見出し画像

名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第8回:『機動戦士ガンダムF91』

(2023年7月8日追記:過去に執筆した文章を読み返し、一部の表現に反省すべき箇所があったと判断したため、本文に修正を加えました。)
※本稿は『機動戦士ガンダムF91 完全版』を前提に執筆したものです。

はじめに

 富野由悠季の監督作『機動戦士ガンダムF91』(1991年、以下『F91』と略記)を映像作品として評価するのは、二つの意味で難しい。
 第一に、『F91』というアニメ映画は名実ともに未完の作品である。富野自身が後年のインタビュー記事で明かしているように、『F91』は「はなからTV版の3話分をとりあえず1本にまとめて、これ以後TVシリーズ化していくという方向性を内包した企画」であり(『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社、1999年、227頁)、幕引きで“THIS IS ONLY THE BEGINNING”(これは始まりにすぎない)と大見得も切っていた。しかし、実際には『F91』の続編アニメが制作されることはなく、『F91』は思わせぶりなプロモーション映像のまま、宙に浮いてしまうことになった。
 第二に、『F91』は約2時間の枠内に文藝・メカデザインの両面で新奇な要素を大量に詰め込んでおり、視聴者に消化不良や混乱を引き起こしやすい作りになっている。アニメ評論家の藤津亮太は、『F91』について「基本的に物語内容が詰め込みすぎで、劇場用新作にもかかわらずまるで再編集映画のように感じられる場所も多い」と書いており、具体例としてシーブックがフロンティアIからフロンティアIVへ赴くシーンなどを挙げている(藤津亮太『「アニメ評論家」宣言』扶桑社、2003年、121頁)。富野自身も前掲のインタビュー記事において、「『F91』は事実関係や話が非常にわかりにくいですね」というインタビュアーの発言を受けて、「当たり前ですよ。その後に40本作るつもりでいたんだから」と発言している(『富野由悠季 全仕事』、227-228頁)。
 こうした評価や回顧に鑑みて、『F91』が「わかりにくい」ことを正面切って否定するのは難しいと言わざるをえない。『F91』が大きな欠点を抱えた作品であるという事実は、富野に別のインタビュー記事において、次のような言葉を吐かせることになる。

10年前、「F91」を作った当時ボクは、「F91」以降のガンダムはもうないだろうと考えていました。というのも「F91」はそもそも新たなテレビシリーズの第1話ということで取り組んだんですが、それがうまくいかず、継続することができなかった作品なんです。その時ボクは、「ファーストガンダム」終了時より以上に強く「ガンダム」が終わったんだという想いをもってしまったのです。

(テレビマガジン特別編集『機動戦士ガンダム大全集 Part II』講談社、2002年、3頁)

 しかしそれでも、私は『F91』を未完の傑作として高く評価したいという気持ちを抑えられない。私は富野が監督を務めた宇宙世紀のガンダムシリーズのなかでは、『機動戦士Zガンダム』(1985~1986年、以下『Zガンダム』と略記)と並んで『F91』を魅力的に感じている。『F91』の魅力は『Zガンダム』のそれと重なる部分もあれば、ユニークな輝きを放っている部分もあり、大別すると三つに分けられる。第一にニュータイプやガンダムという単語が後景に退いており、第二に男性のフラジリティ(fragility)が端的に析出されており、第三に見覚えのないメカの登場が目を楽しませてくれる。以下では、この三点について順を追って詳述する。なお、本稿では長谷川裕一が作画を務め、『F91』の後日譚を描いた漫画『機動戦士クロスボーン・ガンダム』(1994~1997年連載)には言及しない。あらかじめご容赦いただきたい。

過去のものとしてのニュータイプ/ガンダム

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年、以下『逆シャア』と略記)は『Zガンダム』の主題を反復しつつ、ガンダム・サーガの骨子をアムロとシャアの因縁に縮減してしまった作品だった(エッセイ企画の第4回を参照)。とはいえ、『逆シャア』がアムロとシャアを炎と光のなかに事実上葬り去り、彼らの物語に一応の終止符を打ったおかげで、ガンダム・サーガにおけるニュータイプの新陳代謝にも歯止めがかかり、物語の仕切り直しが可能となった。『逆シャア』までのある種のモラトリアム期間には、あたかもアムロとシャアの最終決戦までの継投であるかのように、カミーユやジュドーに代表される新たなニュータイプの覚醒が見られた。しかし、『F91』において、ニュータイプという概念はもはや形骸化している。ニュータイプをめぐる希望と絶望のせめぎあいは過去のものとなり、それゆえに『F91』は新章開幕のワクワク感に満ちている。

 『F91』は1991年3月中旬に劇場公開され、宇宙世紀0123年を舞台にしたまったく新しい物語を映し出した。すでに実時間にして『逆シャア』の劇場公開から3年、作中時間ではシャアの反乱から30年が経過していた。『F91』において、ニュータイプは「パイロット適性がある人」あるいは「モビルスーツに関してはスペシャリスト」程度の意味に格下げされ、「大概個人的には不幸だった」と伝承されるなど、概念としてのアクチュアリティを喪失している。評論家の宇野常寛のように、「富野由悠季は『ニュータイプ』を諦めるべきではなかった」(宇野常寛『母性のディストピア I 接触篇』ハヤカワ文庫、2019年、332頁)とか、富野は「フューチャリストでありつづけるべきであった」(同書334頁)などと主張して「人の革新」としてのニュータイプに固執する者にとっては、『F91』は変節の第一歩に見えるのかもしれない。しかし、いったんニュータイプという概念への拘泥を捨てれば、『F91』は非常にすっきりとしたジュブナイル冒険譚に見えてくる。クロスボーン・バンガードという武装集団の強襲に端を発して、名も無い民草(特に学生たち)が寄せ集まってスペースコロニーからの脱出とクロスボーン・バンガードへの応戦を試みる一連の戦争の経過を縦糸とすれば、運命に翻弄されつつも惹かれ合うシーブックとセシリーのボーイミーツガールが横糸をなし、織り上げられた物語は細かな理屈を飛び越えた奇跡的な装いで幕引きを迎える。
 実際、シーブックがニュータイプであるか否かは『F91』の本筋に影響を与えていない。あえて強い言葉を使うなら、シーブックがニュータイプであるか否かはこの際どうでもいいということだ。もちろん、シーブックが鋭敏な感覚を備えた新時代のニュータイプとして覚醒したと解釈することも不可能ではないだろう。しかし、シーブックがガンダムF91を乗りこなすことができたのも、「質量を持った残像」を生み出すことができたのも、宇宙空間を漂流するセシリーを発見できたのも、彼の母が開発したバイオコンピュータの性能のおかげだと解釈することもまた可能である。後者の解釈では、シーブックは「母と子」という血の繋がり(lien du sang)ゆえにバイオコンピュータにフィットしたと説明することになる。物語の中盤において、母の思い出を構成するあやとりがバイオコンピュータの配線の符牒となることも後者の解釈を補強するが、重要なのはこの二つの解釈が平行線のまま視聴者の前に投げ出されるということだ。『F91』はニュータイプを正面から否定することもなく、オープンなまま幕切れを迎える。この点に関連して、藤津は『F91』が「論理ではなく感性・感情に訴えかける演出」を採用していると指摘している(藤津『「アニメ評論家」宣言』、121頁)。藤津は『F91』のラストシーンについて、次のように整理している。

「セシリーを感じられたの?」と問うモニカ。だが、シーブックは開口一番「違うんだ」と答える。「あれ、花なんだ。セシリーの花なんだよ。セシリーに決まってるじゃないか」と、単身モビルスーツを飛び出すシーブック。映像はあくまでもシーブックが、バイオセンサーの働きを借りてセシリーを感知したかのように見えるにもかかわらず、セリフはそうした論理的整合性をわざと否定するようになっている。
 このラストは明らかに、愛し合う二人がお互いを発見するのに理屈はいらない、という映画の作法に従って演出されている。ここで嘘八百のSF設定的論理よりも、演出によって醸し出された「幸福感」が勝っていなければ、映画は終わらない。だからシーブックは論理を否定するようなロマンチックなセリフを言い、それによって顧客は気持ちよく劇場をあとにすることができる。理屈はあとから考えてつじつまが合っていればいいのだ。

(同書123頁)

 藤津は引用箇所の直後で「『F91』は、『親は親たらずとも健やかに育つ子ども』という部分にニュータイプの希望を重ね合わせている」とも述べており(同書123頁)、記述のバランスを取っている。しかし、シーブックとセシリーが宇宙空間で再会を果たし、月とガンダムF91を背景に抱き合って回転する様子は息を呑むほど美しく、この「理屈はいらない」名シーンの前でニュータイプという概念が完全に後景に退いていることは否定できまい。
 『F91』ではニュータイプと同様に、ガンダムという名称も特権的な扱いを免れている。シーブックが乗り込むことになるガンダムF91は、連邦軍のレアリーから「昔、こんな顔のモビルスーツがあったわね」と言及されるシーンで初めて「ガンダム」の名を与えられる。視聴者の多くは『F91』がガンダムシリーズの一作品であることを認識したうえで観に来ているのだとしても、作中でガンダムF91が「ガンダム」の名を冠した特別な機体として設計されていないのは好ましい。そう思えるのも、私自身がもともと「ガンダム」という単語に強烈な面倒臭さ、手垢にまみれた「創られた伝統」のようなものを感じていたからなのかもしれない。

男性のフラジリティを保護する「仮面」

ひとは集団的熱狂に我を忘れて個の輪郭を失ってしまわないためには、接触を拒まないわけにはいかない。うっかり他者や社会集団に気を許したりしようものなら、そこから個は溶解して集団に呑み込まれてしまいかねない。表現主義者流の熱い忘我の陶酔は避けられねばならない。それゆえに他者の立入りを許さぬ私室に待避するか、かりに外気に身をさらされるにしても不感無覚の冷たく硬い甲冑を身に鎧って、あらゆる接触を拒絶するのでなければならない。

(種村季弘『魔術的リアリズム:メランコリーの芸術』ちくま学芸文庫、2010年、32-33頁)

 『F91』は「頼れる大人の男性」を意図的に排除することによって、男性のフラジリティ、すなわち心理的な傷つきやすさや対人関係における脆弱さを丸裸にしている。そもそも従前の宇宙世紀のガンダムシリーズ(特に『Zガンダム』)からして、女性を「太母」視することから逃れられない男性の姿を自嘲的に描いてきたとは言える(エッセイ企画の第2回および第4回を参照)。だが、それは一見「頼れる大人の男性」のように見えるキャラクターの陰翳を描くことによって、壮年男性のフラジリティを暴露するというやや込み入った手法であった。また同時に、跳ねっ返りの若者の苛立ち(「大人」への不信や幻滅)と蹉跌を活写することによって、このフラジリティが「繊細」を自任する青年のデッドエンドであることも示唆されていた。

 『F91』はさらに一歩進んで、中年男性の弱々しく情けない面ばかりを強調して描くことによって、チェーホフの「中年文学」さながらに男性のフラジリティを鮮烈に前景化する。連邦軍の退役軍人は外野から若者にがなり立てることしかできない。シーブックの父も優秀な技術者である妻の社会進出を応援しつつも、彼女が家庭を顧みずに子供を悲しませていることを追及できぬままに死んでいく。これに対して、ザビーネやドレルのような美形の青年キャラクターが『F91』で中心的な役割を果たすことはない。『F91』はどちらかと言えば醜い「オッサン」の悲哀を剥き出しにすることに汲々としている。
 何と言っても、『F91』の最大の功績は鉄仮面(カロッゾ)というキャラクターを生み出したことである。コスモ貴族主義を標榜するロナ家の入り婿であるカロッゾは、「人権は平等だが、同じ人間は二人といないのだ。そして何よりも人類と世界を治めるのは、自らの血を流すことを恐れない高貴な者が司るべきなのだよ」と威厳たっぷりに語る岳父に抗えず、心理的に組み敷かれている。それどころか、カロッゾは妻を間男に奪われ、出奔した妻に娘(ベラ/セシリー)も連れて行かれてしまう。こうした恥辱を経験したことで、カロッゾは素顔を隠す仮面を外せなくなった。彼の頭部を覆い隠す鉄仮面は二つのことを同時に意味している。第一に、彼の内面は外骨格のようなもので保護しなければ潰れてしまうほど脆いということ。第二に、彼の内面を外部から侵襲しようとするものがあるが、それは女性だということ。したがって、この鉄仮面は彼のフラジリティを対等な関係を築けない相手、すなわち女性から保護する外骨格のようなものであり、仮面(Maske)というよりは甲冑(Panzer)と見たほうが実態に即している。カロッゾはこの甲冑によって表面的には「強化人間」の仲間入りを果たしたが、根本的な問題は何も解決されていない。何となれば、本当のところ、カロッゾを苛んでいるのは、女性は過剰な男らしさを求めており、自分はそれを欠いた劣等種であるのではないかという妄想であって、この自家中毒を甲冑は防いでくれないからである。
 こうした「エゴを強化した」矮小な中年男性像を提示しながらも、カロッゾが妻から見限られる過程に過剰なドラマを詰め込んでいないのが『F91』の美点である。カロッゾの妻がファム・ファタル(femme fatale)として計算高く妖艶に描かれていたり、間男が「アルファ・メール」(alpha male)よろしく性的魅力に満ちた若々しく力強い男性として強調されていたりしたら、そこにはわかりやすいカタルシスがあったことだろう。ところが、カロッゾから妻を奪ったシオは小柄で控えめな男性として描かれており、セシリーは養父のシオに意気地のなさを感じて不満げですらある。つまり、『F91』は後続作品である『機動戦士Vガンダム』(1993~1994年、以下『Vガンダム』と略記)ほど被虐や窃視の煽情的な快楽に傾倒しておらず(究極的にウッソは「嘘」であり、シーブックのように「見本」たりえない)、煮えきらなさを残すことでぎりぎり均衡を保っており、だからこそ素直に「好きだ」と思える。制作陣が『F91』の甲冑のなかに押し込めたのは俗に言う「性癖」でもあったのだ。
 カロッゾは演説において次のように語る。「人が旧来の感情の動物では、地球圏そのものを食い尽くすところまで来ているのだ」。このセリフから直ちに想起されるのは、『Zガンダム』における「人間は感情の動物です」というファの言葉(『Zガンダム』第22話)である。カロッゾは女性に選ばれたいのに選ばれないからこそ、女性に対する嫌悪と敵視を拗らせている。そんな男性キャラクターが作品の枠を超えて、女性キャラクターの発した言葉を否定する格好になっているのは合点がいく。カロッゾが実の娘であるセシリーに対して「つくづくお前は悪い子だ」、「つくづく女というものは御しがたいな」と上から目線で吐き捨てるのも、女性と対等な関係を築けない脂ぎった男性的フラジリティのなせる業である。そして、こうした症状は何もカロッゾに特有のものではない。宇野がエンドロールの演出を踏まえて整理した内容とも一部重なるが(後掲)、ガンダムと鉄仮面は紙一重の差しかない「甲冑」であり、それゆえに「仮面をつけなければ何もできない男性――それが世直しを言うなんて」というセシリーの糾弾は潜在的にすべての男性を苛んでいる。

 シーブックの乗るガンダムと、カロッゾの鉄仮面のデザインが不気味なほど似ているのは偶然ではないだろう(エンドロールでシーブックとカロッゾが表裏一体の存在であることが象徴的なイメージとして提示される)。「寝取られた妻」=「奪われた恋人」を取り戻そうとしている点において、シーブックとカロッゾはともに「父」になろうとする存在だ。しかし、「母」と和解しその承認のもとで小さな父権を獲得しようとするシーブックに対し、「入り婿」として(「母」的なものから切断されて)「父」を回復しようとし、それに失敗したのがカロッゾなのだ。そして「母」との和解なしに「父」になろうとしたカロッゾ=鉄仮面は、アムロやシャアですらも生き残れなかった「母性のディストピア」(宇宙世紀)において死ぬしかなかったのだ。

(宇野『母性のディストピア I 接触篇』、280-281頁)

 宇野はシーブックとカロッゾの分かれ目を「母」との和解/「母」からの承認の有無に求めており、『F91』においてニュータイプの意味が「人の革新から家族論に縮退」したこと(同書282頁)――先走って『Vガンダム』の表現を使えば、「母のガンダム」がニュータイプの前提条件になったこと――に批判的な立場を取っている。だが、すでに述べたように、私は『F91』の解釈/評価にあたって、ニュータイプという概念に拘泥しなくても構わないと考えているので、たとえシーブックが身勝手な仕事人間の母にあっさり理解を示すことがあまりに「お利口」すぎて不自然に見えるとしても、カロッゾという中年男性の敗北がきわめて精細な「解像度」で描かれたこと自体に高い価値を認めている。
 なお、宇野は「この鉄仮面こそ、アムロとシャアの成れの果てだ」とも述べているが(同書280頁)、この記述は「アムロ/シャアは俺だ」と思っている人の自嘲的な筆致にも見えて、少し格好つけすぎではないかと思ってしまう。私としては、鉄仮面は『Zガンダム』のカツや『逆シャア』のギュネイの発展形に見えており、そのくらいの認識が凡庸な男性視聴者にとってちょうどいいように思う。

メカに関する斬新なアイディアの数々

 『F91』は約2時間の尺のなかに、趣向を凝らしたメカを多数詰め込んだ意欲作でもある。まず意匠の面で目につくのは、ガスマスクやムーチョを彷彿とさせるゴーグル状のアイカメラを備えたクロスボーン・バンガードの「雑魚メカ」である。モノアイが敵メカの大多数を占めていた時期を経て、明らかに顔の造作が異なる量産機が冒頭から登場するのを見ると、視覚的に新鮮な刺激によって、新章突入の興奮は否が応でも掻き立てられる。加えて、宇宙空間に映えるけばけばしい色使いのビームとバーニアから伸びる光芒が視聴者の目を釘付けにする(この点に限っては、画面の印象は『逆シャア』と連続している)。終盤に登場するラフレシアも「宇宙を乱すもののけ」というシーブックの言葉を裏付けるような毒々しい色彩美と造形美を備えていて愛らしい。『ウルトラマンタロウ』(1973~1974年)第1話に登場したアストロモンスもといチグリスフラワーに触手がついたような宇宙怪獣然とした異形のデザインは、ラフレシアがシーブックとセシリーの前に最後に立ちはだかる強敵であるということに十分な説得力を与えている。これまで、私がラフレシアという単語から連想するのはポケモンだったが、カロッゾの脳波コントロールに服する巨大モビルアーマーは、ラフレシアという単語にいっそう強烈なイメージを付加することに成功した。
 次にギミックの面でも、ビームシールドビームフラッグガンダムのマスクの開閉といった挑戦的なアイディアが見ていて一々楽しい。何より目を引くのは、ノコギリ歯のついたコマのような「バグ」と呼ばれるメカである。人型でもなく有人でもない小型機械による無作為の殺戮は、人型ロボットによる近接戦闘を基調とする世界観のなかで浮き上がっており、『Vガンダム』に顕著に見られるどこまで計算尽くなのかわからない残酷趣味の前駆を強く感じさせる。人間が直接手を汚さない無人兵器という発想は、『新機動戦記ガンダムW』(1995~1996年、以下『ガンダムW』と略記)のモビルドールに表面的には引き継がれる。だが、『ガンダムW』は娯楽と化した「ゲーム盤の戦争」を否定しつつも、命懸けで最期の瞬間まで戦い抜く兵士の美学をモビルドールの利用に対置するという机上論の回答を示したにすぎず、そこに賢慮への導きの糸となりうる不快感や後味の悪さはない。私はここで、『F91』が現代の戦争におけるドローンの利用を予見していたなどと訳知り顔で褒めることはしないが、「バグ」のべっとりとした残酷さが技術革新による人間の疎外を意識させるということは評価しなければならないと思う(これはモビルスーツのコクピットは撃てるが、生身の人間は撃てないという問題の発展形である)。
 なお、『F91』に登場するモビルスーツのなかで、私が一番好きなのはビギナ・ギナである。また、違う作品の話になってしまうが、単純に見た目だけで言えば、私は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(2022年~2023年)のベギルベウも好きだ。私はどうやら白地に紫のアクセントというカラーリングと後方に張り出したノズルに強く惹かれるようである。

結びに代えて

 以下では、本稿の結びに代えて、項目を立てて十分に語ることができなかった雑感を書き残しておく。

1. 補論:ドライな戦争描写について

 『F91』は視聴者の熱狂を掻き立てる架空戦記もの、すなわち「良心の傷まない戦争ごっこ」のための「箱庭」(藤津『アニメと戦争』日本評論社、2021年、117頁)に陥ることを巧妙に回避している。『F91』というジュブナイル冒険譚の縦糸を構成する戦争描写はきわめてドライであり、戦火に見舞われたフロンティアIVで描かれるのは、民間人がモビルスーツの落とした薬莢の直撃を受けたり、爆風でビルの外壁に叩きつけられたりして即死する様子である。この挫傷という地味に嫌な死に様はあまりにあっさりと挿入されているため、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989年、以下『ポケ戦』と略記)のように、避けられない戦争というリアリティの前で右往左往したり立ち尽くしたりする「無力な僕たち」を感傷的に露出させる作りにもなっていない(エッセイ企画の第6回を参照)。このドライさはやがて『Vガンダム』において残酷さに転じ、クロノクルの最期に向かって強迫的なエスカレーションを起こしていくことになるが、『F91』の段階ではぎりぎり均衡を失しておらず、ジュブナイル冒険譚を邪魔しない程度の塩梅にとどまっている。『F91』はやはりさまざまな点で私の心の琴線に触れる。辻谷耕史が『ポケ戦』のバーニィで終わらず、シーブックという役柄を演じてくれたことが、私はとにかく嬉しい。

2. 主題歌について

 森口博子が歌う『F91』の主題歌「ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~」は、森口のオフィシャルブログ(2022年12月18日更新)によると、氷川きよしが歌手を目指すきっかけとなった曲であるそうだ。森口は氷川の中学の先輩にあたり、氷川は同じ中学出身の有名人の存在に支えられて、中学二年生のときに同級生の前でこの曲を歌ったことが自分の殻を破るきっかけになったのだという(日刊スポーツの記事も併せて掲載する)。

 森口は「ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~」を引っ提げて、第42回NHK紅白歌合戦(1991年12月31日)に初出場を果たしており、この曲は広く知られるようになっていたことが窺われる。1991年当時、氷川は14歳。「中学二年生のとき」という証言とも符合する。氷川が『F91』を見ていたのかどうかは定かではないが、前述の素敵なエピソードを生み出した曲が『F91』の主題歌であるという事実には喜びを禁じえない。歌が一人の人生を左右するというのはいかにも陳腐な話かもしれない。だが、その偶然の重なりから受ける万感にわけもなく浸りたくなるときもある。『F91』はそんなこと――センチメンタリズムに溺れてしまう無防備な自分――を改めて私に教えてくれた。

 次回更新は2023年9月、主題は『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(いわゆる「空モモ」)を予定している。

参考文献

宇野常寛『母性のディストピア I 接触篇』ハヤカワ文庫、2019年。

テレビマガジン特別編集『機動戦士ガンダム大全集 Part II』講談社、2002年。

『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社、1999年。

藤津亮太『「アニメ評論家」宣言』扶桑社、2003年(増補改訂版、ちくま文庫、2022年)。

藤津亮太『アニメと戦争』日本評論社、2021年。

いいなと思ったら応援しよう!

髙橋優
皆様からいただいたチップは資料の購入や取材のために使わせていただきます。応援のほど、よろしくお願いいたします。