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主婦への抵抗。 違和感が導いてくれた答え。



お手上げします


コロナをきっかけに自分自身を見直す・見直さざるをえない状況になった人は少なくないのではと思うけれど、もれなく私もそうだった。

2020年上旬から仕事もバタバタキャンセル、家族3人骨折やら捻挫やら、強制終了のような出来事やハプニングが相次ぎ、肉体が制限されると精神が剥き出しになるというか、モヤモヤザワザワ苦しさ辛さ、、あらゆる大波が押し寄せた。

子どもがまるで鏡写しのように、私の奥深いところにあった恐れや闇の部分をまざまざと見せてくれたりもした。
そこを真正面から見つめていくプロセスはキツくてキツくて、今までの "頑張って乗り越える" という力技が通用するレベルではなく自分のコントロールを超えている、と降参するに至った。

降参したらもうあとは力を抜くしかなく、完全に身を委ね、「この現象はなにか軌道修正しようとしてくれているんだな」と自分の内側に深く入り始めた。そこから、それまでの思いこみや固定観念の破壊・手放しやゆるし・癒しや解放のプロセスが自然と始まった。

2019年夏に書いた前回の記事でも既にその兆候は現れ始めていたけれど、それは"ジャブ"といった感じで、2020年は、いよいよいくよー!と"本番"がきたみたいな、思い返すとそんなプロセスだったなとも感じる。


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そして今年に入り。
あれ?なんかモヤモヤザワザワする。。
うーん、、今度はなんだろう、、、
今、きっとズレているんだな、
自分の魂と行動が。
とすぐに感じ、より繊細に丁寧に調律していくことに決めた。

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怖いけれど心が動かされる方へ


昨年は、上記したような自身の体験がきっかけで、『本来の自分に戻る』というオンラインセミナーの企画協力にお声がけ頂いたりと、仕事の幅もまたググっと拡がった一年だった。
それに関わらせて頂きながら、こういった目に見えないものを伝えたり関わっていくこと好きだな〜、と改めて認識できた一年でもあった。
そしてそのプログラムが終わり、さぁ自分でまた新しい仕事をしていこうかなと昨年終わり頃から頭の中で考えていた、

が、

同時に昨年は、プライベートでは9月に次女も小学校に入学し、10月には犬2匹を迎え、生活もまた大きく変化していた。

夕方まで預けて仕事をしていた保育園時代より、費やす時間が子ども達、学校に関わること、そして新しく家族に加わった犬、家事をすることなどにグッと比重が傾き、
久しぶりに会う人に
「最近仕事何してるの?」と聞かれると
「すっかり主婦してるよ〜」
と答えている自分に、
あ、私やりたいこと変わってきてるな、とうっすら感じてはいた。

でも、今は気持ちがそっちにあることには気づいている一方で、

何か仕事をしよう・何かを発信しよう、としている癖が発動している自分にも気づいて、葛藤し始めた。
執着ともいえるような。

あーこのモヤモヤはそれだ、、。

魂の声をど真ん中でキャッチしたような音がする。

この音は"気づき"。
それはこれまでの経験上確信している。
ここからまた新しい流れが始まることも、
この音に気づいた後どうすればいいのかも。

だから今回も気づいた後は特に何もせず、リラックスすることを心がけた。
解決しようと頭で無理くり考えたりジタバタするほど、波にのまれる。
Flowに委ねている方がスムーズに進むことを2年前に体感したので、やることといえば、
モヤモヤや重さとも共存しながら、
自分が心地良いと感じることをしながらなるべくゆるみ、
100%この流れとタイミングを信頼し、
"更なる気づきや直感を全開で受け取れる状態"でいるだけだった。


そしたらある日フッと、

「あ、私、"主婦だけ"になるのがこわいんだな」

と気づいた。

あー、そうかー、
何かを失うような、そして未知な感じがこわいんだ。
だから今までのやり方を知っている自我がバタバタもがく。

でもここは気づきをさっさと認め、
またflowに乗る。
チカラを抜いてゆらゆらと体を波に委ね、見えるプロセスを全て味わおう。

ゆらゆら、

ゆらゆら、、

しばらくすると、暗闇の中に何かが見えてきた。


芋づる式に見えてくる抵抗の原因


最初に見えてきたのは、

「無価値感」

ぐぁっっ。
しょっぱなからパンチをくらったかのようにクラクラする。
主婦の仕事・母ってものすごくすごいと頭ではわかっているのに、
リスペクトしてるのに、、!

でも、20年以上家庭の外で仕事をしてきて、多かれ少なかれ収入を得ること・社会との繋がりを感じられること・何かを評価してもらうことに慣れてきていたためか、直接収入を得ない・つまり無償労働として捉えられている主婦だけでいることが未知で、そこにこわさを感じていたかもしれない。。

うすうすわかっていたことではあるけれど、、。

ボーッとしながらそのままゆらゆらしていると、
あっちの方にも何か見えるし、向こう側にも何か見えてきた。
まだ根深いものが色々ありそうだ。

それらを遠方に確認しながら、この揺らぎのプロセスの段階では、より自分の感覚に集中してそれを信頼したいと思った。
他の人たちを見ると、「私何もしていない」という焦りや揺れが出てきたり、そちらの波にもっていかれやすいのはわかっていた。
とにかく今まで以上に、自分の源と繋がって、微細な感覚の動きや気づきを丁寧に見つめたかった。

その時から、SNSのアイコンをスクリーンからいったん消した。


受け取ること、与えること


しばらくすると、向こう側に見えていたものがはっきり見えてきた。

「罪悪感」「責任感」
そこに付随してくる心配、不安。

あーー、、これ根強いな私。

たとえば長女の私は幼少期、
「おねえちゃんだからしっかりしなきゃ」と勝手に感じていたことも多かった。
それもあってか、必要以上に色々と背負いすぎてしまう癖が強かった。

そしてこの癖は、母親になってからまた強く出てきた気がする。

2020年のドン底期に、そのインナーチャイルドをたくさん見つめ、癒してきたけれど、
何十年と細胞にしみついてきた根強い癖は、そんなに簡単に昇華するわけではなく。
何度も現れてはまた気づき、また寄り添う。
三歩進んで二歩下がるような感じ。
でも、確実に一歩ずつ進んでいるのは確か。

そして今回出てくる感情を見つめていると、
これからの教育費やらなんやらに加えて、犬2匹にも色々かかるのに、夫にだけ負担をかけさせていいのか、、申し訳ない、、
なのに私だけ好きなことをしたり家でリラックスしていていいんだろうか、、という、直接”お金”を生み出していないことへの罪悪感、、

そういった罪悪感、責任感、まだ起きていない未来への心配、不安が膿のように出てくる出てくる。

そしてそのまま感情の波を眺めていると
またど真ん中の”音”が聞こえた。

私がなんとかしなければ という意識が潜在意識に根付いている限り
私がなんとかしなければ    という現象が目の前に現れ続ける
その現象を創り出していたのは自分だったか
と、気づく。。

今この瞬間それは「ない」のに、あたかも「ある」ように創りあげてしまい、それが現実にあらわれる。。

潜在意識さん、あなたってなんてクリエイティブ、、

と気づいたらまた、
今この瞬間「ある」ものに意識を向ける。
"今この瞬間" 自分が心地良いと感じること・リラックスできることをする。
内なる安心と感謝の感覚が、外に同じ現象を創る。

ここはもっと思いきり、心の奥底で今自分が望む方向におもいきり舵を向けて進んでみよう。
その方向は今までとはまた違った領域で未知だから、ちょっとこわく感じるけれど。


外の仕事をいったん忘れて、暮らし・生活に集中し、深く味わってみた。
今までなかなか参加できなかった子ども達の学校の集まりやPTAのようなものにも参加し始めた。
ずっと気になっていた、ゆるむ・解放を促す体全体を使ったワークのようなものにも参加した。
しばらくすると、それらがちょうどいい塩梅で化学反応を起こし始め、そして、見ようとしなければ見過ごしそうなぐらいの、今まで感じなかった本当に些細で小さなことに気づき始めた。


掃除をしながら、
「こうやって家の空間を浄化してるんだな〜、掃除一つとっても暮らしのしごとって神事みたいだ」
という感覚を肌感覚で味わったり、

ずっと好きな発酵食品作り・ずっと惹かれていた野草の手仕事をしながら、「サプライチェーンがもし断たれたとしてもなんとかやっていけそう」
と、ある意味肝が据わってきたり。

学校後の公園遊びで他のお母さん達と井戸端会議をしながら、
肩書きや何者かなどある意味なんの役にも立たないこの横の繋がりの中で、いろんなことを喋りながら情報交換をしたり、発散したりして、同時に子ども達を見守り、安心も育んでいるんだな
と、しみじみ感じたりもした。

PTAのようなことだって、やってみると色々と細かい調整や作業がたくさんあって、彼らが見えないところで支えてくださってたんだなと心の底から感謝の気持ちが湧いた。
バリバリ仕事をしていた頃は、「そんなことをやっている暇はない」と思っていたけれど、”暇だからすること”と無意識にもジャッジしていた昔の自分が恥ずかしいったらおこがましいったら。何事も、やってみないとわからない。


ふと気づくと、時間がゆったり流れるようになっていた。

そんな生活を続けていると、
柔らかくて、でもどしっと構えていて力強くて、母性が溢れているような女性が目の前に次々と現れ始めた。
私がここ数年無意識に目で追っていたような、惹かれる女性たち。
昔から知っている人、新しく出会う人たちも。
そういう人たちと引き合うようになっているのを俯瞰して見て、私の内側はやっぱり新しく変化しているんだなと感じた。
彼女達といるとホッとし、心地良い幸せを感じながら、今進んでいる道は合ってるよ、と再確認もできた。


ランチをしながら、それまでの葛藤や戸惑いを正直に彼女達に話す。
そうすると、

「母親ってさ、ずっと命を育む、っていう尊い仕事をしてるのよね。それだけでもうすごいのよ」

と、ある友人から優しい笑みと共に返された。
なんだか涙が出そうになった。

そっか、母がリラックスして太陽のようにそこにいるだけで、周りを照らしているんだ。
彼女の包み込むような優しい音色と共に、その言葉がスーッと入ってきた。
何も成し遂げなくてよくて、ただ存在しているだけで唯一無二の価値があるんだ。

頭ではわかっているのに、つい何かをしなきゃ、何かを成し遂げなきゃという癖がでる。
でもその癖が、これまでのかけがえのない体験をさせてもくれた。
そう思ったら、今までの全ての体験にも感謝の気持ちでいっぱいになった。

もう必要のないものを手放すようで、それらを感謝の眼差しで見つめた途端、それらがこれからの自分を支えてくれる。


ランチの後、それぞれが作った季節の手仕事の物々交換をする。
なんだか懐かしいような、あたたかい感覚を思い出し始める。
そういえば長野のおばあちゃんもこうやって友人達と繋がっていたなぁ、と。
こんな風に集い、四方山話をしながら手を動かし、帰る頃には家族の命を育むものを生み出してしまう。
それに、家族が過ごす空間や暮らしのフローをなるべく淀みなく巡らせるよう、日々細かいことに対応していた。

大切な人たちを守りながら、生活を回していくこと・本当に細かい作業の繰り返しの連続の中で毎日を紡いでいくこと・いのちを育む、暮らしを育むって、実はすっごく大変ですっごく尊いことをしているんだなと、今まで感じたことのないような畏敬の念がハートの奥深くに生まれているのを感じた。
目に見えないこと・表には見えにくいことばかりだけれど、自分自身がその素晴らしさに気づいた時、他からの評価は必要なくなっていた。

と、しみじみいろんなことを味わっている頃には、
罪悪感や心配不安もスーッと薄らいでいるの感じた。
そして自然と、仕事やお金という概念が私の中で変わっていた。

お金という目に見えるもの・一方で目に見えないもの。どちらもエネルギー。
形は違えど、夫婦互いに同じ"愛"を与え合い、そして受け取り合い、巡っているんだ。
個でありひとつのような感覚になった。

そうしたら、遠慮してつい後ろに回しがちだった両手を自然と前に出し始めていた。

ふと夫を見ると、なんだか嬉しそうである。
そして、仕事がだんだんと軌道にのり始め、今まで以上に集中してバリバリ仕事をしている。

そして私がどしっと構え、ゆるんでニコニコありがとう嬉しいと受け取っているだけで、リラックスしてそこにいるだけで、それで安心しているし満足そうなのだ。

疲れて大変そうな時もあるけど、私がそれを背負わなくていいと思えるようになっていた。向こうもそれを望んでいない。
望んでいるのは、緊張状態が続く狩りの後はただ癒されたい、包まれたい、それだけだった。だから私は自分を整えながら、なるべくゆるんでいていい。


そんな風に意識が変化した頃、「家族と暮らしを守ってくれてありがとう」と言われ、
あ、そうか、私も与えていたんだ、とまた気づく。


そしてしばらくすると不思議なことに、
その両手の中にいろんな方向からポン、ポンと新しい出会いや豊かさが入ってくるようになった。
夫を通してだったり、え?そんなところから?というようなものだったり、人智を超えたところで、外側のいろいろな歯車もスムーズに循環し始めた。
夫婦の新しいダンスも、より滑らかに調和し始めたのを感じながら、この滑らかなフローを滞らせていたのは、私の”恐れ”や”抵抗”だったのかもな、とも感じた。

本当はものすごくシンプルなはずなのに、
潜在意識の奥深くに滞りがあると、受け取ること・与えることの循環が滞る。

それをまた改めて気づかせてもらったプロセスだった。


その循環がスムーズになってきた頃、
5月に家族全員で体調を崩した。まるで仕上げのデトックスかのように。
すぐに元気な子ども達はお腹すいたー!と無邪気に声を合わせている。こちらはひたすら寝ていたいのに、、。
そしたら、例の彼女達が、愛情いっぱいの数日分の手作りご飯や食べやすいテイクアウトの料理を、手紙と共にそっと玄関外に届けに来てくれた。
その美味しさとあたたかさがしみて思わず涙が出た。

本当にありがとうと感謝の気持ちを伝えると、

「私たちさ、支え合って生きていこ、お互いさまだから」

その明るくサラッと発せられた言葉に、"自立"と"依存"という言葉も、涙と共になんだかボヤけてきた。

そしてハッと腑に落ちたことがあった。


根底にある反発心


この受け取り下手の根底に眠っていたもの

男性に対する「対抗心」

オェ、、、

この膿、この自分のものだけではない古傷のような膿を見ていると、悲しみに満たされているのを感じた。

経済的にも精神的にも自立する生き方はとても素敵だと思う。
ただ、私自身がそうであったように、女も自立するようにと育ててもらいながらも、男になめられないように、というような無意識が奥の奥の深いところに居座ったままだとキツいなと感じた。
だからか「男性の庇護のもと」なんて言葉に昔は妙に反応してしまったりしていた。

私には弟がいて、両親は私たち二人を一生懸命両親育ててくれたけれど、男親は娘には特に甘いのか、それを感じていた母は「りえには甘い」とよく言っていた。
母の時代は、フェミニズムや”女性も社会で活躍する”という概念がどんどん出るようになってきた頃。母自身もその中で戦いながら仕事をしていたこともあって、今となっては母なりに私を守ろうとする愛であったのかもしれない。またはもしかしたら「私はこんなに頑張っているのに」と悲しみからくる嫉妬のようなものだったのかもしれないし本当は甘えたかったのかも頼りたかったのかもしれない。いずれにしても、今は感謝と労いのような気持ちのみ。

が、その当時の若くて幼い私はそんな風にうけとめられるわけがなく、その嫉妬のようなものを勝手に感じ勝手に傷ついたり、「受け取ったらダメなのかな」と遠慮しがちになっていた。だから自分でがんばる。がんばれば認められる。それが特に”男性から受け取る"ことに罪悪感や抵抗を感じやすくなっていた根源なのか。

2年前からわかってはいたけど、根深いところを、今回はダイレクトに夫という男性を通して鏡写しのように見せてくれた。
そろそろリハビリしていきましょうか、と。


リハビリを始める。
ゆっくりゆっくり、行ったり来たりしながら。
少しずつ、「ありがとう」と素直に受け取り喜びを表現することは、夫にとっての喜びでエネルギーの源だったことがわかってきた。 
私がただそう在るだけで、私は既に与えていて、そこに循環が生まれていた。
そもそも男女の体の構造もそうなっているもんな。。
私はもしかしたら長い間、彼の男性性を潰していたのかも、、?


でも受け取るだけなんて、能力がないようにも感じてしまっていた。
そもそもそれは、「いのちを育む・暮らしを育む」という表にはなかなか見えない尊い仕事に対して、自分自身が意識の根底から価値を見出していなかった・評価していなかったことも大きな要因だったのだけれど。
外で仕事をしていようとしていまいと、そこに細胞レベルで気づくために、今回のこのプロセスを辿る必要があったんだなとわかった。

それもまた気づき。


内は外


そんなことを感じていると、
女性が男性や男性社会に感じる反発心の元、過小評価されてきた歴史、男性が本来の女性の能力を恐れ抑圧してきた歴史などについても、様々な人や本などを通してポンポン目の前に現れるようになってきた。
そういったものを見つめていたら、国境をも超えて何世代にも、もっともっと過去からにわたる怒りの奥の悲しみのような、トラウマのような集合意識・無意識を感じるようになった。そして私もそのエネルギーを受け継いでいるんだなと感じた。

そんな目に見えないものに寄り添い、共感しているうちに、今まで戦ってきた女性達に感謝と労りの気持ちが生まれた。
と同時に、これからは戦い続けるのではなく、私も受け継いでいるであろうその深い悲しみの傷は、自分の今世で癒したいと思った。カルマを断ち切る。

全ての目に見えるものは、見えない意識から創られているのだから、
内なる反発は、結局外側にもいろんな形で戦いや分断を生み繰り返す。

目に見えない潜在意識さんはめちゃくちゃクリエイティブなのだ。。


目を閉じて深い呼吸と共に自分の源と繋がる。
しばらくすると、まだ残っていた最後の武装を脱ぎ捨てながら、ずっと上ってきた山を下山するヴィジョンが見えてきた。
裸のようにより身軽になり、重さから解放された解放感を味わいながら、感覚が母なる大地に行き着いた時、大きな大きな母親の偉大な愛に優しく抱きしめられているように感じた。
フワーッと心と体が緩んで、安心に包まれる。
あたたかい子宮の中に優しく包まれているような感覚になった。

その瞬間、本来の女性性のパワーがマグマのように下から突き上げてきて、体全体で思い出していった。

ジャッジせず全てを優しい眼差しで見守る慈悲の心、支える力強さ、自己犠牲ではない献身性、いのちを育む喜び、柔らかさ、おおらかさ、目に見えないものと繋がれる繊細さと野生的な大胆さ、、

その感覚を体全体で感じながら、同時に体がゆるみ、心もゆるんでいく。
"対抗心""反発心"”競争心”、それに付随する私だけのものではない深い悲しみの傷も、その大きな愛に優しく包まれ、つーと頬をつたう涙と共にいつのまにかスッと消えていた。

抵抗を見つめ癒された先は


モヤモヤを感じ始めてから3ヶ月程経った頃、
ようやく軽く、楽に巡り始めてきているのを感じた。
そして3ヶ月ぶりに、SNSのアイコンをスクリーン上に戻した。

今回のプロセスで見えた抵抗していたもの。
その境目が溶け合うように一体となって、私の世界はより拡がった。
抵抗していたものを手放しているようで、実は包括しているんだともわかった。
木の年輪が重なっていくように、今までの自分も優しく抱きしめながら、より力強く立っている。

そしてそういった体験をすればするほど、全てが大切なプロセスで、全てはプロセスでしかないと確信する。
目の前にある現象自体をどう捉えるかは自分の内側次第で、何にどう自分が反応しているか、自分の内に湧いてくるものに意識を向けることで、今の自分の課題や癒すポイントがわかる気がする。

抵抗・反発・否定・欠乏感、、。
今回私の場合は主婦を通してだったが、
もしそういったものが生じてきたら、ただ優しく見つめて寄り添えば、次第に向こうから気づきを見せてくれることも改めて体験した。
その気づきこそが自分の肥やし・魂の成長となることも。

反対に、なんとかその感情を消そうと抗えば、その感情は、手を変え品を変えシーンを変え何度も「ちゃんと見てよ」とやってくるし、
感情に寄り添わず解決しようと力ずくでコントロールしようとすれば、無意識のうちに自分も誰かを力ずくでコントロールしようとしていたり、誰かにされるという現象が起きたりすることもある。

内は外、外は内。

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そして今月に入り。
自分に定期的にしている問いを改めてしてみた。

「今、私は何をしたい?」

湧き上がってきた中の一つに、久しぶりに書いて表現したくなっている自分に気づいた。
私にとって、フワフワと無限大に拡がる感覚的なものを、限定された言葉に落とし込んで表現することも、純粋に楽しくて大きな喜びの一つ。

だからまた一つ、自分の純粋に好きなことを自分で叶えてあげよう。
その連続のプロセスの中で、きっと新しい何かがまた生み出されていくはず。循環されていくはず。

というわけで、noteを3年ぶりに再開。

これからも、表現したいと湧き上がってきた時に、表現したい場所で、書いて、話して、分かち合っていこうと思う。

今までも、これからも、
カラフルな人生を生かしてもらっていることに、感謝の気持ちを込めて。

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Rie
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