記憶の博物館を訪ねる本: "Time Shelter" by Georgi Gospodinov / "The Souvenir Museum" by Elizabeth McCracken
私はあまり多くの物を持ちたくない性分なので、不要な物を売りに出したり、人に譲ったり、処分したりしたくなる時期が定期的にやってくる。しかし過去に使っていたものを手放すと、なんだかそこに引っ付いていた、記憶を呼び出すスイッチみたいなものまで失ってしまうような気がする。そこで、紙の本だけはどれだけ増えても良いということにして、並べられた本たちに記憶の倉庫、あるいは鍵束のような役割を担ってもらっている。一度読んだ本を何度も読み返すということは決して多くないのだけれど、一冊の本を本棚から取り出して、何気なく開いたページの一文を読めば、ああこんな話だったな、こんな場所で読んだな、この時は確かこんな出来事があって…と、初めてその本を手に取った時のことをかなり鮮やかに思い出せる。蔵書はただの本の山にあらず、その時代の空気を、その月に配られた出版社のチラシを、今は手に入らない本屋の栞を、挟み込んで記憶の倉庫になっている。
"Time Shelter" by Georgi Gospodinov
2023年のthe International Booker Prizeは、この記憶のストレージ、というような現象を扱った作品に与えられた。"Time Shelter" はブルガリアの作家 Georgi Gospodinovによって母語で書かれた小説で、原語版は2020年に出版。2023年に英語訳されて話題になっているのを見かけて購入。受賞時のインタビューで、原作者のGeorgi Gospodinovさんによるコメントが作品全体に漂う空気感を素晴らしく表現していて、思わず買いたくなったのでした。
主人公は、Gaustineという名の"過去"に強い執着を持った男と出会い、認知症やアルツハイマー症を患った患者のケアを目的としたクリニックを設立する。1900年代の家具や壁紙のみならず、新聞や嗜好品、香りや光までもが完全に再現された部屋に入ると、患者たちは失ったと思われた記憶を呼び起こし、活動的に動き回り、生き生きと話し始める。瞬く間に規模を拡大し、多くの患者を救うと思われたクリニックだったが、Gaustineの"過去を飼い慣らす"ことへの執着は肥大し続け…というあらすじ。一見あり得ないと思えることを、丁寧なディティールの積み重ねによって説得力を持って読まされているこの感じ、エドガー・アラン・ポーの小説を読んでいる時の感覚に似ているような。
The International Booker Prize & the Booker Prizeは受賞作品の傾向が好みで、毎年long listの公表から楽しみに追っている。The Booker Prizeはその年に英語で出版されたもの、the International Booker Prize はあらゆる言語から英語に翻訳されたものが対象になっている。各人の民族史や現代社会をテーマにした作品のノミネートが多くて好き。本棚にあるものでノミネート作品を並べてみると、The Booker Prizeからは"Small Things Like These" (Claire Keegan)、"Girl, Woman, Other" (Bernardine Evaristo)、"4321" (Paul Auster)、"A Passage North" (Anuk Arudpragsam)、"Disgrace" (J. M. Coetzee)、the International Booker Prizeからは"Whale" (Cheon Myeong-kwan)など。覚えているものをいくつか抜き出しただけでこんなにあったとは…。
"The Souvenir Museum" by Elizabeth McCracken
The Souvenir Museum、日本語で表現するなら何だろう。お土産博物館、だとちょっと可愛らしすぎるし、記念品博物館、だとちょっとさりげなさが足りないし…と考えて、形見の博物館、または記憶の博物館、辺りが私の中では一番しっくりきている候補です。"The Souvenir Museum"はElizabeth McCrackenによる、過去の旅路を静かに振り返るような短編が多く収録された短編集。表題作のタイトルがまた短編集のタイトルとしてぴったりで、決してもう生きてはいない、もう激情として思い出されることはない、けれど確かに形をとどめて生涯忘れることのないような、まさしく博物館に納められた標本のような、そういった記憶を辿る美しい作品たち。本を読んでいて美しい表現に出会ったとき、リーディング・ジャーナルの中に書き留めておくのが習慣なのですが、"The Souvenir Museum"に関してはビビッとくる表現が多すぎて書ききれなかった。
一番お気に入りの話 "Proof"は、認知症が進行する父に最後の親孝行をしようと、パフィンを見るツアーに父を連れて行った息子の話。文字通り崖っぷちで動けなくなり、父とツアー客たちに助けられたあと、旅を振り返る息子の独白がすごく良かった。
記憶を失っていくことへの抵抗や受容というのは様々な作品で扱われてきたものだけれど、この表現は見たことがなく、美しいあり方だなと思った。父はきっと今日のことも覚えていられない。でも、自分たちと強烈な体験を共有した同行者たちは、きっと彼らの土地で、様々な言語で、今日のことを話してくれるだろう。父の記憶はもう元の形には戻らないけれど、その記憶のかけらたちは、世界中の海岸に、陶器の破片のように流れ着くのかもしれない。
この話の他にも、母と娘、父と娘、同性カップルの育児や結婚にまつわる問題など、様々なテーマの話が収録されている。テーマの広さにもかかわらず流れている空気感は統一されていて、穏やかな心持ちで読める一冊だった。こんな素敵な本を春の夜に読めてよかった!
記憶の保存…といえば、藤本タツキさんの「さよなら絵梨」という短編の中で、「あなたの映画で私を撮って欲しい。私もあんなふうに綺麗に思い出されたいから」という話があったのを思い出した。初めて「さよなら絵梨」を読んだ時は分からなかったけど、"The Souvenir Museum"を読んだ時、私もこんなふうに記憶を話にして書いてもらえたらなんて素敵だろう、と思ってしまった。「さよなら絵梨」は、映像作品を介して人の人生を記録することの力を示すと同時に、その行為を他者に託すことの残酷さを示す作品でもあったので、何だか今読み返したら複雑な気持ちになりそう。
もし記憶をお話にするなら自分で書いた方が100%自己表現で良いと思うのだけれど、それでも優太に託したいと考えた絵梨は、一体どれほど優太の映像に惚れ込んでいたんだろう。
今回紹介した作品は、どれももう一回読み返したい、いや読み返さねば…と思うものばかり。良い作品との出会いに恵まれました。