閑話休題「岩波書店 算数文章題が解けない子どもたち」読了

算数の文章題は算数力か読解力か?
学校の先生をしていると、同僚や保護者からよく問われることです。
ふと図書館をふらふらしていて2年前に書かれた本を見つけました。
かなり雑で乱暴な読み方をしたので本の内容に触れるというよりは私の算数教育論的な見方からこの本の内容を肯定してみます。

 一言で言えば、この本は算数文章題の正答率と子どもの能力を分析してその解明を目指したということになるというふうに読みました。
 文章題ができないということをいくつかの複合的な要因について分析するための評価テストを作ったという本です。文章題ができないことをできないということや根性論に落とし込まず、つまづきの根本を放置する危険性を回避すべきだと説いています。それはそうなんでしょう。

 そうしたことについて非常にわかりやすいロジックがデータに基づいて書かれています。この書にも書いてあったのですが、私もこれで解決できるとは思えません。算数の文章題の指導法というのはこれまでにもたくさんの解説書が存在しています。
 水道方式の中にあるかけわり図、シェーマ図というやり方が文章題の定着に使われるというのは古くからある考え方です。
 しかしこれが万能に作用したという話を聞いたことがありません。これに固執する教員は山ほど見たことがありますがそのクラスの子が全員習得しているなどということはありませんでした。一つの方法で全てが解決していくというのが学力の捉えとして適切ではないとこの書にも書いてあります。
 どの結果もさまざまな学習の成果に基づいて存在しているはずで、たとえLDであっても得手不得手があってもそうしたものを調節して人間は成長発達したり自己実現したりしていくものという人間観に基づけばそれも納得できます。人間にとって苦手を避けていくというのは普通にあることだし、トム・クルーズのように克服することによって通常不可能にも思える職業でもチャレンジしていけるわけです。そうした人間は私の周りにもたくさんいます。そもそも学力も含めて自分の能力にフィットする仕事につける方が稀なのは自明です。

 個人的な感想で恐縮ですが、文章題ができないことが問題であるというよりはそれが理由で学習から離脱していく方が問題が大きいと思います。どんな成果であれ学習に取り組む習慣を持ち続けるというのは非常に重要です。コロナや不登校、発達しょうがいというのはそのことをとても強く実感させてくれる要素でした。学習は学力への糸口ではなく、学ぶという態度へのコミット方法だと捉えられる方が大事なのではないでしょうか?

 実は小学校算数においてとりわけ習得に差ができやすいのが文章題、速さ・割合・倍などの計算の意味を考えて立式する計算(文章題の一部)、数の組成・単位換算だと思います。もちろん九九ができなければお話にならないのでこれは必須です。まあ数の組成にセンスがあれば九九ができなくても答えは出せます。しかしそこにセンスがあるなら九九はクリアできるはずという順序立てです。
 
 個人的には小学校の算数が壊滅的だった記憶からなぜ中学校と高校の数学がクリアできたか非常に疑問なのですが、多分小学校の算数は成績よりも諦めないことの方が大事なのではないかというのが大人の経験則というもんなのではないかという感覚です。
 学習の結果にだけ固執するのは良くないというのは、文章題や算数に限らないということなのでしょう。身も蓋もないけど。

 つまりこの本を読んで改めて思ったのは、できるかできないかより諦めずに学習を続けるかどうか?そして学校がそれを援助し続けられるか?できなくてもやっている限りはその頑張りを許容してくれるのか?
 そうしたことが重要なのではないかということを感じます。
 学習集団としてのクラスルームの意味は学習から離脱することに対して許さない雰囲気、茶化さない雰囲気、学びへの真摯な雰囲気をどれだけ赦しと厭いを土台に共有していけるかに掛かっているのではないかということです。
 ということは教員は教科指導だけ追求してちゃダメでしょという逆説的結果を導きだしたことになります。私の感覚としては。

 やればできるんじゃないかな?諦めたらそこで試合終了です。勉強ができなくても大丈夫よ。そういうことなんではないでしょうか?未来は誰にもわからないもんです。

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