生に対してノックさんはこう問いました。「君たちが高校に通うために1人どれぐらいお金が掛かっているか知っている?(大阪府が出しているお金の話だと思われる。その少し前に議会で話題になったらしくて覚えていたのでしょう。その金は別にノックさんが出しているんじゃないんですが。)」多分カネの話を持ち出せば大人を尊敬するもしくはお金を稼げない高校生は引き下がると思ったのでしょう。
案の定高校生はおずおずと「100万円ぐらい?」と言ったそうです。テレビ的には下を言って上を出して「えー」と言うのが常道です。もしくはあまりにもありえない数字を言って笑かすか?さすが高校生、そのギリギリちょっと上が空気を微妙にしました。ノックさん「80万円」高校生「え、そんな少ないの?」高校生は100万でも少なめに言ってくれたのにその下をいったわけです。
金額に目がいってそんなコストで済んでいることの理由には子どももノックさんも考えが及ばなかったようです。私も基本的に教育のコストはケチるべきではないとは思います。ここでも書きましたが。
しかし学校現場で個別対応するにつけ、これは公教育にとって必要なコストなのだろうか?という疑問が湧きます。ではこのコストは誰が負担しているのだろうか?と考えるとなんだかこの個別対応がバカらしくなってきたんです。(やりますけどね。)
よく経済効果と言いますがこれは実際に金銭授受が発生しないイメージまで含まれていることがよくあります。だからこの計算は本当に貨幣流通のためになっているかとても疑問です。煽るだけ煽って責任を取らないというのは学者によくある構図だからです。今教育現場でもそうしたことがたくさん起こっているように感じます。この話はまたいずれどこかで。
この場合のコストの意味は、教育にかかっているコストというよりは、教育が(カスタマイズされて)個別化するために、(個人に)最適化するために、かかったという意味でこれまでの教育のコストとは別のコストということになります。
少し話を逸らせば、すごく雑に分けてしまえば教育には2種類あるのではないかと思うのです。それは明確に二等分できるものでもなければ、きちんとした区切り線があるものでもないけれど。
一つは人間として必要な教育、生きるためにつけていくべき力という意味での教育。
もう一つは稼ぐための教育、より経済的に豊かになるための力という意味での教育です。もちろん両者は合一であるとも言えるし、別物であるとも言える、そういう量子力学的な側面を持っているということです。そうでなければ説明がつきません。両者のデメリットを両者のメリットで相殺しているとも言えると思います。
しかし限られた予算と時間の中で、「公」教育がどちらに力点を置いた方が良いかという話になると私は明確に分けて良いと思っています。それがぜひ初等教育に注力するべきというこれまでと全く変わらないつまらない視点であるということです。リカレントとかリスキリングではなく、まして大学教育ではなく、幼児・初等教育に人間として生きるための教育が詰まっていると思うからです。これは幼児教育に費用をかければその後教育にコストがかからなくなるとか、その後のQOLが上がるという研究とも合致します。そうした研究結果がなくとも前段階の質を上げれば後が質が上がるというのは人類の経験則としてかなり合意できる話なのではないかと思います。前をほっといて後に注力しても砂上の楼閣だということです。
私は兵庫県立大学の学費を無償化することはあまり好ましいとは思いません。稼ぐための教育にはそれなりの負荷と負担を持たせる方が効率が上がると思うからです。しかもこれは個別の話であってパブリックな教育の話ではありません。兵庫県立大学を選択しなければ成立しない話だし、兵庫県立大学が素晴らしい教育を提供しなければ成立しない話だからです。
先ほど来述べているこうした個別対応については、それがたとえ公教育の、初等教育の、範囲内の話であっても公教育とは別立ての予算を用意して効果検証すべきだと思っています。その方が公平性と制度充実の両側面が担保されると思います。今のように誰のための何のための負担なのかがよくわからない個別対応のまま、「みんなの教育」の部分が個別に吸い取られる形で痩せ細っていくことは公教育の初等教育としては非常にマズイことだと考えます。
ここには自治体ごとで素晴らしい教育のように喧伝されている教育改革もどきも加えて良いのではないかという私の仮説もあります。こうした効果の怪しい取り組みというのが教員から自然発生的に生まれてくるならまだ許せると思うのですが、どこかの大学教員が無責任に煽動したり、どこかからの受け売りをそのまま指導主事がテキトーにカスタマイズ(誤読)したりして自治体の教職員がさも喜んで取り組んでいるかのように宣伝材料とするように画策するからです。これは教育委員会指導主事の出世と連動していると考えます。質ではなく量でもなく、数で勝負するパターンです。
取って付けたようについでに言っておけば、ここに加えて学校を攻撃して個別化を推進しようとしているのは心理職の人間たちです。もちろん良かれと思ってやっている人間もいます。しかし中には悪徳弁護士が司法書士、行政書士の領分でラクに金儲けをたくらむために過払い金に手を出したように、自分たちのメシのタネの領地拡大と他者攻撃による自己存在の肯定化という手法をやっている人間もいるわけです。こうしたことが役に立つなら良いのですが、おそらく対立しか産み出さないということです。隷属にしかつながらない理由が教員の側にあると言われれば返す言葉もないですがこの人たちが語るのはいつも個別の個人の話だけです。
そして、この個別性の費用負担をしているのは文科省でも教育委員会でもなく、(もちろんそこにお金を出している財務省でもなく)教職員の持ち出しボランティアだということなんです。自腹という話だけではなく、研修の時間や費用、労力に加えて個別対応をすることなどによる労働時間の後ろ倒しも含まれます。休日にそうしたことに特化した本を読んだり、研修に参加することも同様です。良心的という分類が嫌いなのであえて使わず言ってもそこにも労働の凸凹が生み出されていることは明らかです。
名古屋の内田さんや妹尾さんが言うブラック化は非常に単純な教育的には浅いレベルでしか教育労働を捉えられていません。私が深いと言いたいわけではなく、労働市場でカビの生えた勤務間インターバルや学校次第で何とかなる部活動問題といったものだけをとりあげるのではなく、少し視点を広げていただかないと、深めていただかないとこうした問題は思いもしない結果を招きかねないということになります。そこは少し慎重に公正に発信してほしいということです。
話を戻せばこうした取り組みそのものが教師のブラック化をまた新しく作り出しているということです。隠れたブラック化とも言えると思います。そもそもこうした労働の線引きが難しい職種においてはこうしたことがよく起こります。それが分かっていながらポピュリズムにまみれた人間はSomething Newを求めることで自己承認を得ようとしてしまいます。それに影響されること自体が教職においてはアホらしいことになっていまうという捉えがまずマインドセットとして必要になってしまうということです。こうしたサイクルが教育にまつわる労働を貧しくしているということです。
個別を強調すればコストが上がる。これはまちがいない。学びの多様化学校にみんなが通えばどうなるか。学びの多様化学校の一人あたりの教育コストはまだ発表されていないけれど、かなり多くなることは容易に予想できます。今の初等教育とは比べ物にならないはずです。財務省は年5000億程度を出し渋ってなんとか逃れようとしている。少なくともこれでは公正な個別化を進めることはできないということです。
教育を一律に行うことが今のコストで教育を行えている。今の努力で行えている。横山ノックさんも高校生も気付かなかったこの公平性と教育効果におけるコストのゲンジツを真正面から受け止められる「個別のヒト」がいるのか?おられるのならぜひご意見をお伺いしたい。