嫌われる利発顔
常朝は十三歳で元服したのを機会に、一年間家に引き籠り鏡を見ては顔付きを変えることに努めたそうである。その動機は、一門の人々から「利口な顔をしているので、早晩利発顔がお嫌いな殿様に疎んじられることになることだろう。」と常々言われていたからである。そして一年後、利発さの消えた顔付に接した人々から驚きと安堵の声が上ったという。
顔付には内心が反映するもので、「知」を誇る気持ちが旺盛であれば、自ずと取り澄ました賢い顔立ちとなって接する人に苦々しさを与えかねないからである。織田信長が、重用していた明智光秀をいつしか疎じ始めるようになったのは、あまりにも多方面に明るい光秀の才知あふれるしたり顔に辟易したためだとも伝えられているが、さもありなんという気がする。その点秀吉は、生来の顔付もさることながら、神経質なくらい信長の猜疑心の強い性格を意識し、徹底した三枚目で通している。いかにも零から出発した者の人情の機微を読むに長けたしたたかさが感じられてならない。
常朝は十一歳で父と死別した後は、二十歳年上の甥山本五郎左衛門常治に何かと指導を受けている。家に引き籠っていた一年の間に己のちっぽけさ、非力さに気づきながら謙虚な心を育てていったものと思われる。
利口さが顔に表われている間はまだまだ心の修業が不十分ということであり、周囲からの全幅の信頼を得るまでには至らないのである。
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