おじゃる人

無鉄砲!知りたがり!虚栄心が強い! この世に生きた足跡をエッセーや日記にして残すことを始めたら、この歳になって己の特徴が解ってきた。豊後高田市在住 鍼灸師

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無鉄砲!知りたがり!虚栄心が強い! この世に生きた足跡をエッセーや日記にして残すことを始めたら、この歳になって己の特徴が解ってきた。豊後高田市在住 鍼灸師

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最近の記事

1971年パリ祭とその前夜

花模様のあるピンクで厚手のカーテンを開き、西側の白い観音開きの窓を押し開けると、さわやかな宵の空気が気持ち良かった。左の方角に目をやると、照明に照らされ黄金色に輝くエッフェル塔が、その右20度に凱旋門が見えた。この部屋は、バカンスで空く一月半の貸間で、この屋のお嬢ちゃんのらしかった。 現在私はAlliance Françaiseという外国人の為のフランス語学校に通っている。授業は午後7時半に始まり、9時15分に終わる。いつもだと9時50分には6階の部屋に帰り着くのであるが、こ

    • 好奇心と鈍感力

       私は子供の頃、内弁慶で心を開くのが苦手、大勢で遊ぶことも多かったが、どちらかと言うと、山や川での一人遊びが好きであった。  小学生の頃、毎年だったかはよく覚えていないが、生活状況調査表(?)が配られ、個人情報を記入するのがあった。多くの項目の中に友達の人数と名前を書く欄があり、いつもここで鉛筆が止まった。よく一緒に遊ぶ人とか、よく一緒に登下校する人なら容易いが、友達と言われると考え込んでしまった。  ネット検索をしていて「英会話が上達しない原因はメンタルブロックにある」と言

      • 娘の入院

        いつものように、娘を施設に迎えに行き、帰ってすぐウオーキングに。 家まで20mの所でてんかん発作を起こした。2剤のてんかん薬が1剤にになった嬉しい日の出来事であった。 娘を抱えて歩道に座り込み、てんかんが収まり、筋力が回復するのを待っていたら2度目の発作が起こった。 どうしたものか途方にくれていると、車で通りがかった若い男性が異変に気付き、声をかけてくれた。 彼に隣の家から車椅子を借りてきてもらい、車椅子から布団に寝せるのを手伝ってもらった。私一人ではどうにもならないところを

        • ウツボグサ

           令和3年6月23日の大分合同新聞「豊の国植物便り」で、ウツボグサが紹介された。一昔前は、普通に目にしてた草花である。 「そういえば、最近見てないな」と思い、以後散歩中、運転中、道路わきの草むらに目が行くようになった。1時間近くかけて、徒歩で探して歩いたことも2度あったが、全て徒労に終わった。  日がたつにつれ益々、ウツボグサへの恋慕の情が募り、8月下旬、苗1株と種を取り寄せた。9月に入って種を直播したが、うまくいかず、10月中旬、育苗ポットに播種したら発芽した。合わせて4株

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        • ソムノデント社のマウスピース
          0本
        • マウスピースに辿り着くまで
          1本

        記事

          広辞苑がやってきた

           辞書が無くても、たいていのことはネットで調べられる。ところが今回、どうしても広辞苑が欲しくなった。最新の第7版は高くて手が出ないので、ヤフオクで第5版を手に入れた。  包みを開け、辞書を目にした時、分不相応な物を手に入れた気持がした。見ているだけで幸福な気持ちになった。  先ず、求めるきっかけになった「ちちゅう(踟蹰)」を引いた。「進むのをためらって立ち止まること。行き悩むさま。」とあった。私が期待した語意は載ってなかった。  私が住む豊後高田市では、この難解な語彙が今も

          広辞苑がやってきた

          子供の頃の恐ろしい思い出

          昭和35年~38年、私が9歳~12歳頃、バスが通る道さえ舗装がされてなく、子だくさんで、三世代同居が当たり前の時代の話である。   ◇右手首に鎌   3月初旬、旧暦の初午の日、地区の山中にある稲荷堂では毎年祭が行われた。まず神事が催され、その後、煮締め物や甘酒が振舞われた。皆が楽しみにしていたのは、その後の餅まきや行商のおばさん「かっちゃん」が撒く、くじ入りの飴や菓子であった。ほぼ村中の人が集まり、皆が本気モードで拾った。終った後は、お堂の周囲だけ磨けていて「村人どもが欲の跡

          子供の頃の恐ろしい思い出

          シロンパ(シロハ)

          シロンパが遅霜にやられ、若葉が黒ずんでいた。 牛やヤギが美味そうに食んでいた昔日。 本当の名が知りたくなり、グーグルレンズをかざしてみた。 カラムシ なんだ、虫でもないのに⁉  「現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した可能性が指摘されている。今では、主に福島や沖縄で上布を作る為に栽培されている。」(ウィキペディア) この近辺でも、戦時中ラミー(カラムシの栽培種)が作られていて、「兵隊さんの服になるんだよ」と聞かされたそうな(近在の8

          シロンパ(シロハ)

          残しておきたい「大分方言」

          言葉と云うものは、長い間耳から遠ざかっていると、あやふやになり、終には失われてしまう。そうなる前に残しておこうと、思い立った次第である。都(文化の中心)で生まれた言葉が、長い時間をかけて波紋のように広がっていき、やがては遠く離れた地域で僅かに生き残る。そんな言葉の持つはかなさを感じる。 ◇ろく  平成31年2月22日(金)NHK総合の「チコちゃんにしかられる!」 チコちゃんが、「ろくでなし」の「ろく」って何? チコちゃんの答えは「まっ平~」  古語辞典を引くと、ろく[陸]①

          残しておきたい「大分方言」

          謎の「丸ニーナ」

           昭和30年代の事である。夏の初め頃、豊後高田市を流れる大川(桂川)にあるカナ淵の井堰(いぜ)尻で、大勢の子供達が「丸ニーナ」を無心になって捕っていた。勿論食べる為にである。そこいらに居るニーナ(カワニナ)より美味かった気がする。ただこいつは、どういう訳かそこにしか居なかった。井堰の下部は老朽化でコンクリートが剥がれ自然石がむき出しになっていて、井堰を超して流れ下る水で石は黒く濡れていた。その辺りに丸ニーナはたくさん居た。  数十年後、改修がされた同所に行ってみたが、丸ニーナ

          謎の「丸ニーナ」

          ウグイスカグラの話

           お菓子類が溢れている現在と違い、私が小学生の頃(昭和30年代)は、柿・栗・枇杷・唐柿(イチジク)等の他に、通学路や近くの野山に自生する果実や野草もおやつになった。今も目にする物もあるが、見られなくなった物もある。  春、日が当たる山中で、小さな赤い実を見つけて食べていた記憶がある。名前は「センリョウ・・・」と言っていた。  ネットで画像検索して、聞いたことのないウグイスカグラらしいことが解った。実物を見たい気持ちを抑えられずにネットで注文した。  届いた段ボール箱を開けると

          ウグイスカグラの話

          自転車の旅日記 ―良寛さんの新潟へ―

          今回は愛車ブリジストンRM5型での4度目の旅になる。有明埠頭からフェリーに乗り、船中2泊して苫小牧へ、上陸後海岸線に沿って函館へ、津軽海峡をフェリーで渡り、青森から日本海側を通って新潟へ、良寛さんの足跡を訪ねるのが一番の目的である。その後は三国峠を越え、一路東京までの8泊9日の行程である。昭和55年の夏は梅雨明け宣言こそあったが、実際は開けないまま秋になった。この異常気象の為冷夏となり、農作物に多大の損害を与えた。当然のことながら、今回の旅は雨又雨の日々であった。    7月

          自転車の旅日記 ―良寛さんの新潟へ―

          自転車の旅日記 ―四国路―

           今回は愛車ブリジストンRM5型での2度目の旅になる。有明埠頭からフェリーに乗り、船中一泊して徳島に渡り、四国を三泊で横断、三崎からフェリーで佐賀関に渡り、田舎まで帰る四泊五日の計画である。東鍼校は夏休み、4月14日から勤めたイナバ堂は7月30日で退職した。夏休み中、故郷で過ごす予定である。東鍼校別科Ⅱ部の同級生で看護婦の永沢渓子さんの世話で、9月から上板橋病院に勤めることが決まっている。    昭和52年7月30日(土)一日目 午後16時30分、大喜荘の管理人のばあさんに挨

          自転車の旅日記 ―四国路―

          自転車の旅日記 ―故郷へ―

           自転車で大分まで帰ることを決意した。6月22日に新宿ニュー丸井でブリジストン・ロードマン5型(セーフティーレバー、荷台付)を50,300円で購入契約、7月1日に受け取った。東海道は通りたくないので、甲州街道から中山道を通って京都の姉の所まで行き、それから山陰道を通り、途中から徳山に抜け、フェリーで竹田津に渡り、高田経由で帰郷する計画である。観光は予定にない。    昭和51年7月12日(月)一日目 8時に小雨の降る中を大喜荘出発、新青梅街道を東大和市まで行き、それより南下し

          自転車の旅日記 ―故郷へ―

          花 の 思 い 出

           うらしま(百日草) 私の散歩コースの中に、道の両側に花木や草花が途切れることなく植えられ、散歩する人々の目を楽しませてくれる、通称「フラワーロード」がある。豊後高田市を流れる桂川左岸にあって、引瀬橋から折渡橋までの400m、舗装はされているが、農道になるのか、道幅が狭く車の離合はできない。歩く人にとっては短くても、定植し、手入れをする人にとっては、とてつもなく長く感じることだろう。元市議の近藤今朝則さんに感謝!。そこにあって、今一番元気なのが「うらしま」、この花には旧友のよ

          花 の 思 い 出

          心 に 残 る 歌

           昭和32年当時、田染蕗地区には分校があり、小学校1・2年生は豊後高田市立田染小学校・蕗分校に通っていた。分校と言っても、1年生の時の記念写真を見ると、2学年で38人もいた。それも蕗地区全員だと多過ぎたのだろう、同級生の中7人は本校に通っている。  校舎は北向きで、玄関を入ると長い土間があり、壁側に下駄箱があった。廊下を挟んで板張りの広い教室(24畳程)があり、廊下を左へ行くと第2教室(8畳程)があった。その先には勝手口が付いた簡単な炊事場があり、和室(8畳程)へと続いていた

          心 に 残 る 歌

          「さるぶー」の話

           さるぶー(猿笛)には一つ、もしくは複数の穴が開いていて、いい音を出すには熟練を要したが、吹くと「ポー」という音がした。それだけのことだが、他人が持ってると羨ましく、自分だけ持ってると誇らしかった。  「さるぶー」のなる木はめったにある木ではなかった。正式にはイスノキと言うらしいが、父が平原と云う所で炭焼きをしていた時、そこで1回だけ見たことがある。「さるぶー」はなるというより、できると言った方が正しいようだ。何故なら、アブラムシが寄生してできる「虫こぶ」がその正体だからだ。

          「さるぶー」の話