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随筆(2022/1/26):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(2-4FIN)

2.「あなたは第二次性徴になりましたか。ではたった今から反抗期の子供に接する親のごとく振る舞え」と盗人猛々しくも要求する人たちと、その報い

2_1.「反抗期の子供を社会に送り出せるようになる」ということが出来ていれば、恋愛は圧倒的にスムーズになるだろう

非常に横着な話をすると、「反抗期の子供を社会に送り出せるようになる」ということが出来ていれば、「献身」「公正取引」「対等な人間関係」「家庭的な共同生活」「親のパターナリズム」全部出来ている訳だ。
例えば、対等な人間関係親のパターナリズムすりあわせ、明らかに難しいが、出来ていると「反抗期の子供を社会に送り出せるようになる」。

若いうちは
「こんなことそんな簡単にできるか。というか、人間にできることじゃない。超人的な要求だ」
と思うのではないだろうか。
おそらく、かつての自分に今までの記事のような話をしたら、2秒で発狂するだろう。

だが、実は、かなりたくさんの親にとっては、こんなもん出来ていて「当たり前」だ。
猛烈に高いハードルだが、俺の親は出来ているから、俺は社会に出られた訳だしな。

2_2.しかし、「反抗期の子供を社会に送り出せるようになる」ということが、あまりにも安易に期待されてはいまいか

で、ここから地獄の話になる。
何か。

前回も書いたが、「反抗期の子供を社会に送り出せるようになる」ことが、「色恋ロマンティック特大感情」のフェーズで、しばしば暗黙に、しかも安易に期待されている。

これは、無理な要求だ。
だって、「あなたは第二次性徴になりましたか。ではたった今から反抗期の子供に接する親のごとく振る舞え」って言ってるんだぞ。
さっきも書いたけど、若いうちにこれをやるの、無理な要求なんですよ。

2_3.数十回もの人格の書き換えが、ただで済むわけがない。またこれを平然と相手に要求出来るわけでもない

自ら人格を書き換えるのは、精神的には自殺を決意して自殺するのにとても近い。
これまで、「やれない自分をやれる自分に書き換える」という、人格の書き換えの話を、25工程(くらいか?)してきた。
つまりこれは、自分に25回の自殺を要求された。ということに限りなく近い。

「自分はこうではなく、こうならねばならない」
と言いながら自分でやる成長には、自殺に準ずる抵抗を帯びたものであり、また自殺を行うのと酷似した性質の自暴自棄に支えられている。
「あれができるなら、今の自分は消えてしまっても構わない」。そんな気持ちでここまで来ているのだ。
数年前の自分と会話したら、あまりの連続性のなさに、同じ人間だと思えないだろう。
ということは、いろんな人の人生の中で、かなりありふれたことだ。
「俺もいつかはこんなんなるのか!? 死ね!!!」
「俺はかつてこうだったのか!? 死ね!!!」
ってなっちゃうよ。
目に見えるようだ。

***

それでも、成長しなかったら、困った現実に対処も適応もできなくなり、本当に死ぬのだ。
だったら、死の苦痛より成長痛自ら選択して、これを受忍していくしかない。
いずれにせよ、自分のペースで、やるしかない。
できれば、他人に安易に求められた数十回の人格の書き換え、勘弁してほしい。自分のペースもへったくれもない。最悪だ。

2_4.自分や相手は、相手や自分に数十回の人格の書き換えを求めていられるほど、大した存在か? そういうのを安易に要求するの、盗人猛々しさの極みではないか?

で、ここからの話はさらに最悪だ。

こんな風に、数十回も人格を書き換えるという、多大な犠牲を払って大冒険を済ませた英雄である自分にとって、目の前の相手付き合うに値するように見えるか?
また、逆の場合、自分は相手に数十回の人格の書き換えを求めていられるほど、大した存在か?

ふつう、そうじゃないよね。

じゃあ、
「何様だコイツ。盗人猛々しい」
という気持ち、自分か他人の中に、抜きがたく生えてくるよね。

2_5.ほんものの「反抗期の子供を社会に送り出せるほどに練り上がった」若者が、そうでない若者と恋愛をしたら、「こんなに頑張って来たのに、こいつじゃ見合わない」とはなる

もし、
「あなたは第二次性徴になりましたか。ではたった今から反抗期の子供に接する親のごとく振る舞え」
みたいな、暗黙の安易なメッセージを素直に受け入れたとしましょう。

そうして、
「反抗期の子供に接する親のごとく振る舞えるようになった」
としましょう。

で、その上で、
「反抗期の子供を社会に送り出せるようになった」
精神構造の第二次性徴の子供
が、心身ともに「ただの」第二次性徴や反抗期の子供と接したとしましょう。

するとどうなるか。
表向きはちゃんと付き合えていても、人格的には大人と子供ほどの開きがあり、全く対等でない
から、
「内心では対等ではないと思っている」
か、
「そこまでまともに関わり合いになりたくないから、どうでもいい」
かの、いずれかになる。

それに、
「相手に、第二次性徴直後でありながら、暗黙的には反抗期の子供を社会に送り出せるような成熟を求める」
という非人道の塊のような欲望が、
「反抗期の子供を社会に送り出す権能がない」
相手からお出しされたら、まあ
「何だこいつ。盗人猛々しい」
とはそりゃあ思うわなあ。

***

まあ、「反抗期の子供を社会に送り出せるようになりたい」ですね。これが出来ていれば、お見合いはかなり磐石に通るだろう。
だが、そういうのを暗黙的に要求する、本人は「反抗期の子供を社会に送り出す権能を特に持たない」相手を、お見合いで気に入ることが果たしてありうるのか。
上のイラッと来る感じを覆すほどの、余程の好意があるということだ。
ぶっちゃけ、そんな夢物語、無理では…?

2_6.「相手に合わせたスペックまで成長すればよい」という話でもない。結局それでは「自分のペースではなく他律的にスペックを上げろ」という要求にすぎないからだ

また、これは
「相手に合わせたスペックまで成長すればよい」
という話ではない。
これでは結局
「自分のペースではなく他律的にスペックを上げろ」
という話にすぎず、
「目の前の相手のスペックを、当事者のペースではなく、外野が余儀なくできる」
という話から一歩も出てないからだ。
これを正当化して余儀なくできるほどの根拠、何もないですね。

2_7.「適切な時に適切なことをする。相手を見ていれば出来るだろう」みたいな甘い話では、地雷ボンボコ踏んで、その後一生後遺症引きずるだけだ

「そんなにコストガチガチに払うの、アホでは? 適切な時に適切なことをする。相手を見ていれば出来るだろう」
とかいう人もいる。
私はこれにあまり与しない。

「必要な時に必要なことをするしかないし、そうでないことはしなくてよい」
という話は、一面では正しい。
だが、自分がもしその鍵を持っていなかったら、それは
「鍵を持っていないことが発覚した時点で、早晩ジエンドになる」
ということだ。

ひょっとしたら、相手は内心舌打ちしながら、それでも付き合ってくれるかも知れないが、つまりは相手には

「この盗人猛々しいやつのために、下らない関係のために、自分が耐えている。許しがたい。ノシつけて報わせてやる。
そのためにはいつか、人格や地位をガリガリ否定して、ショックで呆然としている隙に、あわよくば金品巻き上げて、味のないガムになるまでしゃぶりつくして、そうして捨ててやる。
これは完全に合法であり、当然の権利である」

という動機を持たれて当然。ということだし、こういう動機を持たせたのは他ならぬ自分だ。ということです。
そりゃあ、人格を否定されるし、金品も巻き上げられるし、搾取されるし、捨てられるの、かなり当たり前と言えるでしょう。
絶対に正当化はしないけど、世俗世間でこれが避けられる訳がない。
そして、ふつうはこんなことに警察は出張ってこない。民事不介入。

***

ましてや、「相手のことは見ていれば見える」という話、心得違いもいいところだ。

どんなに丁寧に見ても、見えないところはかなりある。これは弁えなければならない。
まして、そこが相手にとって触れられたくないクリティカルなポイントだからこそ、念入りに隠されている、ということも多々ある。

実は、これをすると、悪意はないが、執拗で粘着質な注意力を別に持つ訳ではない人が、これを踏んでしまって、大事故になるんですよ。
もちろんこれは、見えずに踏んだ人や、隠して踏まれた人の意図とは正反対だ。
まあ、悪意のある人に思いっきりフルスイングで起爆させられることは避けられているんだから、それはそれでいいんだが…
それはそれとして、事故るリスクはゼロには出来ないし、むしろこういう場合には、逆効果として働くことは避けられないんです。

それでも、悪意ある人にフルスイングされるよりはもちろんマシです。
ということで、しばしば皆さん、このリスクを甘受しがちだ。
そして、しばしば皆さん、いざ実際に起きた事故は甘受出来ない。キレる。

ということで、他人の地雷を、見えないまま踏むことが、世俗世間的にはよくある。
これを、仕草だけで避け切るのは、非常にリスクが大きい。その読み解きが正解である可能性は、世俗世間で言われるよりはるかに低いからだ。
つまりは、それは、「見て」どうにかなるところではない。
そうではなく、人間理解を深めて、そこから連想して、備えなければならない性質のものだ。
あるいは、自分で自分の地雷を理解して、あらかじめ相手に
「いかなる理由であれ、その話はするな。容認できないし、そこからいかなる会話も成り立たない」
と伝えておく
かしなければならない。
(何度も言っている「ルールブックの開示」ですね)

そんな備えをする気になれない?
なぜそんな目に見えるような負け戦を?
なんでそう変な方向にばかり思い切りがいいのですか?

(森薫『エマ』)


2_8.そこまでキメキメにせず、いい加減にやるのもいいかも知れないが、それはちゃんと「遊び」だと明言しないとダメですよ

自分のやっているそれが、本気か遊びか。という話は、少し真面目に振り返らなければならない。
本気の恋なら、それはまあ、大事なものだし、ずっと続けたいものだ。出来れば破れたくないですよ。
だったら、ヘマをしないように、備えなきゃならん道理だ。

備える前に始まった気配があったなら、そりゃあやるっきゃないけど、ならばなおさら気を付けてやらなならん。
いずれにせよ、あんまりいい加減な気持ちでやるものではないはずだ。

そうではなく、破れたらさっさとやめる、という距離感でやっている、スナック感覚の遊びなのか?
それは遊びとしては必要なリスク感覚かもしれないが、それ、ちゃんと「遊んでよ」と言いましたか?
それで同意した人としか遊んじゃダメなんですよ。そうでなくて、嘘誤魔化しでなんかどうにかするの、しばしば合意として成り立たなくなるから。

まさか「これはガチ恋です(嘘です)」とかやってないか?
「私のことは遊びだったのね。しかも本気だと騙したのね。
侍の本懐とは、ナメられたら殺す!! それに尽きる」
モードで惨殺される可能性はかなり高い。

(河部真道『バンデット』)

それを絶対に正当化はしないけれど、これ、世俗世間的にはワイドショー的に扱われて、
「そりゃあそうもなるだろうよ」
と陰口叩かれて、2~3ヶ月後には他のニュースにかき消されてスルーされてるやつだ。
というのももちろん分かるでしょう。
自分に置き換えて考えると、急にそこの視野がゼロになるのか?
ゼロにするといつかダンプカーに撥ね飛ばされて死ぬぞ。
死ぬな。やることなすことを粗末にするな。
ということは言いたくもなってしまう。

3.助言者が色恋沙汰で悩める相手にマウンティングを持ち出すのを、さも当然であるがごとく考えない方がいい

3_1.そのアドバイス、目の前の人の成長を促すのではなく、助長して引っこ抜いているのではないか

そんな訳で、自分のペースではなく、他人に求められたスペックやオーバースペック、極めて歓迎すべからざる話だ。

***

第三者の誰かが、他人のスペックについてアドバイスできることは、あくまで

成長しなければ目の前の問題に太刀打ちできないなら、成長した方がよい。
そこが突破すべき問題として優先順位が低いか、あるいは優先順位が高くてもコストがおよそ払ってられないほど高すぎるのなら、やる気になれないだろうし、無理強いも出来ない

くらいのことしかないんだよな。

やる気になれない相手に、無理強いしても、やれないものだ。

***

あるいは、万が一やれたとしても、そのスペックは望んだものではない。呪われた才能だ。
そういう呪われた才能が、自分を潰すことすらある。こうなったら最悪だ。
自分の身だしなみで、意図通りに相手が興奮したら嬉しいが、自分の容姿はコントロールできないものなので、それで意図に反して興奮され脅かされるのを嫌がる人は、かなりいる。たとえばそういうことだ)

こんな呪われた才能が大事だとは到底思えないし、何ならこんな呪いを自ら植え付けるよう余儀なくさせられた自分が、呪わしくてしょうがなくなってくる。
これでは、その人は、成長したのではなく、助長されて引っこ抜かれたのと同じだ。

そういうことを、相手に要求しちゃいけないんだよな。

3_2.「資格者である自分が、資格者でない相手を、選り取り見取りで選ぶ」話、パターナリズムへの手戻りに過ぎない

この話をすると、

「あなたにその格があるなら、後はこちらから選べる。選り取り見取りだ。
だから、スペックを上げることは正当化されるし、やらないことは非難の対象であろう。それが嫌なら、やるしかないですね」

このようなことを言ってくる人、しかも婚活仲介のプロが、世の中にはいます。
かなり最悪である、と言えるでしょう。

「資格者である自分が、資格者でない相手を、選り取り見取りで選べたら、嬉しい」
という話、かなり「ペニ〇、そして権力」って感じですね。
これ、「権力があれば好きなように出来る」って言っているのとどれほど違うのか?
そういうの、要するに事実上、相手をナメてるということしか意味していない。
結局は養育者のパターナリズムに留まっているとしか解釈しがたい。
悪い家父長制を再生産するのをやめろ。そういうところだぞ。

ぶっちゃけ、その手の発言をする人のこと、
「やっぱこの人、「幸せな」結婚には興味がなく、結婚の「事実」、「数」だけが大事なのかなあ。
他人の幸せなどどうでもいいのに、他人になんかさせたい人の話、およそ聞いてられないぞ。マジで何なんこの人」

という、かなり冷めた気持ちで聞いていますね。

他人に幸せな結婚をさせたいのか、単に雛人形を並べて嬉しくなりたいのか。
後者ならやめた方がいいですよ。
は人の形をした人形じゃない。

3_3.他人に責任を取れない「経験者は語る」アドバイスで、自分の経験を他人に再体験させて、成功したら満足したり、失敗したら見捨てるような人、最悪だ

というか、この話の何が最悪かって、色恋沙汰色恋沙汰への助言に、平然とマウンティングを持ち込んでいるからです。
助言者が色恋沙汰で悩める相手にマウンティングを持ち出すのを、さも当然であるがごとく考えない方がいいですよ。
立派であることは広く求められるが、偉そうであることは何ら求められていないのだから。
これは色恋沙汰当事者もそうだし、助言者だってもちろんそうです。

***

ぶっちゃけ、
「下ごしらえ抜きで、
五里霧中でやってきて、
結果的には出来たけど、
やり方は分からないし、
肝心なところでは再現性もないし、
当然他人にはきちんと引き継げないし教えられないんだけど、
自分に自動的に先輩や親や教師や遺産承継業者の資格が備わっている、
なぜかそうナチュラルに思い込んでいる、
仮にも経験者の専門家である人たち」

が、上のような話をしているのだと思うと、本当に
「かあ~~~っっっしゃあ~~~らくせえ~~~っっっ」
という気分になりますね。

***

「経験者は語る」?
このフレーズ、好きな人が多いけど、座学や下ごしらえをナメてかかる、アセスメント(事後評価、反省)をしたがらない人がよく言い訳に使うんですよね。
自分がそうでないか、かなり気を付けた方がいいですよ。
このフレーズを出した時点で、あなたは既にかなり強く疑われている。
「この人、経験はあるかもしれないが、別に引き継ぎは出来ないのに、なんか引き継ぎ出来ると思ってる、傍迷惑ドヤ顔先輩風なのではないか?」

という。
もしそうなら、あなたに何の信頼もないから、そんな話、ふつうに鼻で笑われますよ。

「溺れる経験を積んで生き残ったやつだけが泳ぎのスキルを身につけられる。
フォームの座学やストレッチなどは、泳ぎたくないやつが泳ぎたくないことを誤魔化すための惰弱の言い訳に過ぎない。
溺れて死んだやつは尊い犠牲である。
お前も生き恥晒しているよりは、溺れて死んで尊くなれ」

という話、メチャクチャバカに見えますよ。
その、他人の死体でピラミッドやパルテノン神殿を作りたがる美意識、確かに世の中にはあるんだろうけど、例えば『聖マッスル』で第一話で人間城の王と共に「うるせークソデブお前が死ね」と切って捨てられているくらいの、絵に描いたようなクソダサ価値観なんですよね。

***

「ぶっつけ本番」
「下ごしらえなど、実践から逃げるやつの、惰弱な時間稼ぎ」
という文化、明確にありますよね。

これ、ご本人達に対してというよりも、その周りのいい歳した大人たちのことを考えると、かなり暗澹たる気持ちになりますね。

「下ごしらえをさせない、できないようにする」引き継ぎ、何も評価しない。訳が分からない。
引き継ぎの基本型は、プラスの財を後生大事に引き継ぐもので、「させる、できるようにする」という文化も当然その中に含まれている。
で、マイナスの負債を後生大事に引き継いで、子孫に背負わせるの、どういう引き継ぎか?
背負わなきゃならん道義的責任がある? 誰に? 第三者がいない、渡す側と受ける側だけの話なら、ちょっと考え直した方がいいですよ。その道義的責任は、ひょっとしたら対外的には成り立っていない可能性すらある。
何なら、渡す側からの支配の手段である可能性すらある。受ける側、そりゃあ受けたくないだろうよ。
事程左様に引き継ぎが出来ていない以上、教育の実践そのものには失敗してきたんだな。とふつうに受け取りますね。その姿勢からはそのように判断するしかない。

その中でもナントカまともに育った子供は、痛々しくて可哀想だ。
歪んでしまった子供は、シャレにならないレベルで、痛々しくて可哀想だ。

「憐れむな」?
それを言っていいのは当の子供だけだ。
教育に失敗した親が、口が裂けても言うこっちゃねーだろ。

***

確かに、下ごしらえは、実践に結びつかなきゃ、「結果」的には価値はないですよ。実践はいつの日かなされなければならない。
そして、実践に結びつく下ごしらえは、それほど多くはない。試行錯誤の大半は無駄だし、実践に結びつくことは想定されていない下ごしらえもたくさんある。

で? 下ごしらえそのものを蔑んでやしまいか?

それは煮物じゃないぞ。刺身だ。
「風に晒して冷ましてやった」?
煮物じゃなくて刺身を冷ましているムーブ、端的に言って、「無」では?

***

ちょっと脱線しますが(いつも脱線してるだろ、という批判は甘んじて受け留めます)、試運転休み遊び無駄だと思っている人にとっては、試運転や休みや遊びのためになされる下ごしらえは、ことごとく無駄に見えることでしょう。
でも、試運転しなければ傾向や対策を洗い出すのは難しくなるし、休まなければ気力体力は回復しないし、遊ばなければ認識はどんどん硬直化していき、何の気づきも改善もなくなる遊びが持つ、硬直した認識を拡張するいろんな方向性については、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』でいろんな考察がなされています)。そういう意味では、全部意味があるんですね。

(もちろん、こんな説明すら、所詮は実践の立場からのものの見方だ。
試運転には試運転の、休みには休みの、遊びには遊びの固有の世界があり、論理がある。
実践はそれを盗人猛々しくも横取りしているに過ぎない。植民地主義的とすら言える

3_4.発達を諦めさせられて子供のまま大人にさせられた経験者には、「経験者は語る」ムーブをやりたがるところがある

精神構造としてどうしても要請される成熟を達成する前に、社会構造の要請に従ってテキパキと未熟なまま大人にならなければならなかった大人たち、たくさんいます。というか、ふつうはそうでしょう。私もある程度はそうだし。
なので、私は彼らの恨みを決して甘く見ていません。

***

「社会構造の要請を劣後させてでも」
「精神構造の要請を優先して」
発達しようとする人、もちろんたくさんいます。
そりゃそうだろうな。
個々人にとって大事なのは、社会というより、ふつう自分自身の喜怒哀楽なのだから。

で、モヤシのように社会構造の要請によって強制的に成長させられた人たちの恨みは、どういう形で発露されるかというと、個々人の成熟を目指す人たちの発達のプロセスを、まず
「お前の発達は社会構造の要請を無視しているから無意味」
と言って非難ないし妨害する
ところから始まるのです。
実害? デカイよ。そりゃあ。
最終的には叩き潰すことが目的なんだから、叩き潰された側にとってその害が小さい訳がない。
むしろ、人生を左右するくらいのデカさヤバさがあると言っていい。

***

もちろん、精神構造の要請といっても、ある程度は社会構造とは絡み合う。
小学校とかで仲間内においての立ち位置は社会的に重要だし、それそのものが既に精神的な発達のプロセスだ。
そもそも、親子関係だってそうだ。生まれる前から、生まれた瞬間から、それは、ある。

もちろん、哺乳類以前をある程度遡ると、そういう話でもなくなる。そういう動物は子育てをしないんで、哺乳類等のような親子関係がない。縄張り争いや繁殖が問題になってくるまでは、社会構造とは何ら関係ない、そういう精神構造というのも当然ある訳だ。

が、こと哺乳類、別して人間においては、この二つは時期的にはほぼ同時である。ということは押さえておかねばならない。
だから、社会構造の要請を「完全に」無視していたら、そりゃあそんな精神構造の要請とやらは達成できない。
だから、「お前の発達は社会構造の要請を無視しているから無意味」論者の言ってることには、そういう意味では一理ある。

だが、二理はない。
そんなものは、要するに、他人の発達の邪魔だ。

そんなことを、しちゃいけないんですよ。

3_5.安易に「バーチャル反抗期子供親受肉第二次性徴子供」にならないようにしたい

他人や社会からの高望みを真に受けて、自分がそれをうかつにも実現して、「バーチャル反抗期子供親受肉第二次性徴子供」になると、目につく全ての「バーチャル反抗期子供親受肉第二次性徴子供じゃない人」が大嫌いになるか、軽蔑するかになりがちだし、世を呪うようになる。
これは、おそらく、避けがたい。

だから、高望みはやめよう。という話に落ち着こうとしている。逆に周囲に高望みをされても、そんなん受け入れられん。と突っぱねても良いのだ。

「反抗期の子供を社会に送り出せる親」になるための、べらぼうなコストを、盗人猛々しい人達が盗んでいく。
当の「反抗期の子供を社会に送り出せる親」はこれを受忍するかもしれない。親だから。
だが、嫌なら受忍する謂れはないし、受忍したくないなら、そんなのにならなくてもいいんだ。
本当は、そういうことなんですよ。

3_6.その上で、あくまで自分のペースで「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」を身に着けることは、色恋沙汰のためにも、自分のためにも素晴らしい

その上で。
他人に要請されたとしても、あくまで自分のペースを死守して、「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」身に着ける。
これは、もちろん、素晴らしい。

これまでした話は、要するに色恋沙汰のために効くもののロードマップなので、もちろん色恋沙汰のためを思えば、素晴らしいに決まってるのだ。

それに、ふつうは途中までで、そこまで高度な要求をしている訳ではない、「合致する」相手と出会えることでしょう。
だから、この旅路は、目的だけ言えば、おそらく思ったより早く終わります。

***

そして、ハードルの高い相手に恋をして、報われなかった、色恋沙汰に直ちに効かなかったとしても。
これらは全部、世界につまづかずに泳ぎ切るのに、非常に有効な徳ばかりだ。

人格を書き換えることは、死ぬほど辛い。
だが、世界につまづくことは、倍辛い。
死ぬほど辛い上に、ふつうは、それでも、生きて行かねばならないからだ。ふざけるな。いい加減にしろよ。

世界につまづかないために寄与する徳は、こっそり鍛えていけばいい。
ある日世界につまづいた正にその時になって、死ぬような思いで超高速で人格を書き換えるのではなく。
自ら世界のつまづきの石を踏み越えていくために、ゆっくりと超えて行けばいい。
そうすれば、人格を書き換えるための成長痛ゆるやかなものになる。
何よりそれは他人や世界に余儀なくされたものではなく、ある程度納得尽くで自分がやったことになる。
こうなればショック態勢はまるで違ってくるし、苦痛の度合いもまるっきり違う。

そういう風にして、あくまで自分のペースで、世界のつまづきの石を、ゆっくりとまたいで通り過ぎていけばいいのだ。
色恋沙汰とは関係なく、それはあなたに大きなリソースの温存スキルアップ生産能力をもたらし、豊穣な人生をもたらすだろう。
(もちろん、色恋沙汰のために、これを積み重ねてもよいのだ)

自分が、巻き込まれはしても、決して強いられずに、自分の意志でやる。
無理な成長を強いる周囲には
「お外にチャンスがあろうが何だろうが、自分は今はそんな場合じゃない。
なぜか。これこれこうだ。
自分はたった今説明したぞ。まだ分からんのか。
やっとれんし、付き合っとれんわ」

と突っ張る。
これでいきましょう。

長い旅路になるし、それなりのコストがかかるかもしれませんが、たぶん経過における都度のリターンもノシがついてそれなりに大きい。
豊穣な旅になることでしょう。

ということで、皆さん、それぞれ、やっていきましょう。

4.そもそもの色恋沙汰の究極の動機、0番目は、「一人でいると厳しい」という「孤独感」にある。これがないなら、今までの話、全部上っ面に過ぎない

4_1.本人が「一人でいると厳しい」と思わない限り、そもそも本人は自らの色恋沙汰スペックを無理して延ばす動機を持たない

あ、そうそう。
そもそもの話をしなければならないのでした。

これは色恋沙汰なのだから、本人が
「一人でいると厳しい」
と思わない限り、そもそも本人は自らの色恋沙汰スペックを無理して延ばす動機を持たない。

***

の話をすると、
「一人でやってると虚しい」
ことは、本当によくある訳だ。

これを「汚らしい」とは思わない方がいい。
自分や他人の色を「汚らしいもの」として吐き捨てる人に、誰が色の話をしたいだろうか。
今まで滔々と書いてきた素人同士の色恋沙汰のプロセスでは、相手に心を開いたら、色の回路が問題なく開くのだった。
それを「え? きったねえ」と返したら、回路を開いた側はメンタルバキバキにへし折れる。
というか、そういうのがヤだから、そもそも回路を開くことすらしないだろう。
心だって開きたくない。
親しくなったらこの手の仕打ちを食らう
のだから、親しくなりたくもない。
そういう警戒を抱いた、抱かせた状態で、素人同士で色恋沙汰を進めるの、無理な話ではないだろうか。

***

についても、ロマンティック特大感情には、ふつう相手方が要る。

自己愛はもちろん(ふつうは自己嫌悪より幅広く)誰しも持つものだが、「自分自身に恋が出来るほどのナルシシスト」あまりいないだろう。
だって、自分が大事なのは、多くの場合、誰でも出来るのだから。
そんなありふれた行為に、特別なロマンス、あるか?
ふつう、ないよ?
自分が大事なのは「当たり前」なんだから。

自分が嫌いでしょうがなくても、今生きている、というか自殺出来ない、あるいは自殺に失敗し続けている人は、世の中に割といる。
それくらい、無意識レベルで、「自分を完全に破壊することへの抵抗」は強いものだ。ここが自己愛の、みすぼらしいながらも極めて大事な機能だ。

***

さらに、の話をすると、お互い興味のない者同士何となく付き合ったとしても、それは完全に時間の無駄になる。

お見合いでも、お互い興味のない者同士で、最初に顔合わせして、最後までお互い興味がないのに、「よさそうな人だから」という理由で、二回三回、同じ相手とお見合いして、最後に「やっぱり、違う」となってお別れして、時間を丸々無駄に過ごしてしまうことは多々ある。

興味がないなら、二回目はしない方が良いのだ。
お互いの時間は有限であり、縁なき相手は付き合い難い。

そういうことを痛感するためだったら、二回三回、同じ相手とお見合いして、身に染みればよいのかもしれない。
が、知識として知っておくだけで十分なことだろう。
それを鑑みた上で、そういうお互い興味のないお見合い、無駄なことだ。

で、「一人でいても別に厳しくない」人は、ふつう人間に興味がないのだ。
そういう一人の辛さが、そもそも自分の中に芽生えてすらいないうちは、お見合いなんか、やらない方がいいですよ。
人間関係のために、一番大事なところですよ。そこは。
それがないんだから、お見合いで最終的に期待される、夫婦関係の如き深い関係なんか、結べる訳がないんだよな。

そして、もちろんこれは恋愛関係でも何ら変わらない。分かりますね。

4_2.「世界から何も得られない。何をやっても世界に反映されない。自分は、世界から分断されて、独りぼっちである」という、幼児の原始的不安

こうした孤独感「自分と世界や他人たちの関係」の話に寄せると、また違ったものが見えて来る。

***

そもそも、この一連の記事の最初は、「そもそも安全安心でありたい」というところから始まる。

だが、さらに根底には、もっと別のものがある。
それは何か。
おそらく、
「自分は違和感のない生活を送りたい。世界につまづきたくない」
ということだ。

最初のうちはいいのだ。親の家に包まれて生きていることがほとんどだ。
だが、親の家の中でも、いろんなものにつまづいて、違和感も覚えて、第一次反抗期になる。
あるいはその後、そのうち親の家に包まれるだけでなく、その外の世界に足を踏み入れることになる。

世界から何も得られない。
何をやっても世界に反映されない。
自分は、世界から分断されて、独りぼっちである。

これは、当然、ものすごい不安だ。
死を理解する前であっても、死の恐怖でなくても、孤独の不安は味わえるということだ。

これが根底にあるから、安全安心非常に強く望まれることになる。
世界につまづかないし、違和感なく世界に包まれていると思える。
そうであると、心も安定する。
ある程度心が安定したら、外への興味が、世界のつまづきの石への抵抗よりも大きくなる。
外の世界で、たくさんつまづきながらも、歩いていける。

そういう意味でも、安全や安心は大事なのだ。そこが、帰るべき家、返るべき我なのだから。

4_3.自分にとって無意味な、貢献するに値しない人たちのために使い潰されて、自分が愛するに値すると思えたからこそ生きていた自分が、世界や他者たちに「無価値なもの」と扱われて死ぬ絶望

あるいは。

長い人生、
「一人で生きて、どうでもいい赤の他人たちに馬車馬のように使い潰されて、託したい相手と出会えず、墓に持っていけないものを抱えるか、もっとまずい時には飢えて凍えて、一人で死ぬ」
ということに、戦慄することがある。

自分が愛するに値すると思えたからこそ、それなりに自分大事に生きる気になって生きていた自分が、世界や他者たちに「無価値なもの」と扱われて死ぬ。
これは、ものすごい絶望ですよ。
自分が大事じゃないかもしれないと言われて、絶望で動揺して、なおも自分を大事にして生きていくのは、非常に難しい。
脳に不快感が強すぎる状態で、自分がそれでも大事であるならともかく、そうでなかったら、人は(本当の)自殺に向けて大きく傾く。

4_4.同じ頑張るなら、自分にとってかけがえのない意味を感じられる、貢献するに値する相手の幸せのために頑張りたいし、一緒に素晴らしいと感じられる人生を送りたいんだよな

同じ頑張るなら、自分にとってかけがえのない意味を感じられる、貢献するに値する相手の幸せのために頑張りたいではないか。
さらに、出来ることなら、自分もかけがえのない相手と一緒に、素晴らしいと感じられる人生を送りたいんだよな。
そう感じながら生きていけるなら、そしてそれが相手も同じなら、これはとんでもなく素晴らしいことだし、世界が光り輝いて見えるほど幸せではないか。

***

私も職場や他人に捨てられたことが何度かある。
そのたびに深い人間不信に陥っていたが、今ではもうちょっと物事が分かる。
「人間は信じるに値しない」のではなく、「信じてよい」のであって、その代わり「信じるに値する」人だけに限って信じればよかったのだ。
それ以外の人たちのことは依然として「一線を超えない範囲内でしか信じない」。これだったのだ。

4_5.未来へ…

まあ、つらつらと書いてきた訳です。

もちろんこれは、自分が言った通りに出来てなきゃ、何の意味もない。
俺も是非やっていきたい。

だから。
やっていきましょう。

(いじょうです)
(長らくのご清聴、ありがとうございました)


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