世界はなぜ広いのか
「かわいい子には旅をさせよ」
「獅子はわが子を千尋の谷に落とす」
「神は乗り越えられない試練を与えない」
これらの格言に共通する「物事を経験することは無条件に良いことだ」というドグマはどこからやってきたのか。
ぼくは小さな頃からずっと、この「すべてを経験値に還元することでそれ以外の考え方を封じ込める」、なんとも言い難い経験主義的な理屈を耳にする度に反発心を覚えていた。
なぜなら彼らの多くは「“経験”は良いものだ、と“経験上”知っている」という同語反復に即座に陥落することを自覚しながらも、むしろそのことによって対話のイニシアチブを握っている(つまり、経験を権威にすり替えている)フシがあったからだ。「それって、もはや理屈ですらないのでは?」と思わずにはいられない。
この理屈にもならない理屈に対して有効な反論を試みようとした場合、仮にでも自分の中に「彼らなりの理屈」を一旦捏造しなければ反論というものは作れない。
しかし、そもそも反発心を抱いているわけだから、ちゃんとした理屈を構想することは容易いことではない。
ぼくは、まず「経験とは何か」(本質論)という一見重要そうに聞こえる問いの立て方をしてみたそのすぐあとで、より普遍的で、より不可避性の高い設問に気を取られる。「構造と機能についての分析」よりも、非理論的な「起源と意味」の部分、「人は『なぜ』経験してしまうのか」という設問がそれである。
筋の通った理屈のためには、(逆説的ではあるが)どうしても理屈になれない部分に関して、自分の中で納得できるような(自分に合った)言葉を、慎重さが失われない程度には速度を高めて置いていくことが求められる。その方法論とは裏腹に、「触れてくれるな」というドグマはなぜか拡大していく。
ここで記事タイトルの疑問が浮上してくる。
“経験”が可能になるためには、“未経験”なままの領域が論理的にどうしても必要である。
「自分はすべてを経験した」という申告への反論がなぜ容易いのかというと、「一人の人間がその生命活動の中で可能にしていく“経験”の質と量を、世界は常に超えて貯蔵している」という主張に対してわれわれは“独我論”以外の対抗言説を持ち合わせていないからだ。
世界は常にぼくら一人一人の独我論を切り崩してくる。まるでそもそも「独我は崩落されねばならないのだ」と〈この世界〉は言いたげに〈広がる〉。
まるで、一旦はどんな結論に落ち着こうともわれわれを必ず“経験”によって自己反省に至らせる“未経験”な領域を「無限の隠し玉」として用意していたかのように、世界は広く作られている。
「お前が思うんならそうなんだろ。お前の中ではな」というパンチラインを、世界は無限に確保しているのだ。
この考え方は宇宙論における「人間原理」と同じものだ。
この「人間原理」という考え方は、現在では完全に物理学の問題として探究されている宇宙論への人文学的アプローチの最たるもの、すなわち“真面目に検討するに値しない非科学的な思考パターン”として存在している。
「宇宙は人間が観測可能であるように作られている」。
「宇宙は人間にとって住みやすいようにできている」。
どういう風に解釈するかの自由度はすこぶる高いわけだが、“真面目に検討するに値しない非科学的な思考パターン”のように受け取られる理由として「ご都合主義」「人間中心主義」、すなわち「自己中心的」という批判が挙げられる。
しかし、本当にそうだろうか。
もし、「この世界が広いのは、そして、この世界が知らないことで溢れているのは、われわれの安住を妨げるためである」のであれば、ご都合主義どころか、そんな面倒くさい世界はこちらから御免被りたいと思う環境だろう。
どうせ「人間原理」で構成されているんだったら、もっと狭い世界で生きていたかった、とすら思うだろう。
『きみはペット』という少女マンガの傑作もあれば、『アイ・ワナ・ビィ・ユア・ドッグ』というパンク・ロックのアンセムもある。
経験を創出するための世界を、徹頭徹尾「人間原理」に基づいて考えた時、同じく経験によって行動パターンを変化させていく習性を持つ「動物」もまた「人間」の問題であることに気づく。
「この世界」が本当に、閉じられた世界、ループする世界であるならば、それらの外部へのアクセス方法がひとえに“経験”と称される現実空間はわれわれに何を与えようとしているのだろうか。
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