見出し画像

立待月 第一話 (1/22)

居酒屋欽ちゃんを中心に、あやめとの関係を順調に育んでゆくセイ。そこに美人女子高校生の千影があらわれる。セイは千影に振り回され、やがて自分を見失ってゆく。あらゆる出来事につきまとう性欲の影。すれ違う母と娘。性風俗の取材をもとにして野心的に描いた十六夜シリーズ完結編。

一〈セイ〉

 ある年の十二月、僕は居酒屋欽ちゃんに遊びに来ていた。欽ちゃんは欽一郎さんとその奥さんのふたりでやっているお店で、はじめたのは十年前。現在の店舗に移転してからは四年が経っていた。

 金曜日以外なら客がまばらだろうという期待を込めて、木曜の今日、店に訪れた。期待以上で、客は僕ひとりだった。特に何か重大な話をするわけではないが、欽さんを独占して話すことができるのは一種のプレミアム感があった。古い引き戸からは時折隙間風が入ってきて、ぞくりとからだを冷やした。僕ひとりだったので、カウンターではなくテーブル席のほうに腰を下ろした。欽さんの奥さんが持ってきたおしぼりで、手を隅々まで拭いた。ちょっとした潔癖症であった。

「ひなちゃん急性腎炎だってツイッターに書いてありましたけど、大丈夫なんですかね」

 向かいの黒い皮製の椅子に腰掛けている欽さんに話しかけた。

 奥さんがお通しを差し出した。大根おろしになめたけをかけたものである。欽ちゃんではおなじみのお通しだった。控えめにしょうゆをたらして食べるのがポイントである。酒はグレープフルーツハイを頼んだ。絞り器で提供前に絞る本物の生絞りだ。

 ひなちゃんというのは欽ちゃんにたまに来る客で、一部の人のあいだではビッチで有名だった。本人はそのことに関してまったく気にとめていない。あけっぴろげで気持ちのよいビッチである。ひなちゃんにとって僕は完全に飲み友達であり、性的な対象にされることはなかった。もちろんこちらも同様で、ひなちゃんに女を感じたことはない。

「さんざん男を犯しまくってたから、ついに病に犯されたんだな」

 ひなちゃんに対する欽さんの言葉があまりにも的確で、瞬間的に反応して吹き出した。欽さんはつられて自分の言葉に笑っている。それでもひなちゃんへの愛情が充分にふくまれていて、いやらしさがない。この愛情の深さは欽さんの魅力である。

「まあ、死にかけたらしいからね。治療のための抗生物質でアレルギー起こして、呼吸困難になったって」

 欽さんは肘掛にあらためて肘を置き直し、さらに深く腰掛けた。僕はその椅子をCEOチェアと呼んでいた。その由来は、去年ある雑誌に居酒屋欽ちゃんの記事が載ったとき、店主として紹介された欽さんの写真が、いかにもベンチャー企業のCEOといった構えだったからである。その椅子は玉座のようなもので、欽さん以外は座ってはいけないというのが暗黙のルールだった。そんな事情を知らない人間が気軽に椅子に座ってしまうと、背中に汗をかいてはらはらした。

「それでも休ませてくれない会社って愚痴が書いてありましたね」

 僕は去年から欽ちゃんの常連になった身のわりに、欽ちゃんをとりまく事情に明るかった。あやめ――同じく欽ちゃんの常連であり、非常に仲のよい友達のような恋人のような変な女性から聞いた情報もデータベースとして蓄積されていたからだ。

「そうそう。超ブラック企業だからね。今回の病気は少なからず仕事のストレスが影響してるだろうね。まあでも、ひなの性格からしたら、深刻になるより、病気も一種のネタとして笑い飛ばしちまうくらいのほうがいいと思うよ。辞めたい辞めたいって言ってるけど、なんだかんだ言って、いまの仕事好きみたいだからさ」

 ひなちゃんはラーメン屋に勤めていて、その勤務状況はきわめて劣悪だと日頃から訴えていた。聞いているこっちがストレスで参ってしまう気さえするほどであった。

「プライベートのほうは充実してるみたいですよね。彼氏ができて。のろけ話がときどきツイッターに書かれてる。ビッチ卒業したんじゃないですかね。会社の上司と不倫したりとか、そのあたりはまだ続いてるんですかね」

 欽さんは立ち上がって冷蔵庫から自分用の缶ビールを取り出し、僕と軽く乾杯してから一口飲んだ。そろそろお酒がおいしい時刻になっていた。

「かわいらしくて魅力的な女性だとは思いますからね。誘惑は多いでしょうね」

 僕は素直に述べた。大きな心で男を受け入れてくれそうな雰囲気がある。

「そういえば、セイくんはツイッターやってないの?」

 欽さんが椅子に腰掛けてから、僕の視線に焦点を合わせて言った。

「アカウントはあります。でも確認用です。ほかの人のツイートは見ますが、自分は一切つぶやかないですね。特に世界中に対して訴えたいことなんかないですからね」

ツイッター利用者に対する多少の批判を込めて言った。ツイッターに限らず、インターネットを使うにあたっての自戒の念もあった。

「そうそう。普段あんまり意識しないけど、インターネット上に発表するってのは、世界中に発信してるってことなんだよな」

「鍵アカウントじゃない限り」

「うん。今の若い人は、インターネットが世界中に広がっていて、不特定多数に見られているって意識が薄い。インターネットの黎明期からやっていると、いまの状況に危機感を覚えることはあるよね。LINEなんか、ようするにチャットだもんね。いまの人たちは人と人が直接つながっているような気でいる」

欽さんは居酒屋をやる前にインターネット関係の会社を経営していたので、こういったことに対しての意識は高かった。

「確かにそうですね。炎上させるのは、そういう意識が低い人たちなんでしょう」

欽さんは僕の言葉を受けて、しばらく目を閉じた。何かを頭のなかで整理しているようだった。欽さんはゆっくりと目を開けて、

「あやめちゃんはツイッターやってないの?」

 と言った。言ったそばから可能性を否定しているような言いかただった。

「彼女がやったら、それこそすぐ炎上ですよ」

 ふたりは気味の悪い一体感に誘われて目を合わせて笑った。

   *   *   *

 僕は笑いながら何気なく店内の液晶テレビに目をやった。テレビは公共放送にチャンネルが合わされていて、五時のニュースが流れていた。夕暮れのなかビデオカメラの感度を無理やりに上げた荒い画質の中継映像だった。

「立てこもりの現場、近所ですね。隣街の信金だ」

 画面には信金の建物と、それを取り囲む警察および報道陣が映るのみで、これといった動きはなかった。行員が非常通報してきた内容によれば、刃物を持った男が行員と客を人質に取って、立てこもっているということだった。

「たぶん銀行強盗に入ったものの、すぐに行員に通報されて警察に囲まれちゃったんだろうね」

 欽さんが状況から推測した。

「立てこもりする人間の心理ってどんな感じなんでしょうね。もうこうなったら、おとなしく捕まったほうが身のためだと思うんですよ。ドラマだと車を用意しろとか言うのがよくあるパターンですけど、実際は車で逃げたところで、緊急配備された警察に捕まるか、警察のシステムでナンバーを追われてどこにも逃げようがないと思うんですよ」

 僕はそういって首をかしげて、手元にあったグレープフルーツハイを飲んだ。

「まあ、利口な人間のやる犯行じゃないね。実は銀行にはたいして現金は置いてないって言うし。銀行の金庫には基本書類とかしかないんだって」

 その言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、包丁を持った人間が信金の出入口から出てきた。

「あ! 誰か出てきましたよ」

 報道陣のフラッシュがいくつもたかれ、あたりが閃光に包まれた。閃光の嵐が落ち着くと、犯人の姿形がはっきりとあらわれた。犯人をいつか見たことがあるような気がしてならなかった。

「刃物持ってるな」

 よくある出刃包丁だった。インパクトとしては牛刀のほうが強いが、足がつかないように選ぶとやはり出刃になるのだろう。出刃は全国に出回りすぎていて、入手ルートの特定は困難だ。犯人は刃物をかざさず、だらりと手を下ろしている。

「Tシャツにジーンズ、犯人ずいぶん軽装ですね。余計なお世話ですけど、寒くないんですかね。黒の上着に黒のズボンなんてのが定番ですけど、おそらく黄色のTシャツにストレートジーンズですよ」

「ということは場当たり的犯行か。場当たりで強盗する奴はいないか。ていうか、女じゃないか。細くもないし、ひなちゃんみたいに丸っこくないが、男の体型じゃなさそうだ。男に仲間がいるのか?」

「ある程度、華奢な男なら女に見えるかもしれませんよ。髪はそれなりに長いですね。カメラもっと寄ってくれないですかね。あ、寄った寄った。はっきりしないですが、反対の手には棒みたいなのを持ってますね」

「――あ!」

 何かに気づいた欽さんが突発的に大声を上げた。僕は声を上げなかったが、その意味を声と同時に理解していた。彼女はこれから有名人になるだろう。良いか悪いかは別として。

「ええ、わかりました」

 僕は欽さんの驚きに、冷静な調子で返した。想定はしていなかったが、想定の範囲をこえてもいなかった。過去の行動を知っていればわかる。彼女ならやりかねない。

「あやめちゃんじゃん!」

 テレビに見入っていて気づかなかったが、いつのまにかひなちゃんが店に入ってきていた。ひなちゃんは笑いに緩んだ声を上げた。緊迫した状況に見えるはずの映像は、演劇の一部のようになってしまって、はなはだ白々しいようであった。

「どうやらそうみたい」

 僕は入ったところでテレビをみながら立ち止まっているひなちゃんのほうを振り返って言った。こっちにきて座りなよと欽さんが椅子をすすめた。

「状況がまったくつかめない」

 欽さんはずいぶん真面目そうである。実際のところ洒落にならない事態で、深刻な不安を感じているようだった。欽さんの不安はなぜかかなりの確率で現実になる。

 映像のなかのあやめは仁王立ちになって、真正面を向いて声を上げはじめた。ふたたび、おびただしい数のフラッシュがたかれた。機械的なカメラのシャッター音がテレビのスピーカーを刺激した。

「なんか言ってますよ」

 僕は他人事のようにそう発した。三人の耳と目は画面にはりついた。

「警察に告ぐ! 警察に告ぐ! 人質は全員裏口から逃がした! 犯人は便所で便器に顔突っ込んで、自分の小便におでこつけて気い失ってる! 繰り返す! 警察に告ぐ! 安全は確保された! 建物に残されているのは、武器を持たない犯人のみだ! 警察に告ぐ!」

 人質と思われる五人ほどの集団が建物の裏から姿をあらわし、警官隊のほうに駆け寄った。警官隊は人々を囲うようにして守り、つぎつぎと保護していった。ジュラルミンの盾が入り乱れて、やがて報道陣のシャッター音がスピーカーを支配した。

「どうやら、あやめが制圧したっぽいですね」

 そう言って僕はグレープフルーツハイをひとくち飲んだ。事件収束後、面倒なことになりそうだなと考えた。

「もはやコントだな」

 欽さんは缶ビールを持って、残り少なかったビールを飲みほした。うちの店に捜査に来たらなんて言おう、そんな考えが頭をぐるぐる周回していると言った。

 警察は保護された銀行の支店長の話で、すべての人質が開放されたことを確認した。仁王立ちだったあやめは刃物を地面に置いて警官隊のほうに蹴飛ばし、両手をあげて警官隊のほうに歩み寄りはじめた。ひとりの私服警官が、警官隊のジュラルミンの盾を分けて、慎重にゆっくりと出てきた。やがて、あやめと向かい合った私服警官が、あやめの上半身から下半身にかけて両手で叩くようにして、くまなくボディチェックをした。危険がないことを確認した私服警官が警官隊に号令をかけ、何人もの警官隊が建物に突入した。その瞬間、いくつものフラッシュが今まで以上の凄まじい勢いでたかれ、キセノン管の鋭い白色の光があたり一面を覆い尽くした。

 事件後、あやめは勢い込んで欽さんにそのときの模様を伝えにきた。店内には、欽さん、奥さん、ロックンロール氏、わっさんがいた。話す前から自信に満ちあふれていて、ふたたび犯人をぶちのめしたいという感情にとらわれているようだった。

「バカ犯人がドア閉めないで小便している最中、後ろから捨て身の三十二文キックを全力で放ったわけよ。それが見事成功。奇襲に混乱している犯人の後頭部を、持っていたスリコギ棒でタコ殴りにしてやった。そして犯人の手から床にすべり落ちた包丁を奪った」

 あやめが振りつきで説明した。三十二文キックは再現できないので、軽くジャンプするにとどめたが、それでもバランスを崩してその場に倒れこんだ。

「なんでスリコギ棒持ってるんだよ」

 わっさんが言って、生ビールに口をつけてからもじゃもじゃの髪の毛をかきあげた。

「どうしても長芋すって、とろろご飯が食べたかったから買った。真由子さんにポン酢で食べるとおいしいって聞いたから。そんなこと聞いたら、いてもたってもいられなかった」

 真由子さんというのは、あやめが間借りをしている家の家主さんで、おっとりとした女性だ。沙々ちゃんという物静かで可愛いらしい中学生の娘がいる。

「片手に包丁。片手にスリコギ棒。見事に犯人を料理してやったぜ。けっけっけ」

 あやめの笑いは乾いていて、顔はあからさまに得意げだった。

「ウェブ検索の急上昇ワードと、ツイッターのトレンドワードの第一位が『立てこもり女』になってるぞ」

 僕はスマートフォンの画面を見ながら言った。やはりと思った。それは想定内であったが、別段取るべき対策は考えられなかった。沈静化を待つしかないだろう。

「まるであやめちゃんが犯人のようだな」

 欽さんがテーブルに置いてあるノートパソコンを見ながら言った。立てこもり女で検索すると、いくつものツイートが上がっていた。辛辣な意見が多数見受けられる。

「ツイッターにさっそく動画が上がってますよ」

 ニュース映像と別の角度からの映像で、おそらく視聴者がスマートフォンで撮影したものをテレビ局に提供したものだと思われた。あやめの顔がニュース映像より幾分はっきりと確認できる。

「それこそ、世界中に発信されてんだな」

 ネットの仕事をしていた時代を思い出すように欽さんが言った。実際、米国NBCやCBSで放送される可能性はある。ついにあやめは世界の人になるのだ。

「あやめがツイッターをやってたら、間違いなく炎上していただろうな。事件解決をした人間として支持する人間より、批判する人間のほうが多いはずだ。非常に危険な行為をしたのだと」

 僕は普段あやめに接するときとは違い、めずらしく強い口調で言った。もしあやめの目論見が失敗して、犯人が逆上することになっていれば、死者・負傷者が出ていたかもしれないのである。今回はたまたまうまくいっただけで、通常なら一般人がでしゃばって解決できるほど甘い話ではない。

「だろうね。警察にもずいぶん絞られた」

 あやめは重い罪を責められている者のように首をすくめて言った。

「これさ、あやめちゃんの身元特定合戦みたいにならない?」

 まさにそのとき僕が思っていたことを欽さんが口にした。いちばん気がかりで面倒なのはこれなのだ。あやめが一軒家に住んでいれば問題ない、こともないが、少なくとも他人に迷惑をかける範囲は広くない。しかし、いまは間借りの身なのである。

「絶対なる」

 テーブル席に腰掛けていたひなちゃんが自信を持って言った。手には電子タバコがはさまれていた。彼女は最近禁煙に成功したそうで、いまはニコチンフリーのフレーバーを楽しんでいる。近いうちに電子タバコもやめると宣言していた。

 ひなちゃんがひとくち吸った電子タバコの蒸気を吐いたとき、僕の携帯が鳴った。

「テレビみました?」

 みましたと簡潔に答えた。山崎くんからだった。山崎くんはあやめの元同僚で、彼女がいちばん信頼を置いている異性の友人だった。三か月ほど前あやめに紹介されて、あやめの大切な友達と、別の意味であやめにとって大切な僕は必然と仲良くなった。

「あやめのこと特定しようってインターネット上で盛り上がってますよ。これ、めんどくさいことになりそうですよ」

 あやめの画像がネット上にバラまかれ、住所や電話番号が晒されるイメージが頭のなかに飛び込んできた。それどころか、昔の男に撮られた卑猥な画像まで晒されることになり――

  *   *   *

「という話を、あやめは小説に書こうとしていたら、本当に事件が起きて巻き込まれてしまったわけです」

 僕はグレープフルーツハイで口をうるおし、原稿に目を通していた欽さんから原稿を受け取った。典型的なアナログ人間のあやめは原稿用紙に書くので、なかなかの分量がある。

「で、こういう結果ね」

 欽さんは液晶テレビに目をやって、いささか棘のある笑いを口の端に浮かべた。

「現実とは違い誇張している部分はありますけど、だいたい現実に沿っていますね」

液晶には情報番組のインタビューに答えるあやめの姿があった。いつも通り、しっかりした化粧をするわけでもなく、特に着飾るわけでもなく、自然体の彼女がいた。本人はインタビューではなく、ちゃんとスタジオに呼べと思っていた。

「特定される前に自分から出ちまえばいいってのがあやめちゃんらしいな」

 欽さんは、そんな解決方法もあるもんだね、となかば呆れているような、感心しているような、本当にこれで済むのかなという疑念を抱いているような感じで言った。

「積極的に悪いことをしたわけではないですからね。素性を明かしてしまえば、しばらく話題になるだけで、そのあとはきっとみんな忘れてしまう、そんな考えなんでしょう。宝探しは宝が見つからないから躍起になるわけで、宝が自動的に目の前にあらわれたら冷めてしまうでしょうからね」

「あやめちゃんはそこまで考えてないな」

 欽さんはきっぱりと言った。

「たしかに」

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

第二話 https://note.com/iromachiotome/n/n06fea091c7c4

いいなと思ったら応援しよう!