随筆(2020/6/19):「攻めのモラハラ」と「守りのモラハラ」(2)「守りのモラハラ」
2.「守りのモラハラ」
2_1.「攻めのモラハラ」要約
さて、昨日の記事で言っていた「攻めのモラハラ」とは、
「相手が一人前の人間ではない」から、
「まともな人と人とのコミュニケーションが成り立たない」ので、
「まともな自分」が、
「あれをやれ。これをするな。いいから言うことを聞け」と言うのは正当な振る舞いだし、
「いかなる口答えも言い逃れに過ぎない」と見なす。
そういう理屈で、一見倫理的に正当であるかのごとく、相手に精神的苦痛を与える行為のことでした。
***
倫理的であるかのような顔をして、外から与えられる精神的苦痛は、相手の内なる倫理観の苗代をガリガリと汚染していきます。
「そいつにそんなものはない」? 価値的なお眼鏡に適わないということと、全く存在しないということには、かなり大きな開きがあるぞ。
それは、「ある」。「ある」からには、せめて「ある」と認めなければならない。価値的なお眼鏡に適おうが何だろうが。
これが出来ないなら、現実で生きていくことは、まあ無理よ。
***
しかも、攻めのモラハラをする人たちの言う「倫理」が、実際には倫理でも何でもなく、前例主義や独自解釈に過ぎないことすらあります。というか、大半はそうでしょう。
より具体的には、
「どういうメリットやデメリットに効くから」
という理由を説明出来ない「善さ」は、しばしば前例主義なだけです。
また、
「これはこういうメリットやデメリットがある。ピンと来ない? それはお前が倫理観のない邪悪生物だからだ」
という、独り善がりで、相手を説得出来ない、そんな説明しか出来ない「善さ」は、しばしばただの独自解釈に過ぎません。
これらは別に、倫理としての正当性を持ちません。注意しましょう。
***
罰と称して与えられる精神的苦痛は、一見倫理的に正当に見えるかもしれません。
が、それが実際にはただの前例主義や独自解釈によるものだったら、それは倫理からは外れてしまいます。
当然、その精神的苦痛を与える行為から、正当性は失われる。というか、そんなものは最初からなかったのだ。
こここそが、モラハラが、実際にはいかなる意味においてもモラル(道徳性)ではないポイントです。
モラハラはモラルなのではない。モラルという他人のふんどしで相撲を取っているだけだ。欺瞞的なだけでなく、盗人猛々しいんですよ。こんなの。
2_2.「守りのモラハラ」とは一体何のことか
んじゃあ、この記事で新たに提唱する(でっちあげる)、「守りのモラハラ」とは、一体何のことか。
それは、
「自分は『常に』正しく、『一瞬たりとも』悪者扱いされる謂れはない」
と突っ張ることです。
どういうことか。
2_3.罰にも優しさにも、一長一短があり、それぞれの理由で危険な代物である
2_3_1.罰がないと、フリーライダーに何もかも盗まれて、約束事の類いは維持出来なくなる
多くの人は、ケアの倫理一般(世話や優しさ等)に従って、危害や損害である罰を避けたがるところがあります。
しかし、それで本当にいいのか。
そのようなことをしていて、(ケアの倫理一般も含めて)倫理はメリットを貫徹出来るのか。
出来ない。と考えるべき、いくつかの知見があります。
実際には、倫理と罰には非常に密接な関係があります。
しばしば、罰を全く想定していない倫理は、タダ乗りする人たち(フリーライダー)に、メリットを搾取的に吸い尽くされて、リソースが枯渇して、倫理としては機能しなくなります。
これは、
「ある主体同士が、何らかの制約に沿って、一人でやるのとは違う行為をなす」
(結果、ゲームのルールや、倫理の価値や、道徳の規範のような、何らかの約束事があるのと似た状態になる)
という、実験経済学・行動経済学・ゲーム理論ではよく研究されてきたテーマです。
当然、その後、人々は誰も倫理なんかやりたくなくなるでしょう。
頑張って耐えて作った、せっかくのメリットの貯水池が、盗人たちに使い物にならなくされた。
「もう一度作れ」? また使い物にならなくされるのに? 誰が盗人のためにわざわざ頑張らなきゃならねえ? 嫌だね。
そういうことになる。学習的無気力。
2_3_2.優しさで搾取を容認すること自体、実はモラハラの一パターンである。身に覚えがあるだろう
ちなみに、そんな搾取者がいるのに、なおも倫理が機能を続けているときは、優しい犠牲者が踏ん張っていることが多く、そういう人たちが絶滅するまで、問題は明るみに出ません。
が、要するに持続的な犠牲者がいますし、いつかもっと破局的な犠牲が生じます。
だから、倫理から罰を完全に排除することは、倫理を崩壊に導く振る舞いなので、実はだいぶマズイ。と言えます。
それどころか、罰を忌むのが優しさなら、搾取を許して自壊するのも優しさだ。
優しさは、優し気なオーラを漂わせているが、だからこそ、実はかなりヤバイ代物なのです(少なくともこれをそのまま素通しする訳にはいかない程度には)。
罰を前にして、眉に唾を付けるのは、まあいいでしょう。
それは実は攻撃性の発散、八つ当たりでやっていることも多いのだから。
だが、実は、同じ話は、優しさにも当てはまるのです。
「その優しさによる振る舞いは、実質的には、見て見ぬ振り、すり替え、誤魔化し、逃げじゃないのかな。
それは事態を善くしないし、むしろ破局に招く。つまりは事態を概ね最悪にするように見えるが…
え? それでも嫌だから嫌だ? そうなるとそれは倫理の話じゃなくて、本当は快不快の話なのか? じゃあ、こちらとしては、聞けないなあ」
こういう話は避けがたいように見える。
公共一般にデメリットをもたらすような、そういう意味では倫理として機能していないものを盾に、「これをするな」と言う。
実はこれは、ケアの倫理一般をダシにした、モラハラの一パターンだ。ということになってしまいます。
マジかよ! そんな罠が!
(実際、ケアの倫理一般をダシにしたモラハラというのは、いわゆる毒親が極めて頻繁に使うやつです。「あなたのためを思ってやっているのだ」というやつです。常套手段と言ってもいい。要するに、そういうことなんですよ)
2_3_3.優しさが非常に要求される状況で、神経質になり、ちょっとのことで直ちに物理攻撃する。というのはありふれた話である
あと、昔動物を飼っていた人なら覚えがあるかもしれませんが、出産直後の母犬や母猫は、赤子を守るため、かなり神経質になっており、ちょっとのことで直ちに物理攻撃してくるものです。
(最近は、管理出来ない、望まない妊娠を避けるために、まず犬猫の避妊や去勢をするよう保健所に言われることが多いであろうと考えられるので、こういうこともあまりなくなっているのでしょうが)
「ケアの倫理一般が、危害というものを一般に忌避する」という話、このように非常に顕著な例外がある。条件もかなり明らかだ。
赤子を保護する養育者の性向が「善い」という話を肯定する以上、養育者が自分と赤子の危害を退けるために、ちょっとのことで直ちに物理攻撃する性向も、「善さ」の延長上と捉えざるを得ない。
ここは誤魔化してはいけない。ここを誤魔化すと、襲撃者から自分や赤子を守ることすら出来なくなる。それはふつう、極めて強く望ましくない、忌まわしい話だ。
2_3_4.罰を常に否定するのは、要するに「見て見ぬ振り」である。罰は、しばしば、「止める」「思い知らせる」時に、やはり、要る
まあ、そんな訳で、「罰」そのものが「悪い」わけじゃない。
それに、罰を悪者にしていると、いつか依って立つ倫理は崩壊する。
なので、そういうことをすべきではないし、「見て見ぬ振り」をすべきでもないのだ。
という話をしたいのです。
要は、
「あることを止めさせて、「それはダメなことであり、やってはならない」と心の底から思わせないと、周囲の利害関係者たちとしては、ヤバイしメチャクチャ困る」
という状況の際に、
「止めること」「思い知らせること」
は避けがたい。
このプロセスがいわゆる罰というやつであり、そして「止めること」「思い知らせること」こそが、罰の極めて大きな目的でしょう。
罰は、攻撃性の発散、八つ当たりではない。そんなものは罰ではなく、罰と称したただの攻撃である。
もちろん、心を鬼にすることは避けがたく要請されるが、鬼畜になることは別に要請されてなどいない。
鬼畜になりたいのは、そいつの勝手だろ。倫理をダシにするんじゃあない。
2_3_5.近代刑法の話をしなきゃならんのでしょうが、省略します
(本当はこれ、突き詰めれば
「刑罰レベルの罰は、刑事訴訟の結果としてのみ与えられる。
そしてそれは、役所である警察や検察や裁判官や刑務官以外がかかわりあいになってはならない。
私人がホイホイと刑罰を下すと、それは私刑(リンチ)である。
これを素通しすると、住環境における治安や、個々人の身の安全は、報復合戦でメチャクチャになる。
だから、ダメ「ということにします」。
役所としては、これは政策的都合であるため、いかなる私人も私刑をしなくなるその日まで、どこまでも徹底的にやります」
という、近代刑法のある種の話にもかかわってくるが、今回はすっ飛ばします)
2_4.倫理に照らし合わせてダメなことを、なおも罰せず素通しすると、どうなるか
で、
「罰は悪い」とか、
「罰は悪者扱いであるから社交に反する(これそのものはそうなんですが、じゃあ「社交のために罰は『常に』止めろ」という話には別にならないんですよね)」とか、
そういう話を素通しすると、ある大きな問題が出て来る訳です。
何か。
ある人が本当に
「止めさせて、「それはダメなことであり、やってはならない」と心の底から思わせないと、周囲の利害関係者たちとしては、ヤバイしメチャクチャ困る」
レベルのことをやった時に、周囲の利害関係者たちが
「止めることも、思い知らせることも、要するに罰の機能に他ならないので、しない」
などということをしたら、どうなるか。ということです。
もちろん、その人は、何も「悪い」と思わんわなあ。
ある意味、思い知らせるための手段として、罰がある。
そのための強い道具の一つを、周囲の利害関係者たちは、自らの手で一個、使用不能にしている訳です。
この状態で説得して、うまくいっていればいいのだけれど、そうならなかったらどうなるか。
思い知っていない人は、「思い知らせるだけのレベルに達していない、閾値を超えないから実質無意味な説得しか出来ていない人たち」のことを、まあナメるし、まともに聞く気になんかならんわなあ。
で?
「同じこと」を、周囲にとってみれば「同じ過ち」を、そりゃ当然繰り返しますよ。
やめる訳がないでしょ。「悪い」と思い知っていないのに、納得の行かないまま、自粛すると思うか? まず「ない」話でしょうね。
周囲の利害関係者、またしても、困る。
しかもこれは見えていた地雷だ。これをそいつが連打しているのだ。それを自分たちは止めないようにしている。要は、止められていない。
明らかに再現性があるのに、止められない。というのは、意志力や努力を大幅にへし折ります。
問題がある。そしてそれは再現性があるから、うまくやればマニュアル的に解決出来る余地がある。
なのに、その解決の試みすらしないという、だいぶ不自然な無理を己に強いているんだからな。
そりゃストレスフルにもなるし、やる気も削いでいくわいな。
2_5.「攻めのモラハラ」を介しての「守りのモラハラ」の読み解き
「攻めのモラハラ」の話は、倫理と、倫理ではないもの(例えば前例主義や独自解釈)を混同することで、倫理の面をして罰を与えることでした。
「守りのモラハラ」の話は、倫理を、さも倫理でない何物かのごとく粗略に扱い、罰を受けない、ダメなことを止めない、やってることのヤバさについて学ばないことです。
後者が、色んな意味で、前者をひっくり返したものであることが分かりますね。
しかも、前者も後者も、どちらにしろ、マズイ。ということも。
2_6.「守りのモラハラ」のダメなループ
「守りのモラハラ」は、あるダメなループを、かなり容易に引き起こします。
「自分は悪者扱いされる謂れはないから、絶対に悪くないし、絶対に謝らないし、相手に責任を取るつもりはないし、それで悪者扱いされるのは真っ平御免だ」
というやつです。
いや?
相手への責任は、ちゃんと取って下さいよ?
その手の応答責任が、「誠実」の徳の、かなり重たい要なのだし。
相手に責任を取らない人、「悪者扱い」云々以前の話で、「誠実」の徳に鑑みて、はっきりと、「悪い」んですよ。
「私は現に情報を秘匿されて、しかもそれで不利益を被っているんですよね。
だから、これについては、ちゃんと回答する責任があるんじゃないんですか。
なのにこれを正当化しようとしておられる? 無理では?」
と言われて
「誰が悪者扱いなんかされてやるものか。責任など絶対に取らない」
と返したら、そりゃあ「無責任」だし、倍「悪い」し、倍「責任を問われる」でしょう。
「守りのモラハラ」を続ければ続けるほど、このようにして、周囲からはどんどん追及の声が高まっていく。
どんどん、こじれる。
2_7.「攻めのモラハラ」と「守りのモラハラ」を、どうやって自ら防ぐか
ちゃんと
「何が善く、何が悪いか」
つまり
「何が公共へのメリット全般に資すか、何が公共へのデメリット全般に資すか」
ざっくりでいいから説明出来ていないと、そりゃあ説得なんか出来っこない。
そこは、伝える側は、ものすごく気を付けなければならない。
これが出来ないと、その説得は直ちに「攻めのモラハラ」と堕す。
(ちなみにこれは「八方美人的に効くもの以外は、倫理ではない」という話ではない。
部分的にでも効けばいいし、最終的に全体としてプラスになっていればいいだけだ。
「八方美人的に効く倫理」があるかどうかを検証している倫理学者たちももちろんいるだろう。
が、私はこれにあまり与しない。鉱脈としてはあまり有望ではないように見える。
歴史的にも、これをやろうとして失敗した事例はたくさんあり、宗教戦争もある程度はそういうことだ)
それはそれとして、
「自分を説得出来ない倫理は、現実には倫理ではない」
という姿勢は、これは極めて危険な態度だ。
それで自分の中に残った倫理は、実質的には独自解釈と区別出来ないもんな。
外に、倫理は、おそらく、ある。単に自分が思い知っていないだけで。
そういうのを蹴っ飛ばして、ただで済む可能性、あんまり高くない。
蹴っ飛ばされた側は恨みに思うし、蹴った側をまずは「倫理の分からぬ邪悪生物」と見なすからだ。
これをやっていると、それは直ちに「守りのモラハラ」と堕す。気を付けましょう。
***
自分が
「これをやると公共へのメリット全般に効いてくる」
すなわち
「倫理である」
と思っているものの説明は、ちゃんとしなければならない。
それが
「そんなものは公共へのメリット全般においてマイナスになる。
そしてそれは、公共へのメリット総体にプラスになる度合いをもってしても、無視してよい類いのものではない。
損なわれる量が多いか、代替出来ない領域のメリットが損なわれているか、その他何らかの意味で、座視しがたいものである」
と反論されたら、たとえどんなに嫌でも、それは真面目に検討しなければならない。
自分の理解している以外の価値観も、上記の意味で、実際に倫理である可能性はある。
それは、たとえどんなに嫌でも、認めなければならない。
公共のために役に立つかどうかということは、好き嫌いとは直接かかわって来ない。
要は、自分の感性における好き嫌いは、自分以外の倫理を判定するには、まるで関係ないと見るべきだ。
自分の感性がどう言おうとも、自分以外に通用しているなら、そしてそれが前例主義だの独自解釈だのではなく、公共へのメリット全般に資すると認められるなら、それは、現に、倫理なんですよ。
そういう倫理があることを、全面的に受け入れはしなくても、認めざるを得ない。
それはつまり、そういったものに起因する罰があったら、
「それはあんさんらの前例主義とか独自解釈とかやろ。そんなものは倫理やおまへん。まして罰とか、ホンマええ根性しとんな」
と突っぱねるか、
「自分は採用しないし、認めたくはないが、それが倫理であることは確かだ。
なので、まあ、この実践は、止める。
今後はそこに気を付けた方が、公益には資するのだろう。そこは認めましょう。つまりは部分的には受け入れるということだ」
とするか、差し当たりはどちらかをやるべきだ、ということです。
***
モラル(道徳性)をモラハラのダシにされないか、あるいは手癖でそういうことをしないかということのためには、「倫理道徳とは何なのか」という話は、避けられない。
それは、「どのような実践のプロセスが、公共へのメリット全般に効いて来るか、あるいは公共へのデメリット全般に効いて来るか」という話と、ほぼ等しいように見える。
そういう「倫理道徳であるかどうか」は、自分の好き嫌いとは基本的には関係ない。それは、「ある」ものだ。
それは、嫌いだろうが、正当性のある、「ある」ものとして、ちゃんと認めねばならない。
そして、ここが肝心な話なのだが。
たとえそれに基づく罰があろうとも、それが倫理なら、今自分のやってることは止めなきゃならんし、やはりそれは公共の利益に資する、と認めねばならない。猛烈に不愉快なことであるが…
2_8.留意事項追記。そして、未来へ…
なお、政治運動家がよくやるパターンですが、「他人が、自分の考え方を、納得尽くとかすっ飛ばして、つまりは高圧的に、どうこうして来る」ことそのものは、「自由」の倫理を猛烈に侵害します。
「自由」の倫理の観点からすれば、「悪」としか言えないでしょうね。
自由の倫理を越えての対人的な「誠実な」約束事を結ぶなら、納得尽くを吹っ飛ばしている時点で、「誠実」の倫理においては、合意・同意の内実を侵害で汚す類いの、「悪」としか言えまい。
いずれにせよ、お話にならない。
だから、そこは断固として突っぱねましょうね。
いじょうです。
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