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いろいろ本を読み、その内容をほとんどすべて忘れてしまった最終学歴ミニミニミクロ電子幼稚…

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いろいろ本を読み、その内容をほとんどすべて忘れてしまった最終学歴ミニミニミクロ電子幼稚園の主席が、残り少ないブドウ糖を消費して書くひとりごと。好きな科目は音楽と図工です。

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セカイ系が好きなんだったら「傘がない」も好きでしょ?アンケート

井上陽水の『傘がない』という楽曲は、セカイ系的な世界把握を最も的確に提示していると常々思っていた。 『傘がない』の社会風刺的な要素やセンチメンタリズムは、シンプルに社会反映論的な音楽評論をこちらに書かせようとする喚起力に溢れている。 そして実際、この歌に、森田童子が『みんな夢でありました』と歌ったような学生運動の失敗や社会変革の夢の頓挫などを感じ取る意見は多く、そこから「内面の時代」とも言われるようなきわめて限定的な生活空間でのリアリズムの追求をこの歌から嗅ぎ取ることはき

    • 言葉が抱えるイメージについて

      鈴木大拙の「信仰の確立」というエッセイを読んだのだが(正確にはYouTubeに上がっている機械音声による朗読を聞いたのだが)、これがなんとも素晴らしいテクストであった。 押し付けがましくなく、論理的な部分と断定的な部分の使い方がきわめて心地よく、それでいて読者がそれぞれ個別的に抱える人生の悩みに前向きな渋味を与えるような文章だ。 良い文章とはこういう文章のことを言うのであろう。 ただ、この文章をいざ人に薦めようというようなときに、そう簡単には薦められないような、どうして

      • これは『嘘解きレトリック』の感想ではない

        新しく始まったドラマ『嘘解きレトリック』がちょっと面白そうだったので録画しておいた1話目を再生したところ、松本穂香演じる主人公が「人の嘘を判別できる」という超自然的な能力を持つという設定から、なんとなく「嘘つきクレタ人のパラドックス」のことが連想され、さらにはこのパラドックスの問題点まで頭に浮かんでしまった。 ぼくの中の「嘘つきクレタ人のパラドックス」に関する記憶は古い。多くの人が幼少の頃、絵本代わりに家においてある図鑑などのページをめくっていた思い出があるのではないかと思

        • カット31・哲学と思想の違いについて

          何々? 哲学と思想ってどう違うの? だって? まーたややこしいこと考えてんだね、アナタは。 そんなことがアナタの人生と何の関わりがあるのかの方が、 ワタクシは気になるね。 でも、まあ確かに「哲学」と「思想」っていう言葉はおんなじようなところでおんなじような登場の仕方をする上に、おんなじようなものを指してるような感じまでするから、煩わしいったらありゃしないって感じにもなるのは、よーくわかりますよ。 似たような意味合いの言葉が現役で複数使用されてしまうのは大問題だ、と

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        セカイ系が好きなんだったら「傘がない」も好きでしょ?アンケート

          たまには批判的な文章でも書いてみるか!パート2

          おすすめの通知が届いたnoteの記事を読む。 なにやらAIと意識について量子力学的な観点から長々と書いてある。 朗読の練習にいいかもしれないと思い、文意の把握は一旦脇に置いてとにかく文章を発音していく。 いわんとすることはわかるところもあったり、よくわからないところもあったり。 途中からイラストを用いた図による説明や他記事へのリンクが差し込まれてきて、いやはや面倒くさい。 あまりに長い上に「高卒の俺でもわかりきってることを長々と書いてんじゃねえよ」といった内容である

          たまには批判的な文章でも書いてみるか!パート2

          たまには批判的な文章でも書いてみるか!パート1

          YouTubeで気分良く音楽を聴いていたら広告が入ってきた。 内容はこうだ。 具合が悪くなった幼い娘をシングルマザーの母親が病院に連れて行こうとするのだが、 「病院に行くお金がない‥‥‥どうしよう」 と悩み始め、とりあえず今日のパートは休もうと仕事先に電話をかける。 電話にでた上司は、 「シングルマザーで大変なのはわかりますけど、前も休んだじゃないですか。いい加減にしてくださいよ。人が足りてなくて困ってるんですから」 と、あきらかに怪訝そうな口調で渋りだす。

          たまには批判的な文章でも書いてみるか!パート1

          哲学的ゾンビは何が悲しかったのか

           ぼくは再三にわたって〈哲学的ゾンビ〉について考えてきた。意識とは何か。他者とは何か。メディアとは何か。様々な観点に立って、この答えの出ない泥沼のような問題に思いを巡らせてきた。  問題が泥沼化し身動きが取れなくなった時は、一度原点に立ち返り、そもそもそれは何が問題だったのかを思い出す必要がある。  一定の期間を経て、あらためて自分が初めて〈哲学的ゾンビ〉(あるいは〈独我論〉)を知識や思考実験ではなく、実感を伴った一つの経験として味わった時のことを思い出してみよう。 ─

          哲学的ゾンビは何が悲しかったのか

          ビューティフル・ドリーマー読解2

           以前書いた記事『ビューティフル・ドリーマー読解』 の中で、この作品には未だ汲み尽くされない解釈可能性が含まれていると記した。今回はその一端を「哲学的ゾンビ」の議論と繋げて解釈してみようと思う。  ◯    ◯    ◯    ◯  ぼくは一度、『哲学的ゾンビとゲーム画面の共有』 という記事の中で「哲学的ゾンビ」について考察している。その中では「ゲーム画面の共有」を通じた「哲学的ゾンビ」の回避方法の模索が語られる。  「哲学的ゾンビ」は主に〈他人の自我(他我)はある

          ビューティフル・ドリーマー読解2

          政治、あるいは投票行動について

           もちろんぼくだって「戦争を知らない子どもたち」の一人でしかなかったわけで、二十歳を超えた途端「ほら、あんたも投票行きなさいよ」といきなり言われても「政治とか選挙のことなんて考えたことも教わったこともないんだけど」って感じだった点はみんなと一緒だったんですよ。  根本的には今だって似たような感覚。  でも、ぼくが選挙権を与えられた時期っていうのは、自民党と民主党の対立っていうのがわかりやすくメディアで報道されていた頃で、その当時友だちと唯一交わした意見交換っていうのは「細

          政治、あるいは投票行動について

          物理学的世界観との出会いと別れ

           先日、たまたま見つけたブックオフで個人的に懐かしい本と再会した。  定価税込で500円ポッキリ。買い物のついでにワンコインで気軽に買える、いわゆる「コンビニ本」というやつだ。  とある理由でぼくはこの本を手放していたのだが、最近よく思い出すことがあり、あらためてその内容を確かめたいと思っていた。今まで古本屋でこの本を見かけたことがなかったのにもかかわらず、このタイミングで遭遇するとは何事か。アポーツだろうか。  いつのことだったか、ぼくはこの本を読んで初めて「量子論」

          物理学的世界観との出会いと別れ

          未知は救いか?

           自分の人生がもはや不完全なものにしかなり得ないことに確信を持ち始めた頃、ただただ時間をやり過ごすためのコンテンツ消費とは別に、救いの手がかりを求めて何冊かの書物に目を通すことにしたが、その選び方はヤケクソでも行き当たりばったりでもなかった。宗教、哲学、思想といったジャンルを意識する以前の話である。  近所の小さな古本屋で、まず目に止まったのがボロボロになったちくま学芸文庫のアーレント『人間の条件』とボードリヤール『象徴交換と死』、そしてサルトル『存在と無』である。かろうじ

          未知は救いか?

          人間はどのような真理を期待しているのか

           何者かが自らのレゾンデートルを神に問いただしている様子を、人間であるあなたが眺めている場面を想像してみよう。  人間であるあなたは、その何者かの発する問いかけに共感を抱くと同時に、神がどんな応答を見せてくれるかを心待ちにしている。  しかし人間は、対話の当事者になると同時に傍観者にもなっていて、 「しかしわれわれは、神がどう答えたら満足で、どう答えたら不満を抱くというのだろう。そもそも何を期待してこんなことしているのか」 などという、ある意味では呑気だが、ある意味で

          人間はどのような真理を期待しているのか

          哲学において「考えすぎない」をどう扱うか

           哲学を一義的に定めるとすれば、「考える」という動作そのものに回帰する。それはちょうどデカルトが「我思う故に我あり」という洞察に至った地点を思い返せば当然の成り行きであると思われる。  しかし、「考える」ことの実践を積み上げてきた哲学の歴史を振り返れば、そこにあるのは「〇〇は考えなくていい」というかたちの、「考えない」を適用する対象を何に当てはめるかの提案で埋め尽くされている。  幾多の哲学者たちにとって、飽きるほど耳にした最も言われ慣れた言葉は「考えすぎだよ、きみは」だ

          哲学において「考えすぎない」をどう扱うか

          人間の耳、動物の耳──続・音楽を考える

           以前書いた記事「音楽を考える──デカルトの音楽理論」の中で、デカルトと「倍音」について書いた。  それ以来あらためて、なんで「可聴域を超えた倍音」なんてものを気にかけなければならないのかと考える日々を過ごしていた。  そこで問われている「可聴域」という概念は、当然のことながら「人間の可聴域」を指している。人間の知覚能力には限界があり、そこに収まらない領域で起こっている現象については、原理上ひとによって見解が様々に分かれてしまうこともあり、「形而上学」という言葉もある通り

          人間の耳、動物の耳──続・音楽を考える

          哲学的ゾンビとゲーム画面の共有

           今回ぼくが言おうとしていることは、場合によっては抽象的すぎる話になるかもしれない。それはなぜかというと、具体的なシチュエーションから体験した感覚と、頭の中でぐるぐる考えるほかない形而上的な思弁との接着点をできるだけクリアに言語化しようと思うからだ。そんなの当たり前じゃないかという話ではあるが、今回は特に言語化がむずかしい。  感じたことを言葉にする。例えば、花を見て「きれいだな」と感じる。そういうときは「きれいだな、と感じた」と書けばいい。物足りなければ、そこに至る状況的

          哲学的ゾンビとゲーム画面の共有

          「不協和音の解放」という概念について──シェーンベルクの音楽理論

           相手の好きなジャンルが何であれ、今どき「ロックって何ですか?」という質問をするひともいないだろう。趣味といえば音楽鑑賞ぐらいしか思いつかないぼくにしたって、日々いかにその質問だけはされないように注意して振る舞うかに頭をいっぱいにして生活している。だが、疑問の持ち方としては正当性を欠いているとは言えない。  また、言葉にして質問を投げかけずとも、ある音響への対応や態度から、自ずと「ロックであること」の輪郭が浮かび上がってくることもある。すなわち、「不協和音」というものに対し

          「不協和音の解放」という概念について──シェーンベルクの音楽理論