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TVアニメ『逆転世界ノ電池少女』における「逆転」の真意:笙野頼子「おんたこ三部作」との対照から

はじめに

 女児が可愛いと思い友達にするもの、掌に乗せて慈しむもの、それを女児自身をけがす形に作り込んで販売している、この国の文化の殆どがそういう構造になってしまっていた。子供が慈しむものを、子供を弄ぶ手がかりにする。そして加害者は被害者面をする。

(笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』講談社、2007年、46頁)

 2021年12月に放送が終了したTVアニメ『逆転世界ノ電池少女』は、現代のオタクの夜郎自大について再考するきっかけを与えてくれる作品だった。本作は平行世界より現れた「真国日本」「真誅軍」の侵略・征服を受け、「幻国日本」と呼ばれるようになった近未来の日本を舞台に、真誅軍とレジスタンスとの戦いを描くロボットアニメである。軍国主義を維持し、「永世昭和」の世が続く真国日本は、位相空間からエネルギーを取り出す実験の際、平行世界に存在するもう一つの日本を発見した。そこは第二次世界大戦で大敗を喫した「屈辱的な世界」であり、若者たちはアニメやスマホゲームといった「人間を堕落させる軟弱な毒文化に耽溺」し、大和魂を失っていた。ネットスラングなら「敗戦国の末路」とでも言うべきこの状況を真国日本の軍司令部は嘆き、同じ日本人を誤った道から救わんと日本に対する軍事侵攻を行い、「非実在・不謹慎文化禁止令」を発して検閲体制を敷いた。アニメ・特撮・ゲーム・アイドルといったオタク文化は「非実在文化」ないし「夢想主義」として禁圧の対象となり、逆らう者は逮捕されてお台場の収容所に送られた。こうして2019年、日本は真国日本の実効支配のもとに置かれ、「令和」という時代が訪れない「幻国日本」となったのであった。
 それから10年――2029年4月、親の残した多額の借金を背負い、特区・歌舞伎町で闇営業のホストとして働く少年・久導細道(CV: 山下誠一郎)は、真誅軍の巨大ロボット「伽藍」の襲撃のさなか、秋葉原に拠点を構えるレジスタンス「アラハバキ」の運用する巨大ロボット「ガランドール」に命を救われる。ガランドールは「電池少女」とパイロットの二人乗りロボットであり、エントリープラグのような円筒で挿入される電池少女の「ときめきエネルギー」を動力源とし、電池少女に応じて顕現する姿を変える(なお、コックピットは胸部にある)。細道はそんなガランドールのパイロットとして真誅軍との戦いに巻き込まれていくことになる。誰にでも軽薄な笑顔をふりまき、「傷つく中身なんてないだろ」(第2話)とすら言われる「空っぽ」の主人公が、「熱い気持ち」で駆動するがらんどうのロボットに乗り込み、電池少女たち――赤城りん(CV: ファイルーズあい)、蒼葉夕紀(CV: 鈴木愛奈)、黒木ミサ(CV: 井澤詩織)の三人――との心の交流を経て自らの過去や無価値感と向き合うストーリーはベタだ。ただ、その「熱い気持ち」を呼び醒ますものとして、アニメ・特撮・ゲーム・アイドルといったオタク文化が引き合いに出される点には留意が必要である。

 本稿は、オタク文化が「日本の心」のように持ち上げられる本作の危うい世界観に注目し、その危うさを先駆的に指摘した笙野頼子の「おんたこ三部作」と本作を対照しながら、本作にいう「逆転世界」がゼロ地点での反転ごっこであるということ、すなわち真国日本と幻国日本はゼロ地点で合一しているということを明らかにするものである。

愛国心とオタクマインドの対抗:「融和の心」という夜郎自大

 本作は、前述の世界観を背景として、キナ臭いセリフや設定に満ちている。第2話において、真誅軍大佐・東雲アカツキ(CV: 寺島拓篤)は「同じ日本人として、幻国民を啓蒙・教導するためにやってきた」と述べる。こうした押しつけがましい倫理的ふるまいは、政治学者の丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(1946年)のなかで指摘した「倫理と権力との相互移入」を思わせ、真国日本が日本ファシズムの継承者であることを印象づける。

政治は本質的に非道徳的なブルータルなものだという考えがドイツ人の中に潜んでいることをトーマス・マンが指摘しているが、こういうつきつめた認識は日本人には出来ない。ここには真理と正義に飽くまで忠実な理想主義的政治家が乏しいと同時に、チェザーレ・ボルジャの不敵さもまた見られない。慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。

(丸山眞男(古矢旬編)『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫、2015年、24頁)

 丸山は「軍国支配者の精神形態」(1949年)のなかでも、ナチ指導者と日本の軍国指導者を対照しながら、日本の支配権力における倫理的装いを指摘している。

どちらにも罪の意識はない。しかし一方〔注:ナチ指導者〕は罪の意識に真向から挑戦することによってそれに打ち克とうとするのに対して、他方〔注:日本の軍国指導者〕は自己の行動に絶えず倫理の霧吹きを吹きかけることによってそれを回避しようとする。メフィストフェレスとまさに逆に「善を欲してしかもつねに悪を為」したのが日本の支配権力であった。

(同書157頁)

 本作に登場する巨大ロボットの動力源についても、キナ臭い設定がつきまとう。真誅軍の伽藍は操縦者の愛国心によって稼働する。これに対して、真誅軍がかつて廃棄した「零式」、すなわち現ガランドールは電池少女のときめきエネルギーを力に変える。ただし、アラハバキメカニックの神楽坂ミミ(CV: 豊崎愛生)によると、ガランドールの搭載するときめきエンジンは、電池少女の感情が高まるほどに強力な馬力を生み出すが、反対に電池少女の気持ちが萎えると起動不能に陥る厄介なシステムでもある(第3話)。アラハバキ副司令官のバルザック山田(CV: 杉田智和)は「ガランドールは電池少女と運命を共にする魂の器」と言うが(第2話)、この魂とは「熱い気持ち」すなわちオタクマインドを指している。
 このように、本作は愛国心とオタクマインドを対置する。アカツキは「熱意はいい。だが、法で禁じられた夢想主義に傾倒すれば、それは害悪となる」と言う(第9話)。アカツキの部下たちも同様にオタク文化を批判する。真神ハヤテ(CV: 日高里菜)は「いくら空想に浸っていても、現実の問題が解決することはない」と切って捨てる(第10話)。佐斯神ムサシ(CV: 藤井ゆきよ)はアイドルビジネスについて「未成熟な少女を飾り立て、バカ騒ぎを商売にする。実に醜悪。お前たちの国はそれをよしとしてきたのだ。取り締まられて当然だ」と論難する(第5話)。神水流ヤクモ(CV: 下地紫野)は「結局、貴様らは目の前の痛みを避けるばかり。自らの殻を閉じて引きこもり、夢想にふける。敗北者にも劣る落伍者どもじゃ!」とオタクの現実逃避を指摘する(第8話)。
 真誅軍からの批判に対して、アラハバキのメンバーはオタク文化の価値を主張し、表現規制にノーを突きつける。真誅軍との交戦で親と生き別れた電池少女・赤城りんは、空想は魂のエネルギーであり、その「元気」がなければ厳しい現実と戦うことなどできないと言う(第10話)。メンバーの逮捕により「ひとりぼっちのグループアイドル」となった電池少女・蒼葉夕紀は、アイドルの歌と踊りは勇気や夢を作り出すと反論する(第5話)。そして、極めつけに副司令官の山田は「これは巨大な文化侵略の第一歩だ。我々が規制を受け入れたとき、雪崩式に、何もかもが管理される軍国社会が築き上げられる」と警鐘を鳴らす(第6話)。
 こうした対抗の果てに、主人公の細道は「本当の気持ちを直視」することを経て、真誅軍(もといアカツキたち)に勝利を収める。表面的には、オタク文化を禁圧する狭量な表現規制派は退けられ、抵抗の基盤となったオタクマインドが無造作に称揚されているように見える。そして、オタクマインドは「融和の心」にまで昇華されていく。この構図は最終回におけるアカツキと山田の会話に顕著にあらわれている。

アカツキ しかし、このまま日本のなかで夢想に耽溺していても、いつ国外からの脅威に脅かされるとも知れんのだ。現に我々の真国では――。
(中略)
山田   我々の武器はときめきの豊かさと、その互いの嗜好への敬意と尊重だ。そこに国境や人種など関係ない。キミらの世界で争いが絶えないというのなら、我々がそちらの世界へ行って、融和の心を伝えてやる。

 アカツキと山田の会話は、オタク文化を「日本の心」のように持ち上げるとってつけたようなやりとりであり、オタク文化を過度に美化するセリフとして危うく見える。ここで思い出されるのは、コミックマーケット93(2017年冬コミ)から女優の真木よう子が事実上排除された出来事である。あのときに露呈した狭量さと攻撃性に鑑みて、前述の演説は夜郎自大としか言いようがない。フリーライターの小田切博「オタクは他者の好みを否定すべきではない」というドグマを「自家撞着」と評しているが、この指摘は改めて傾聴に値する。

 しかし、看過してはならないのは、第6話で「文化侵略」への警鐘を鳴らす山田に対して、細道が「でもこれ、そんなに悪いことか?」と問うていることだ。細道の真意はともかく、冷静に考えてみると、オタク文化は一方的に虐げられている対象というわけではなく、当然のこととして何者かを踏みつけている可能性だってあるものだ。オタク文化とて無謬ではいられない。むしろ現実に目をやれば、「表現の自由」を旗印に結集したオタクが「ポリコレ」やら「フェミ」やらを敵視しては、個人のツイッターアカウントから実際の店舗にいたるまで広範に嫌がらせを仕掛けている有様であって、こうしたオタク文化の担い手は積極的に加害者の地位を選ぼうとしているとすら見える。第11話において、夕紀は「つまらない人たちの基準で検閲を認めてしまったら、世界すべてがつまらなくなってしまう」と文化検閲を糾弾するが、現実に進行しているのは単なる露悪趣味や良識派に対する嫌がらせであることを思うと、世界をつまらなくしているのはどっちなのかと問いたくなる。
 さらに、「表現の自由」をシングルイシューとする人々は、公権力による検閲と民間での自主規制やコンプライアンスの区別もつけられないどころか、自民党と癒着する議員や漫画家などを支持して反共イデオロギーを撒き散らすようになっている。彼らは「表現規制はエロから始まる」というたわごとをインターネットに氾濫させる一方で、「表現の不自由展」に対する妨害や映画『主戦場』の上映中止をめぐる裁判などは等閑視している。細道のひねくれ具合を考慮に入れたとしても、彼の問い自体が軽々に退けられるべきでないことは明らかだろう。
 以上を踏まえると、今こそ再検討すべきものは、作家の笙野頼子が「おんたこ三部作」で本格的に糾弾していた問題ではないだろうか。次節では「おんたこ三部作」を取り上げ、『逆転世界ノ電池少女』の意義について議論を深める一助とする。

笙野頼子「おんたこ三部作」再考:オタクマインドの劣化

 「おんたこ三部作」とは、笙野頼子による『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社、2006年)、『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』(講談社、2007年)、『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』(講談社、2008年)の連作小説を指している。笙野はこの連作において、メタフィクションの手法を駆使して、複数の人物視点から「おんたこ」の醜悪さを浮かび上がらせようと腐心している。「おんたこ三部作」はきわめて難解でわかりにくく、読者の安直な理解を拒む作品であるから、作品の骨子を平面的に紹介することは避けるべきなのかもしれない。ただ、「笙野の問題提起などない」かのように扱われている現状に鑑みて、拙いながらも作品の紹介を試みることにする。
 そもそも「おんたこ」とは何か。笙野は「おんたこ三部作」のなかで明確な定義を与えておらず、ニュアンスを掴むヒントを提供するにとどめている。笙野は『おんたこめいわく史』の後書きで次のように述べている。

 おんたことはおたくの誤変換ワード、但しおたくそのものを指すのではない。おたくを、左翼を、時にはマンガ大代表を、つまりは「正しい対抗勢力」を自称する利権屋等によく見られる、病的心性の持ち主をそう呼んだのだ。これが時代を越えて発生するものであるという事、また国家神道的な抑圧を伴う事、同時に悪しき左翼にありがちな非現実性徒党性をも併せ持つ事、そしてまたそれ故に右でも左でもなく、ただ自己喪失していながら我欲を暴走させる市場原理のパシリ、いわゆるネオリベ屋である、という事などを、日本の歴史性とも絡めて私は表現したかったのだ。

(『おんたこめいわく史』、206頁)

 また別の箇所では、おんたことは「市場原理の上に生えた黴でありながらその市場原理を自分自身の意志だと考えてしまうもの」、「国家権力に寄生しながら、『みんな』の意志で動いていると信じて結局は自己都合を発揮するもの」(『ろんちくおげれつ記』、164頁)と説明され、より端的には「通貨に付着するウィルス」(『ろりりべしんでけ録』、50頁)と表現される。おんたことは一定の傾向の人々を指す言葉であると同時に、彼らを押し流す現象そのものであると言えようか。
 「おんたこ三部作」は、「知と感性の野党労働者会議」または「知と感性の野党労働者党」(略して知感野労)が独裁を敷く「にっほん」という近未来の国を舞台としたディストピア小説だ。「にっほん」において、おんたことも言い換えられる知感野労は第一党のくせにマイノリティを称し、「反権力」を政府特権としている。おんたこは自分たちを「少数派、抑圧される、齢未熟なぼくたち」と定義し、自分たち以外のマイノリティを決して許さない。つまり、「にっほん」では政府や最高権力者が反権力ぶり、自分たちは権力者をやっつけている最中だ、何の責任もないと言い続けているのであり、だからこそおんたこに対する批判は「反権力侮辱罪」なる不敬罪に問われることになっている。
 おんたこは「左畜」と呼ばれる贋左翼であり、「無力なぼくたちの反権力闘争」と称して言論統制を行い、ロリコングッズの政府認可と海外輸出の規制緩和を実現した。「左畜」とは政府が導入した三流論客であり、ロリコン規制のときだけ出てきて表現の自由を主張する勢力である。こうして、おんたこ政権下ではロリコンだけが唯一価値のあるものとなっており、セーラー服以外の衣装で何か事を起こした女性は目の仇にされ、本物の女子高生がスポーツや芸術で才能を表せばそれも目の仇にされた。
 おんたこは身なりを不潔にしていることも多いが、なかには「名誉少女」も含まれている。名誉少女とは「天才少女キャラや委員長キャラになって『設定小学生』の胸にツメモノをし、眼鏡をかけて少女に化けている中年男達」であり、名誉少女が局部の露出といった旧犯罪行為をしても、罪なき少女の悪戯として不問とされた。
 おんたこは戦闘美少女兵を官軍化し、それを反権力軍と呼んでいる。これは14歳以下の美少女で構成されており、教室や親元から強制連行された少女たちは「子供が自由に性的快楽を享受する権利」を与えられて、おんたこの愛人として性的虐待を受けた。その他、おんたこは「児童がポルノに出演し自己実現する自己決定権」なる権利も作り出した。
 さらに、おんたこ(の要人)は「火星人少女遊廓」でも少女たちを性的に虐待している。火星人少女遊廓では、「火星人」を性別関係なく7歳までに、子供の体から絶対に育たないスーツに閉じ込める。そのスーツを着用した火星人はおんたこ好みのエロゲー少女をフィギュアにしたような姿となり、あたかも纏足のように幼児体型は維持されるが、拒否反応を起こして体長2m・4頭身にまで膨れ上がり、早死する。おんたこは「火星人本体には手を出していない。着てる地球スーツをかまっているだけだ」という言い分をとり、火星人少女にベタベタ触りながら、ネット内の知的美少女と哲学の議論をするのだった(なお、知的美少女は適当に議論では負けてくれる)。
 かかる徹底的な嫌がらせ描写の極めつけとして、おんたこによる「初期オタク」または「純オタ」の弾圧が挙げられよう。おんたこは素直にオタク文化を楽しんでいた気弱なオタク(「初期オタク」または「純オタ」)を政治的軟弱さや社会性のなさを理由に次々と処刑し、鬼畜的なものや反社会的なマニア品を大衆に無反省に宣伝し消費させ、売上至上主義によって社会全体のバーを下げていったというのだ。この記述は売りスレ的心性、そして地方自治体や企業との「コラボ」、電車や街頭のラッピングなどを誇る心性にもとづいて暴れまわるオタクの実態を見事に言い当てている。彼らは外野から美少女表象を批判されると烈火のごとく怒るが、それは美少女表象の氾濫こそ彼らにとっては社会に対するマーキング(もっと直截に言えば「ぶっかけ」)に他ならないからではないだろうか。おんたこは「心を閉ざして社会と係わる」(『ろりりべしんでけ録、70頁)とは至言であろう。なお、笙野は「おんたこ三部作」の前日譚にあたる『植民人喰い条約 ひょうすべの国』(河出書房新社、2016年)に、ヘイトスピーチと痴漢強姦の自由だけを守る「NPOひょうげんがすべて」(略してひょうすべ)という知感野労の仲良し団体を登場させていることも附言しておく。
 「おんたこ三部作」にわかりやすい結末めいたものはない。読者は近未来の「にっほん」に閉じ込められ、最後まで息苦しさを味わうことを強いられる。おんたこは「おたくそのものを指すのではない」と笙野は『おんたこめいわく史』の後書きで述べていた。しかし、「おんたこ三部作」の完結から10年以上が経過して「表現の自由戦士」問題が先鋭化した現在、少なくともオタクはおんたこ以外の何者でもなくなっていると言わざるをえない。その意味では「おんたこ三部作」の先見性は疑いようがなく、作中でのおんたこの迷惑はオタクの迷惑として読むことができる(これはディストピア小説の正統的な読み方にも沿っている)。
 そのうえで、本稿の主題である『逆転世界ノ電池少女』に戻ってくると、本作が強調するオタクマインドの素晴らしさはますます空虚なものに見えてくる。次節ではいよいよ、本作の価値づけを行うことにする。

愛国心とオタクマインドの合一:ゼロ地点での「逆転」

 ここまで、笙野の「おんたこ三部作」を経由しながら、『逆転世界ノ電池少女』のプロットが抱える欺瞞を明らかにしてきたが、本作の画面からは前述の文字情報ほどキナ臭く邪悪な印象を受けにくいということは指摘しておかなければならない。というのも、本作は基本的にハードな作風に仕上がっていないからだ。本作には戦車や戦闘機のような兵器は登場せず、戦闘配備されているのは伽藍/ガランドールという3~4頭身の巨大ロボットである。このようにリアリティラインが低く抑えられているため、画面はなんだかフヌケて見える。また、本作の登場人物は真国軍人含めてバカっぽく描かれており、画面は全編通して殺伐さを欠いている。たとえば、ハヤテは第3話で細道とりんの痴話喧嘩を眼前に見せられ、赤面して行動不能に陥った隙を突かれて敗れる。ヤクモは第7話で合法ロリを崇めるオタク集団に近寄られ、あまりのおぞましさに逃げ出す。極めつけとして、アカツキは第9話で「武力では幻国民の理解を得られん」と真面目に語ったと思えば、なんと友好の架け橋として24時間耐久マラソンに挑むというのだから、「どんな判断だ」と言わざるをえない。

 第10話において、アカツキは24時間の猶予を設けて「闇文化財保管庫」(旧国際展示場)を秋葉原に質量爆弾として投下すると宣言するが、逆三角形の会議棟を吊り下げて秋葉原に落とすという作戦自体が荒唐無稽であるため、悪逆無道な行為であるようにはなかなか見えない。最終回においても、映像と音声の両面から滑稽でファンキーな雰囲気が漏れ出している。一度はアラハバキの基地から逃げ出した細道が電池少女たちのために秋葉原に戻り、皆の応援と「熱い気持ち」を力に変えて、落ちてくる旧国際展示場をガランドールで受け止めるというクライマックスシーン。このシーンも文字で書くと暑苦しく見えるが、実際には並行して展開する山田とミミの10年越しのラブロマンスに完全に食われている。杉田智和が演じる「度量が小さすぎた」元パイロットと豊崎愛生が演じる「急ぎすぎた」元電池少女の恋模様はくだらないオチも含めて必見である。
 要するに、本作はキナ臭いプロットを有しているにもかかわらず、画面を見ている限りは終始一貫してバカげた話にしか見えない。しかし、かかるバカげた話すらもオタク/おんたこから悪い方向に利用されかねないことを思うと、なかなか手放しには楽しめない。本作は全体としては、邪悪なものをポップな画面で糊塗していると言えるほどオタク文化の美化に成功しているとは言い難いが、「ネタ」が「ベタ」にたやすく転化する世の中にあっては、警戒を怠らないほうがよいということだ。
 だが、本作において、とってつけたようなオタク文化礼讃が画面から乖離しており、オタク文化のポテンシャルが十全にアピールできていないのであれば、むしろ反対にこの仕上がりを悪意に解釈する余地も残っていることになる。考えてみれば、軍国主義を維持しているという真国日本の量産機・狛戌こまいぬは愛らしいデザインであるし、真国軍人のフロントも長髪のイケメン将校と美少女で構成されていて、まったくもって硬派な右翼には見えない。こうした画面作りは、「逆転」しようがしまいが、日本の行き着く果ては軟弱な文化でしかないのだという嫌がらせにも思える。また、アカツキは最終回で「このまま日本のなかで夢想に耽溺していても、いつ国外からの脅威に脅かされるとも知れんのだ」とこぼしていたが、「国外からの脅威」というブラックボックスに中韓・「ポリコレ」・「フェミ」といった単語を代入するのは排外主義的なオタクの常である。すなわち、オタクは真国日本/幻国日本それぞれの言い分を都合よく使い分けており、このオタクというゼロ地点において愛国心とオタクマインドは偽の対抗をやめて合一を果たしている。本作のタイトルにいう「逆転」とはゼロ地点での反転ごっこであり、それは笙野が「おんたこ三部作」で描いた「無力なぼくたちの反権力闘争」、反権力ぶる権力者の姿と重なるのではないだろうか。『逆転世界ノ電池少女』を素直に楽しませてくれない現実を討つために本作を逆用すること、これこそあるべきオタクマインドの「逆転」なのかもしれない。

おわりに

 カルチャーのために戦う解放軍といった表象の裏には、「生き様」に殉じる姿勢への憧れが隠れているように思われる。ここで一度立ち止まって考えるべきは、解放軍にとっての敵とは何なのか、そして解放した後に何がしたいのかということだ。前者については、それは本当に敵なのか、自分の側に問題があって正当に批判されているだけではないのか、自分が被害者感情を募らせているだけではないのかと自問することが大切である。後者については、実は自分が敵に代わって支配したいだけではないのか、支配したいのに支配できないことに欲求不満を抱えているだけではないのか、憂さ晴らしのために破壊衝動に身を任せているだけではないのかと考えを巡らせることが肝要である。こうして考えていくと、大抵の場合、「空っぽ」の自分に行き当たることになるはずだ。「空っぽ」だから、「ポリコレ」や「フェミ」といった確固たる心棒を持っているように見える人たちが羨ましくて仕方なくなる(「ポリコレ」や「フェミ」も「生き様」の一つではある)。「こんな人たち」には負けたくないので攻撃性がますます亢進する。その結果、他人から嫌われ、批判されることが増えるので仮想敵も増殖する。
 第11話で勝利を諦めかけた細道に対して、夕紀は「あんたには人に譲れないものってないの!? こだわりってないの!?」と食ってかかった。実はこの「空っぽ」の主人公こそ、おんたこ化した現代のオタクの鏡像なのかもしれない。最後に、『ろりりべしんでけ録』の笙野自身による解説文の一節を引用して筆を擱くことにする。第一歩として、問題の所在を自覚することから始めてみてはいかがだろうか。

 おんたこは上視点ではヘーゲルを保持したまま、自分の言動を追求〔原文ママ〕されるとポモ視点に走るのだがその時に、統合も止揚も何にもしていない。ただ本人がばらばらになっているだけだ。

(『ろりりべしんでけ録』、262頁)

参考文献

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』講談社、2006年。

笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』講談社、2007年。

笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』講談社、2008年。

笙野頼子『植民人喰い条約 ひょうすべの国』河出書房新社、2016年。

丸山眞男(古矢旬編)『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫、2015年。

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髙橋優
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