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1971年パリ祭とその前夜


花模様のあるピンクで厚手のカーテンを開き、西側の白い観音開きの窓を押し開けると、さわやかな宵の空気が気持ち良かった。左の方角に目をやると、照明に照らされ黄金色に輝くエッフェル塔が、その右20度に凱旋門が見えた。この部屋は、バカンスで空く一月半の貸間で、この屋のお嬢ちゃんのらしかった。
現在私はAlliance Françaiseという外国人の為のフランス語学校に通っている。授業は午後7時半に始まり、9時15分に終わる。いつもだと9時50分には6階の部屋に帰り着くのであるが、この日は友達と雑談したので10時を少し回っていた。
電気を点け、鍵をベッドの上に放り投げ、本とノートを天板が大理石のアンティークな箪笥の上にバンと置くまでは、いつもと全く同じであった。でもどこかいつもと違っていた。そういえばさっきからパンパンという音が聞こえている。明日はパリ祭で授業は休講である。
パリ祭のことをこちらではLe Quatorze Juillet(7月14日)という。そのままである。花火大会は明晩と聞いていたが、生来祭り好きな私はこのまま寝る気にもなれず、カメラを片手に階段を駆け下り、(アンティークなエレベーターは上り専用、機械油の臭い、ドアの開閉は手動、まるで大きな鉄の鳥籠のよう)音のするサクレクール寺院の方へ急いだ。
ところが音の正体は花火ではなかった。日中にも見かけたが、単発の爆竹のようであった。その光景は驚くべきものであった。限られた人達の行為ではなく、道行く大勢の10代後半から20代の若者が、通行人に向けて爆竹を投げつけているのであった。投げ方も、建物の陰で待ち伏せをして投げる者、歩きながら煙草の吸殻を捨てるように前後に投げる者、宙に投げ上げる者、餅まきのように大勢の中に投げ込む者もあった。
破裂音と女の子の悲鳴が辺りに響いていた。女の子が通ると必ず投げつけるので、私はカメラを抱えるようにして、女の子を避けて隅の方を歩いた。顔の近くで破裂して、目や耳を傷めたらどうするのだろう。怒る人も中にはあったが、多くの人が笑って済ませるのには驚いた。もし日本でこんなことをしたら、お巡りさんに連れて行かれるか、その前に殴り倒されることだろう。そう思うと怒りがこみ上げてきた。
もう一つ、パリで驚いたことがある。日本でも祭りでよく見かける、落とすと景品がもらえる鉄砲である。日本では空気銃にコルクの弾であるが、こちらは火薬を使い、弾も固そうである。若者や戦争に行ったことのありそうな老人が興じていた。
私は日本人とフランス人の違いを考えた。徴兵制があり、陸続きで数カ国と国境を接し、幾度となく悲惨な戦争を経験し、国内的にも流血の革命を繰り返し、自らの手で現在の自由と民主主義を獲得したフランス、片や占領軍に与えられた日本、彼らを見ていて、権力を嫌い、何処までも自由を求めるフランス人気質と、どう繋がるのかを考えていた。まだ爆竹の音は続いていた。
 

翌朝私はゴウゴウという音で目を覚ました。窓を開け、身を乗り出してシャンゼリゼの方に目をやった。今日はシャンゼリゼ通りで軍隊の行進があると聞いていた。

10時近くシャンゼリゼに着き、軍隊の行進を見学した。空を戦闘機が飛び、通りを戦車が行進したが、人が多くてよくは見えなかった。多くの人は潜望鏡のようなものを用意していた。カメラを持参したが、行進よりも見物に来ていたあどけない子供たちをスナップした。
人ごみの中を帰っている時、触られたみたいだったので、尻ポケットの財布を探ったらなくなっていた。すぐに周りを見回したが、万事休す。中には90₣程と学生証が入っていた。貧乏学生には手痛い失態であった。

一度部屋に帰り、7時頃クラスメイトの吉池さんが待つpont des artsに行った。なかなか来ないので諦めかけていたら、8時近くに戸田という女性と二人でやって来た。その足でサクレクール寺院へ行き、花火大会を見学、人が多くて大変だった。日本の花火を見慣れている者には拍子抜けであった。
彼女たちを見送り、部屋に着いたのは0時半であった。
気づいたことだが昨晩から涼しくなったようだ。2日から続いた暑さも13日でどうやら峠を越したようにある。

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