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心 に 残 る 歌

 昭和32年当時、田染蕗地区には分校があり、小学校1・2年生は豊後高田市立田染小学校・蕗分校に通っていた。分校と言っても、1年生の時の記念写真を見ると、2学年で38人もいた。それも蕗地区全員だと多過ぎたのだろう、同級生の中7人は本校に通っている。
 校舎は北向きで、玄関を入ると長い土間があり、壁側に下駄箱があった。廊下を挟んで板張りの広い教室(24畳程)があり、廊下を左へ行くと第2教室(8畳程)があった。その先には勝手口が付いた簡単な炊事場があり、和室(8畳程)へと続いていた。先生はここに家族で住み込んでいた。当初は風呂もなく借り湯をしてたようだ。さぞかし不自由な暮らしであったろう。当然のこと、地区の人達が差し入れをしていた。私も家で採れた野菜等を持参した。お礼に頂く鉛筆や消しゴムが嬉しくて、何かと親にせがんでいた記憶がある。
 広い教室で複式授業が行われていた。学校が好き、先生が大好きだった。風邪で熱があるのに、行くと言って聞かず、母に負ぶさって登校したことがあった。学校が近づくと、テンポのいい大合唱が聞こえてきた。「スキー」の曲であった。それを母の背中で聞いた。20㎏以上有ったろう私を背負い、2㎞の道を往復した母を思うと、今は亡き母への感謝と、懺悔の気持ちで一杯になる。

山は白銀 朝日を浴びて
すべるスキーの 風切る速さ
飛ぶは粉雪か 舞い立つ霧か
お お お この身も かけるよかける

真一文字に 身をおどらせて
さっと飛び越す 飛鳥の翼
ぐんとせまるは ふもとか谷か
お お お たのしや 手練の飛躍

風をつんざき 左へ右へ
飛べばおどれば 流れる斜面
空はみどりよ 大地は白よ
お お お あの丘 われらを招く

 昭和51年、東洋鍼灸専門学校・本科2年の夏休み、私は東京から自転車で大分に帰省すべく、中山道に漕ぎだした。雨中の激走がたたり膝が炎症を起こした。滋賀県堅田の姉の所に療養を兼ね2泊、その後北上して山陰路を、腫れて痛む膝に鍼灸をしながら走った。徳山からフェリーで竹田津に渡り、家には7日目の朝5時半に着いた。
 前日の祖父危篤の知らせで帰っていた兄姉・甥姪はまだ皆寝ていた。祖父は一度は持ち直し食事が摂れるまでなったが、その後急変し、私が帰省して10日目の7月27日に、84歳で亡くなった。母は心身の疲れから持病の喘息がひどくなり、その6日後に入院した。
 父と私の二人だけの生活が始まった。お盆過ぎから、父に連れられて山掃除に行った。往きも帰りも子供の頃の記憶が残る山道を歩いた。弁当はどうしたのか、炊事はどちらがしたのか記憶にない。2週間父と二人だけで過ごした温もりが残っている。父にとっても幸せな時間だったのだろうと、今になって思う。
 当時、NHK総合テレビの21時40分から20分間(月~金)、銀河テレビ小説という番組があったのを覚えているだろうか。8月23日~9月3日(10回)は「幻のブドウ園」という悲恋ドラマだった。山梨のブドウ農家の息子(尾藤イサオ)が家業を継ぐのを嫌い、歌手を目指して上京するも夢破れ、恋人(木内みどり)とも別れることになる切ない結末だったように記憶している。尾藤イサオがドラマの中で歌う「ダスティンホフマンになれなかったよ」がドラマを象徴していた。
 主題歌は荒井由実の晩夏(一人の季節)、この歌はドラマと一つになって、私のメンタルブロックを破壊し、無防備な心に浸潤した。それは、ニューミュージックと言われる曲の新鮮さ故か、切ない歌詞がその時の私の心に共鳴したのか、その両方なのか、いまもって解らない。ところが、何時すり替わったのか、最近まで主題歌を「あの日に帰りたい」だと思い込んでいた。ネットで調べて間違いに気づき、この歌に再会した喜びと、記憶のあやふやさを痛感した。

♪往く夏に 名残る暑さは
 夕焼けを吸って燃え立つ葉鶏頭
 秋風の心細さは コスモス

何もかも捨てたい恋があったのに      
不安な夢があったのに           
いつかしら 時の何処かへ置き去り     

空色は水色に               
茜は紅に                 
やがて来る淋しい季節が恋人なの                  

丘の上 銀河の降りるグランドに
子供の声は犬の名を
くりかえし ふもとの町へ帰る

藍色は群青に
薄暮は紫に
ふるさとは深いしじまに輝きだす
輝きだす


 

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