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ことばの世界へ入国できたよ【 KOTOBA Slam Japan 松戸大会 2024.05.25 】



ポエトリースラムという文化に触れた
ことばの世界へ入国できた


詩の朗読パフォーマンスで勝負する
コトバスラムジャパン(松戸大会)に出場しました

音楽でもない、テキストの詩や文章でもない
" ことばの生パフォーマンス "

心の底から楽しかった。


私がやりたいことはこれだ!私の言葉や作品を今まで以上に咲かせるやりかたはこれだ!と気づくことができた。

こんなにも贅沢な場に居られたことは初めてだったかもしれない。かもしれないと表現するのは、あのときもそうだ、あのときもだ、と、思い出す日が他にもありそうなくらい、私は豊かな感情で様々なものに触れているから。すぐに思い出せなくても私の記憶を否定しないために。とかね、回りくどいことを言う私の癖を私は嫌いだけれど、私自身のことまでは嫌いになりたくないなと思う。そう強く思える一日だった。

ほかの出場者の方々は、日頃から朗読詩人をしていたり、即興詩が得意だったり、松戸はヒップホップの文化が強いからこそラッパーがいたり、それぞれで活躍されている方ばかり。それぞれの人生を少しだけ覗けたような時間だった。全員がことばを紡ぐひとたちだから、どの作品もひとつ残らず振り返って書きおこしたいくらいに好き。いくつもの三分間に、好きなフレーズがたくさんある。本当に贅沢だな。

私は一回戦できちんと負けた。綺麗事のようだけれど、負かせてくれた相手が鈴で良かった。初対面で友達になった。そのままバトルをした。対戦カードで7を引けたことが思い出。鈴のアンサーに脱帽をしたのはこちらなのに、愛が強めのテキーラをその場で奢ってくれた。最強すぎる。スラムブロックで優勝して決勝まで進んだ彼女の、ことばのすべてがタイプだった。彼女が手に持つスマートフォンに保存されていることばたちを、全て見てみたいと思った。超好き。たくさんハグをした。まだ覚えているよ。汗臭くてごめんね。私はアンサーで何も良いことが言えなくて、真っ白で、ダサかったけれど、彼女が私に向けて贈ってくれたように私も愛を叫びたかった。私たちは何も間違っていないよねって叫びたかった。殻を破りきれなかったことが心残りではある。でも、それすらを後悔と呼ぶ隙もないくらいに、この文化にずぶずぶと足を踏み込めた。

誰もが誰のことも否定しない空気が大好きだと感じた。個々に違うやり方で違う種類のパフォーマンスをするのに、個と個が人間としても、言葉と言葉としても、喧嘩にならない。こんなにも(良い意味で)滅茶苦茶に混ざり合う場なのに、空気が綺麗すぎて意味がわからなかった。大好きだ。

人前で自作の詩を朗読すること、パフォーマンスをすることは、完全に初めてだった。それなのに、「良い作品だ」「慣れている感じがする」「形になっている」と色んなひとに言ってもらえた。(とても失礼だけれど、場違いみたいな私に対して情けで言ってくれているのかとも最初は思ってしまった。表に出ることへの自信のなさ故に。本当に失礼。作品には自信があったけれど、私が表に出ることは未知の経験だったからびびり散らかしていた。)わざわざ私に声をかけてくれて、どう良かったかとか、好みの作品だとか、披露できる場所や機会を他にも教えてくれたり、ポエトリーの楽しさを次々に伝えてもらえた。(みんな純粋にことばが好きで、沼を自然と紹介する流れが上手い、すごい。)主催や代表の方にも、丁寧に丁寧に良い言葉をたくさんいただいた。幸せだと思えた。

爆発的な成長を重ねた先で、この日のことを一緒に振り返ってエモくなりたい。今までにもそういう場面がたくさんあったらしいから、いつかは私の番にしたい。絶対に。

ことばに敬意をもって紡ぐひとたちの集まりだから、何気ない会話の中でも、次々と言葉が出てくることを尊敬した。私は、にこにこするのは上手くても、会話が下手くそだったと思う。自己肯定感も低く、したくもないのに自虐ばかり。そういうところだよ、と思う。そのダサさを祓えたら、言葉ももっと良いものになる気がする。

だから、語彙不足は人生量だとしても、私が今現在のちからで紡げることばたちに、最大限の私らしさを出し続けるために、紡げるはずのものを私のために百パーセントでかたちにして納得してしあわせで在るために、そんな、なりたい姿の「ことばの人間」であるために、"生活"をしたい。

厄介な病を抱えているから、気持ちの問題ではなくともこれからも何度も何度も空回りをするだろうし、生きたいと思えてしまえば思えてしまうほど、病に侵されるたびに苦しさを今までの何倍もの大きさで受けることになるけれど、それをわかっているうえで、生きていたいなと思えるときはなるべく「生きていたい」と言いたい。自分のなかに、ちゃんとに自覚したい。怖すぎるけれど。だって今年の年明けくらいまで死んでいたし。それはそれは酷かったし。そのことだって忘れたくないし。それでも。

頑張らずに生活をして、頑張ってことばを吐き続けたい。いつ死んでも、記憶でも音でも雰囲気や匂いでもなく、ことばだけは残る。いつか私の個体がなくなっても、ことばだけは息が止まらないだろうことに期待をして、生きているうちは大事にしまっておく中指を、死んでから真っ直ぐに立てられるように、今のうちに紡ぎ吐き続けたい。というか、別にそれが目的ではないけれど、そうなるだろうから辞めたくないなと思っている。

私は何者だろう。詩も書く、短歌も詠む、どちらも特に評価されているわけではないけれど、どちらも好きでやっている。と言いつつ、承認欲求の塊だから、"顔面に「承認欲求」と太字で書いてあるのに情けないから鼻マスクをしてチラ見させながら恥ずかしそうに歩くような人間"だ。どうせなら大声で、「いいねって言って!」「どこがダメなの!」と言いながらまちを歩くくらいの覚悟を持てよと思う。やっぱり総合的に、ダサい。でもやっぱり、嫌いではない。彩結ゆあって可愛いし良い名前すぎる。

詩を書いて、短歌を詠んで、でも文学だけでは表現しきれなくて、生きている生活を見せびらかしては、等身大のまま、"彩結ゆあ"という作品を公開中の人間だ。と言えば収まるかと思いきや、単純に、言葉を武器にした表現者になるための技術がなにひとつないから「見て見て」としつこいだけだ。圧倒的に最低最悪な人生を送っているのに、ことばが追いついていないからうまく作品にならなくて可哀想。これもまた自虐だけれど、でも逆を言えば、最低最悪な人生を誰よりも誇っている。だからどうにか、彩結ゆあを今よりも彩結ゆあにして、生かしてあげたい。希望がありふれている。(何も間違っていないよ。)

憧れの詩人も憧れのラッパーもいない。(好きはいるけれど、憧れではない。)誰かに影響を受けて始めたわけではない。上手くなったことは一度もないのに、ずっとことばが好きだ。

文字で詩を書いて、名前が添えられているだけのテキストでは、私のことばはあまり生き生きしないのかもしれない。決して否定的な意味ではない。私の詩は、そして彩結ゆあという名前は、三次元の私が全身でなぞることによって、声に出すことによって、花がひらく。そう感じることができた。それに何よりも、それが楽しいと心の底から気づいた。


頑張ろうと決めてから当日まで、力んで過ごしていたように思う。緊張もした。何に対してもなかなか頑張れない私は、今回の緊張感に興奮した。この日みたいな興奮を、何度も味わいたい。たのしい場所へなるべく飛び込んでみたい。今回、こんなにも面白いことに挑戦ができたのだから、これからがもっと楽しみ。


続けてゆく!
ポエトリーは、死ぬまで抜けたくない沼だ。


彩結ゆあが彩結ゆあとして存在できたことを忘れたくない。この名前は私からわたしへの呪い。生きるための呪い。青い蝶です。ことばの種を運びます。木更津から松戸へ行けたよ。友だちも仲間もたくさんできたよ。やれるよ。


ありがとうございました。
よろしくおねがいします。


私は朗読詩人です。人生のことばを紡ぎます。
フロム木更津!


2024年5月26日

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