自転車の旅日記 ―良寛さんの新潟へ―
今回は愛車ブリジストンRM5型での4度目の旅になる。有明埠頭からフェリーに乗り、船中2泊して苫小牧へ、上陸後海岸線に沿って函館へ、津軽海峡をフェリーで渡り、青森から日本海側を通って新潟へ、良寛さんの足跡を訪ねるのが一番の目的である。その後は三国峠を越え、一路東京までの8泊9日の行程である。昭和55年の夏は梅雨明け宣言こそあったが、実際は開けないまま秋になった。この異常気象の為冷夏となり、農作物に多大の損害を与えた。当然のことながら、今回の旅は雨又雨の日々であった。
7月12日(土)一日目
有明埠頭を11時30分出航の苫小牧行きに乗るため、9時にアパートを出発した。去年の経験を生かし、雨合羽を持参。北陸なので寒かったらと思い、スリーシーズン用の羽毛の寝袋も持った。自転車オイル、カメラ、電気カミソリ、アルミマット、衣類、その他を前のバッグと荷台の登山用リュックに納めた。地図は習字用のビニールの円筒に入れ、ガムテープで自転車のフレームに固定した。こうしておけばすぐに取り出せるし、雨にも濡れない。黄のジョギング用シャツ・パンツ、ブルーのジョギングシューズ、ブルーの野球帽という出で立ちであった。カラフルな服装に比べ、心は暗く沈んでいた。 川越街道の右側にカーサ錦が見えた。通り過ぎて振り返ると、二人が住んでいた4階真ん中の部屋だけカーテンがなく寒々としていた。 以前働いていたイナバ堂の前を通ったが、話す気持ちになれなかったので素通りした。護国寺の交差点で数人のお巡りさんが交通整理をしていた。止められて歩道を走るよう言われた。北海道行きのフェリーに乗る為、有明埠頭まで行くと言うと「気を付けて行けよ」と言ってくれた。10時20分埠頭着、船は定刻通り11時30分に出航した。 ―25㎞―
7月13日(日)二日目
船にはどうも弱い。その為横になっているか、室外に出て海を眺めているかである。食事の時が一番辛い。レストランでは少しでも揺れが少ない真ん中に席を取る。一口食べては外に視線をやり、首肩が凝るので首を回す。時間をかけて食べるのであるが、それでも半分程位しか食べられず、部屋に帰って横になった。最上階にはプールがあったが水は入ってなかった。夕方風呂に入り、喫茶室で「寅さん」を観た。30時間もの船旅は時間を持て余してしまう。
7月14日(月)三日目
6時45分、定刻より1時間程遅れて苫小牧港に着岸、7時下船、初めて北海道の土を踏んだ。そして7時35分薄曇りの空の下にこぎ出した。地図に白老町アイヌ部落とあったが、道路標示がなく見つからないまま通り過ぎた。 製鉄の町室蘭は林立する煙突が黄色いスモッグにかすみ、つんと鼻を衝く臭いがした。 しばらく行くと右手に白煙を上げる昭和新山と有珠山が並んで見えた。赤いサイロのある牧場、木はなく一面笹に覆われた山は北海道らしかったが、この辺りは左は海、右は山で広大なイメージはなかった。しかし内浦湾の西岸に来ると、こいでもこいでもまっすぐな道が続いていた。 長万部を過ぎ黒岩の辺りで、今日の宿を見つけた。道路の左脇にプレハブが建っていて、窓が開いたままになっていた。天気予報では夜半に一時雨とのことで、野宿はダメ。そうでなくてもこの辺は荒れ地が多い為か、ブヨや蚊などの虫が多いので蚊取り線香を買った。 プレハブの中は8畳程あり、水揚げした魚介類の一時置き場のようだった。夏場は使ってないのだろう、魚の臭いはしなかった。道路脇の為、車の音が少しうるさいが、寝れなくはなさそうだ。 ―141㎞―
7月15日(火)四日目
明るくなって目覚めたら4時半だった。5時出発。5号線をひたすら走り、10時半に東日本フェリー港に着いた。「フェリー」の案内表示通りに来たらここに着いた。次の青森行きは13時20分、3時間もある。そこで国鉄青函連絡船の方に電話したら、12時15分があると言うので喜んだら、車は乗せるが自転車はダメとのこと、変な話である。結果的にはここに来て正解だったことになる。 13時15分に乗船、風呂は付いていたがやっていないとのことで残念。200円で毛布を借りてひと眠りした。3時間程して目覚めると、どんより曇った空から雨が落ちてきた。風も相当強く海は大きくうねり、白い波頭が立っていた。津軽海峡を境にして随分天気が変わるものだ。それにこれほど早く雨になるとは思わなかった。この分だとフェリー待合室か民宿に泊まらねばならないだろうか。
青森港に17時20分の定刻着岸、少しでも先まで行こうと、船内で雨支度をして雨中に乗り出した。民宿を探しながら走り、途中道路脇の食堂で夕食を摂った。ここの女主人が事情を聴いて「泊めてあげたいけど、今主人が留守だから」と気の毒そうに言った。外はもう暗くなり、早く泊まる所を探さなければならない。 少し行くと左側にバス待合室があった。道路の上手と下手の出入り口を、雨が入らぬようゴミ箱で塞ぎ、何とか 寝る場所を作った。床の下を農業用水路が通り、水の流れる音がしていた。道路のすぐ横なので車の音がうるさく、車がはねた水が激しく板壁を叩いた。それでも蚊取り線香を炊き、寝袋に入ると何とか眠ることが出来た。雨は小降りになったり、時折激しく降ったりで一晩中止むことはなかった。―118㎞―
7月16日(水)五日目
空は一面どんより曇り、小雨が降り続いていた。バス待合室の裏は農家で、庭のブドウが随分大きくなっていた。 5時50分出発。たばこが植えてあった。たばこは暑い所の作物と思っていたので驚いた。雨は大した降りではなかったが、ほぼ一日パラついた。秋田市街をかすめて通り、少し先の下浜辺りの民宿に5時頃入った。家が新しく立派だったからか五千円と高かった。出発が早くて朝食が用意できないので、おにぎりとのことで三百円負けてくれた。風呂に入れ、布団の上で寝れれば、少しくらい高くても文句はない。 ―167㎞―
7月17日(木)六日目
5時起床、空は晴れていて暑くなりそうだ。おにぎりを食べ、6時15分出発。間もなく青空は見えなくなり、昨日のようなうっとうしい梅雨空になった。やがて霧雨になり、大火で有名な酒田を通る昼頃まで苦しめられた。 酒田より国道を離れて海岸線を行く。松林に囲まれた砂地で、道の両側の畑にはタバコの他スイカやメロンが実り、所々に直売所があった。うまそうなので一つ失敬しようかと思ったが、温いメロンを辺りを窺いながらこそこそ食べても、美味くなかろうと思い止めた。五十前後のおばちゃんがやっている直売所でメロンを頼んだ。私にバケツの水で手を洗うように言ってから、「これが美味そうだ」と大きなのを取り上げ、皮を厚く剥いてから二つ割にしてくれた。これが何と甘くて美味かったことか。 雨が上がると西の方から青空が覗き、何時の間にやら強い陽射しになった。そこで五六軒しかない小さな漁村の船着き場に下りて、カッパ等の濡れた物を乾かした。 新潟県に入り少し行ってから、国道を離れ線路に沿って海岸線を走る。この辺りの景観は能登半島西岸に似て実にすばらしい。何時までも眺めていたい心持であった。但し冬は知らない。 新潟県に入る前から見えていた割と大きい島は、佐渡島だと思っていたが、粟島だと言うことが土地のおじさんに聞いて解った。佐渡はもう少し左の、ずっと遠くにかすかに見えていた。 今日の宿は桑川駅と越後早川の中程、線路脇にあるコンクリートの小屋。ちょくちょく線路脇に見かけるので国鉄の物に違いない。広さは三畳程で線路側に小窓があった。入ると左側と奥がベンチになっていて、何もなく広々としていた。時折通る列車の音に起こされはしたが、上々の宿であった。 ―180㎞―
7月18日(金)七日目
空は一面曇ってはいたが、雲は高かった。昨夜は雨は降らなかったらしく、草は乾いていた。今日の天気予報は「曇り時々晴れ、夕方から時々雨」なので早く寺泊に着くようにしよう。小屋の内側の壁に、今日の日付と名前を石で記し、5時40分小屋を後にした。 村上の辺りで大きくて立派なお地蔵さんを何体か見かけた。地蔵信仰が盛んなのだろう。
新潟市街を通り抜け、途中弥彦神社にお参りした。広い境内にはうどん・そば・氷等を食べさせる休憩所、土産店が数軒あり、シカが数頭遊んでいた。寺泊には3時に着いた。民宿を探していると予報通り雨がぽつぽつしてきたので急ぎ決めた。部屋に案内されて驚いた。四畳半にテーブルが一つあるだけで、テレビも押入れもない。ゆっくり相撲でも見ようと思っていたのにそれもできない。頭に来て民宿を変えようかと思ったが、一度決めたことだし、外は雨だし、野宿に比べればいいかと思い腰を落ち着けた。 大山澄太氏の本にある寺泊は、「丸い石を置いた低い屋根が並ぶ寂しい漁村」だったが、今は道の両側に海産物を売る土産店、食道、休憩所が立ち並ぶ海水浴地になっていた。 6時頃より雨は音を立てて降りだした。明日の予報は「曇り時々雨」。食事の方は、味はさておき、港だけあって魚攻めで、食べ切れない程の量であった。 ―120㎞―
7月19日(土)八日目
朝食前に国上山に登るべく4時45分起床。雨。昨晩民宿の人に傘を頼んでおいたが貸してもらえなかったので、それに代わるものを探したところ、玄関脇に発砲スチロールの板が有ったので拝借する。合羽を着、カメラだけ持って5時10分に出発。 国上山への上り口にバス停があったので、そこに自転車を置く。車が一台やっと通れる程の道を登り始めると、ぽつぽつと民家があった。店もあり、もう開いていた。その先にお寺と見紛う程の大きくて高い屋根の家があり、玄関に傘が立てかけてあった。ちょっと借りる。助かった。ここから先は雨水が流れる急な山道で、乙子神社が見つからないうちに五合庵に着いてしまった。
「焚くほどは風がもてくる落葉かな」の句碑が立っていた。藁葺きの屋根の正面に立つと、手前と右側に濡れ縁があり、右側は戸が閉まっていた。近づくと6畳の板の間の奥に仏壇があり、お厨子の中に良寛さんの坐像がお祀りしてあった。周りには良寛さんが愛した藪椿がたくさんあった。ここまで登ってくるまでの道、庵の佇まい、周囲の自然に手が加えられておらず、今ここに良寛さんが座っていても不思議でない気がした。 47歳から59歳までの12年間をここで過ごされているが、越後の冬はさぞ厳しかったことだろう。そこから5分程登ると国上寺に出た。門をくぐると紫陽花が咲いていて、左に庫裡、その向こうに客殿、その奥一段高い所に本殿があった。客殿に参拝していると、「カーン、カーン」とお勤めの鉦の音が聞こえてきた。 実は私が登って来たのは裏門で、本殿の方に表門があり、車が通れる道もあった。本殿にお参りし、裏門を出て振り返ると、庫裡に小さな明かりが点き、包丁の音がしていた。 下まで降りて傘を元の場所に返し、店のおばさんに乙子神社の場所を尋ねた。おとご神社と言うらしい。5分で着くと言われ、田舎の5分かと心配したが、本当に5分で着いた。小さなお宮で、その左横に桧皮葺きの長い平屋があった。 山深い五合庵での生活に耐えられなくなった良寛さんが、59歳から69歳までの10年ばかり移り住んだ所で、当時は三室の萱葺きの家だったらしい。これで思いは達せられた。満足して、民宿に7時40分に帰って来た。 朝食をいただき、9時丁度に出発した。雨はちらちら程度、佐渡へ向かうフェリーが出る寺泊港に寄ってから、島崎へ向かう。 良寛終焉の地は直に見つかった。自転車のおばさんに聞いたら丁寧に教えてくれた。一人暮らしに耐えられなくなった良寛さんは、69歳から74歳で亡くなるまでの5年余りを、島崎にある木村家の納屋で過ごされている。「良寛禅師遷化之地」と刻された石碑の前に立っていたら、七十過ぎの少し腰の曲がったおじさんが通りかかり、「こんにちは」と挨拶した。私も慌てて「こんにちは」と返した。おじさんは石碑に向かって合掌し、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と二度唱えて立ち去った。いまだ良寛さんは、この土地の人々の心の中に生きていると感じた。 隣にある木村家の菩提寺・隆泉寺に行くと、本殿に大勢の人が集まって、戦没者慰霊祭と書かれた旗竿が立っていた。さっきのおじさんもこの中に居るのだろう。 本殿の左奥に苔むした小さな墓所があり、雨にしっとり濡れていた。六段の石段を上ると、正面に良寛禅師の墓、左隣に弟由之の墓、右隣に木村家代々の墓があった。お参りを済ませ石段を降りた所で、右の木陰に良寛さんの托鉢姿の像が目に入った。銅製で50cm程、左手にお鉢、右手に杖と笠を持ち、心持背を丸め、視線を左斜め下方に落としていた。鼻筋の通った彫の深いお顔立ちは、私の想像とは違い、まさしく修行を積んだ良寛禅師のお顔であった。
次に良寛生誕の地・出雲崎へ向かう。分かれ道で、農家の庭先に居たおばさんに道を尋ねた。「出雲崎の何処に行きなさるか知らないけど」と言うので、良寛記念館だと言うと一変、心を許したような笑顔で教えてくれた。 良寛記念館は日本海を見下ろす丘の上にあった。くの字型で鉄筋平屋の立派な建物であった。受け付けは四十過ぎのがっちりした無愛想な女性で、「今説明してるところですからどうぞ」と言われ中へ進んだ。良寛さんの遺墨(掛け軸、色紙、扇、短冊、手紙他)、遺品(錫杖、笏、臨終の時の布団の切れ端他)が壁やケースの中に展示され、頭の禿げあがった五十絡みの男性が、落語家張りの口調で説明していた。良寛さんの書は説明なしでは判読が難しい。 一段高い所に歌碑があると言うので登ってみたが、彫も浅く読めなかった。下を望むと開けた所に小さなお堂が見えた。和尚生誕の地に建てられた良寛堂のようだった。お堂の向こうは道一つ隔てて日本海、その向こうには佐渡の島影が薄雲の中に横たわっていた。良寛さんが「いにしえに変わらぬものは荒磯海と向ひに見ゆる佐渡の島なり」と歌った光景があった。良寛堂まで行きたかったが既に12時近くになっていたので、丘の上から手を合わせた。いよいよ後は帰るだけになった。
長岡の町が近づくにつれ、言いようのない喜びと、悲しみが胸中を駆け巡った。信濃川を渡り、市街地に入ると、楽しかったあの頃が思い出され、胸が張り裂けんばかりになった。街中を走りながら、帽子の下で涙が止めどなく流れ、頬を伝って落ちた。去り難い心を引きずりながら、脚は前へ前へとペダルをこぎ、やがて長岡の町が次第に遠くなっていった。 今日は越後湯沢まで行かねば、明日のことを考えると少しでも先に行かねばならないのだ。湯沢の手前8㎞程で国道を離れ、線路伝いに行くと線路脇に例の小屋があった。石と粘土でできた壁にトタン屋根、中に入ると真ん中にストーブがあり、板切れが転がっていた。たった一つある窓は板で塞がれ、薄暗くて湿があった。でも何とか泊まれそうであった。7時近くになっていたので今日の宿に決めた。合羽を干し、荷物を解いて日記をつけていたら暗くなったので、途中で止め小屋に入って寝た。 ―124㎞―
7月20日(日)九日目
5時起床。夜中に何かに噛まれ目が覚めたが、その痕が左手拇指球に残っていた。歯痕が二つあるので百足だろう。手の甲まで腫れている。いよいよ最終日、三国峠を越えれば後は楽なのだが、峠までの30㎞は最後の難関である。日記をつけていたら遅くなった。6時30分出発。 行けども行けども店はなく、腹はペコペコ、昨夜食料を買っておかなかったのが悔やまれた。峠まで9㎞程の所で、左を流れる小川に下りて顔を洗った。なんという水の冷たさだ。試しにどの位手を浸けてられるか計ってみた。5秒で手が痛くなった。ぐっと我慢して30秒で出した。手が握れない。痺れてしまっていた。この水でタオルを絞り、顔、腕、首を拭き、手で掬って三口喉を潤すと、再び元気が湧いてきた。 ほどなくレストランを見つけ朝食にありついた。出発時は薄曇りだったが、苗場を通る時は、吸い込まれそうな紺碧の空に変わっていた。そして9時半、ついに標高1,076m、長さ1,218mの三国トンネルに着いた。安堵感とこれで新潟県とお別れだという寂寥感が交錯した。 トンネルを抜けると、陽光に照り輝く緑が眩しかった。猿ヶ京温泉で土産を買った。日射しが強烈である。照り返しもすごい。ランニングシャツ・パンツ姿なので、火傷しないよう肩にタオルを掛けて走った。 去年の自転車旅行の途中、高崎で氷を食べたのを思い出した。氷も食べたいが、店のおばちゃんにも会いたくなった。市街を抜けても見つからないので、諦めかけていたらあった。「松下屋」と看板に書いてあった。しかし、氷と書いた旗がなく、店内の様子も違う。記憶では、三畳程の所にテーブルと数個の椅子が置いてあったはずだが、そんなものはなく駄菓子が置いてあった。でもこの店に違いないと思い、「こんにちは」と声をかけた。「はーい」と奥から声がして、四十前で愛嬌のある女性が出てきた。間違いない。去年のことを話すと「今年は雨ばかり降ってなかなか夏らしくならないでしょう。そろそろ氷を始めなきゃいけないんだけど延び延びになって、昨日も自転車の兄ちゃんが寄ってくれたんだけど、ごめんなさいね。」といかにもすまなそうに、冷たい麦茶を出してくれた。去年は8月19日で夏祭りの最中だった事、旅の事等を話して一休みしてから店を出た。出しな「走りながらしゃぶりなさい」と飴を一握りくれた。 長かった九日間の旅も終わり、20時20分アパートに着いた。 ―204㎞―
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