随筆(2022/10/15):覚悟を決めて、休み、冒険する_1.休んでも、内なる問題は解決するが、外にある問題はふつう解決しない
1.休んでも、内なる問題は解決するが、外にある問題はふつう解決しない
1_1.ここしばらく忙しかった
ここしばらく、コロナ第七波で、私含む職場(保健所)は大忙しでした。
毎週土日のどちらかは出勤で(下手するとどっちも)、どんどんメンタルやられてきていた状況です。
残業代はつくけれど、それは来年「社会保険料で給料の手取りが低くなる」ことを意味します。
その上でさらに心身を壊して医療費が増えたら、何の意味もないんだよな。
頑張ったら罰があるんだよな。
1_2.「逃げてサウナ宿で憩っていたい」ということを、もっと真剣味をもって心の底から思え
そういう時にいつも思うのが、「逃げてサウナ宿で憩っていたい」ということです。
前職(プログラマ)の時に、そういう発想がなかったので、逃げる先は自室で、結果的に一時期引きこもりのような状態になっていました。そんで次の月には休職したりしていたのです。
あれは回復のためには致し方なかったが、それまでの、そしてその間の生活の質を考えたら、まあよくなかった。
そもそも「もっと日頃からストレスを散らす」ということをしないと、そりゃあ壊れて当たり前なのだった。
当時も健康ランドに行きたい行きたいと言っていたが(明らかに桜玉吉のエッセイ日記漫画の影響)、そこまで真剣に考えてなかった。
「もっと真剣に憩うべきであった」。
という話を、ここしばらくはします。
1_3.休んでも、内なる問題は解決するが、外にある問題はふつう解決しない
とはいえ、恐るべき、だが当たり前の話をします。
休んでも、内なる問題は解決するが、外にある問題はふつう解決しないのです。
どういうことか?
仕事が恒久的に片付かないのは、仕事処理能力が金属疲労しているか、仕事が随時多すぎるか、いずれかです。
前者はできるだけ早めにコツコツストレス解消をすれば、攻めの休みをすれば、かなり防げるところです。
ふつう、「自己管理、健康管理として、積極的に休め」と上長が言うときは、そういうことが意図されています。
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で、直ちに反論がある訳ですよ。
「それをやって、仕事が減るんか。
手を付けないから減らないし、何なら増えるんじゃい。
どっちみち後で手に負えんくなるやろがい。
手を動かして仕事を片付けなきゃ減らねーんだよ。
仕事を無限に振ってこちらの可処分時間を破壊してる側が、
「可処分時間を破壊した。休めるもんなら休んでみたまえ」
とか何とか、盗人猛々しいこと抜かしてんじゃねーぞ」
これです。
忙しさから逃げたいが、逃げても忙しさの元はなくならないし、解決するには忙しくなることは避けられない。
1_4.仕事残存量と気力体力残存量を天秤にかけて、片方を選択してもう片方は放棄せよ。状況が変わったら平然と逆の方を選べ。それが状況判断というものだ
今では上長の気持ちは分かります。
仕事をじわじわと片付けることと、仕事処理能力を恒常的に維持することは、
「片方やもう片方を都度犠牲にしながら残りをやり、そのスイッチは適宜バチバチに切り替えろ」
というやり方で解決できます。
1_5.切り替えのスキルがないと誰かが生き残れなくなることについて、しばしば人は特に「悪徳」だと思ってない。むしろ「正当化」している。そしてその中で生き残らねばならない訳だ
ここからはおぞましい話があります。
何か。
上で言った、切り替えのスキルに思い至らないやつは、残念ながら生き残れない。
仕事残存量と自分の体力気力とを「天秤にかける」という発想のない労働者は、自分自身の主人であることを、自活のサイクルをやるということを、そもそもやれていない。生活の管理を、やれてないし、貫徹できていない。
もっとアカンときには、「必要に迫られて、その都度選択して何かをやったり、別の時は必要に迫られて別の選択をしてやっていく」ことができない。
この手の判断は、実は試行錯誤と失敗時のダメージへの耐久と熟練を強いるし、何よりその都度脳にそこそこの負荷をかけます。
なので、「判断コストをぶん投げて、単一の選択肢だけやる」という固執も、極めてありふれた話です。判断コストが高すぎる時は、これはもはや取って当たり前の基本戦術とすら言えるでしょう。
ですが、これでは「状況判断」ということは一ミリも成り立たないし、熟練による判断コストの効率化と判断スキルの向上は永遠に不可能でしょう。
(ということを、かけ算の順序問題でも、何度か書いてきたのでした。
あれ、
「「順序が関係する場合」と「順序が関係しない場合」がふつうあるが、これらを弁別するコストを割かないで済むようにしたい。
どちらかに寄せるなら、より難しい方、「順序が関係する場合」で固定して熟練して、より簡単な方、「順序が関係しない場合」の熟練コストを踏み倒して放棄すれば、効率はともかく、一応成立はするから、正確性においては問題なくなる」
という形で機能してしまっているところがあります。
が、もちろん、「順序が関係する場合」と「順序が関係しない場合」は、弁別と関係なく、お外にはそれぞれ存在するのです。
今そこにある別種の問題を弁別抜きで対処したら、結局適しているやり方は違う別種の問題であり、結局別々の手段を取らないと効率的にできなくなるし、それが教育段階でまず妨げられているのだから、より簡単な方を簡単にやることはできなくなります。
そりゃそうでしょう。「そんなことをしないように。したら成績上「罰」がありましたよね? それはまずは良くないことでしたね。思い出して下さいね」という意味の教育をしてきたんだから。
だから、対処時の非効率はざっくり半減どころかざっくり倍増する訳です。
動機がコストなら、非効率がざっくり倍増するのは、端的に失敗以外の何物でもありえない。
熟練のコストの踏み倒しによる効率化は一時的なものだが、場合分けの非熟練による非効率は生きている限りその都度直面するものなので、長期的に見れば効率化は吹っ飛んでしまう訳です。
短期的な効率のためには、固執も基本戦術と言えるでしょうが、長期的な効率のためには、弁別と熟練は、どうしたって欠かせません)
***
何かをしている人が、「何かしら試行錯誤を通じて、やるための手を、環境デッキを構築する」、つまり「(広義の)熟練」ということをしなかったら、そりゃあやることのコストの効率化は一向に進みません。
「天秤にかけること」も、「自活を回すこと」も、当然そうです。
過労と生活苦の板挟みになったら、「天秤にかける」という発想はあるべきだし、ないなら試行錯誤の末にそこに自分でたどり着かねばならない。
1_6.(広義の)教育、大事
もちろん、上の話は、半分はあるデタラメな価値観によるものです。
何か。
「惰弱な教育に頼らなくても、野生の勘でたどり着けてこそ、生きる力がある」
という話自体が、もうどうしようもなく惰弱なのです。
現代社会で
「惰弱な姿勢でガスやオール電化を使うな。
すりこぎに尖った棒を指して高速左右回転させて火を起こせ。
その火で煮炊きした料理だけが野生の生きる力の証明だ」
という人、そういうプレイをしているだけで、家事の現場では邪魔なだけでしょう。
そんな寝言なんか言ってないで、テキパキとガスやオール電化で火を起こして食事や弁当を作るんだよ。遊んでるんじゃあない。
偉いのは効率と成果の伴った「テキパキと生きる力」や、いっそ「テキパキとした効率や成果」なのであって、「効率も成果も伴わないもたもたと生きる力」なんかじゃあない。
「野生的な生活」や、一見全く逆だが「丁寧な暮らし」というやつは、熟練して生活が円滑にできるようになってからにしろ。
生活が円滑にできないのに、いきなり「野生的な生活」や「丁寧な暮らし」をやるんじゃあない。
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つまり?
「天秤にかけること」や、「自活を回すこと」も、完全に一から構築などということをせずに、ちゃんとできてる人から教わった方が遥かに良い。
1_7.結局は状況判断や自活を有らしめればいいのだ。そしてそれは早ければ早いほど有難味が大きい。働いたり休んだりしよう
とはいえ、上の話は
「試行錯誤しようが、教わろうが、どっちもでいいので、状況判断や自活の概念があるようにせよ。これで人生の効率、ある種の生きやすさが、歴然として違ってくる」
という話と何ら矛盾しません。
それどころか、実際にはふつうに補強するでしょう。
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自己管理面も含めた自活は、生活単体に比べて、おそろしく高度な概念で、できていない人は極めてありふれているのです。私だってそうだった。
ちゃんと教わっているべきだったし、そういうことに鋭敏であるべきだった。
今母から随時教わっており、やっていますが、自活や家族生活を回すには、スキルはおよそ足りていません。
同様に、仕事と生活の取捨選択による環境デッキの構築ということも、仕事単体や生活単体に比べて、遥かに難易度の高い概念です。
これも教わっておくべきだったよなあ。私の場合は、特に父が生きている間に。
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そんな訳で、
「仕事と自活、どっちが大事なの?」
「その都度によるとしか言えないなあ」
というメンタルで、働いたり休んだりしましょう。
おそらくそのメンタルになることが、仕事や休養の質を高めるための、非常に重要な基盤なのだと思います。
(続く)