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数学(2022/6/6):キューネン本2冊についての記事_7.ZFC集合論の公理のリスト_5(無限公理、中間生成物:順序数としての自然数全体の集合)
(2022/6/15 19:00頃 配置移動済)
1.ZFC集合論の公理のリスト(続き)
さて、前回は馴染み深い『順序数としての自然数』まで構成したのでした。
順序数としての自然数までほしければいい場合は、これから後の記事は、全部不要のものです。お疲れさまでした。
「自然数ではなく、全ての自然数が扱える世界がないと、結局はダメなのではないか?」
「個数としての自然数の話がまだではないのか?」
そういうことを思う方にのみ、ここからしばらくの記事は意味があります。
***
そういうことで、ここからしばらくの記事では、後で何度も使うので、『自然数全体の集合』というものを作ります。
読んで字の通り、『自然数全体の集合』は、「前回作った『自然数』を、全て集めた」という「条件に従う『集まり』」、『クラス』です。
だから、『自然数全体の集まり』とか『自然数全体のクラス』と呼びたくなるのですが、ちゃんと『集合』としても適格なので(詳しくは説明しません)、慣習的にも『自然数全体の集合』と呼ばれます。
1_1.論理体系の世界(後半)
1_1_1.論理体系のデファクトスタンダード、古典論理
さて、論理体系の話をします(必要なので)。
論理体系で重要な推論規則が、2つあるのでした。
『矛盾推論規則』または『爆発律』と呼ばれるもの。
『排中律』と呼ばれるものと、その派生(『二重否定除去則』、『背理法』)。
今までの『直観主義論理』は1.のみを満たしていたのでした。
そして、これから使う、1.と2.を併せ持つ論理体系を、『古典論理』と言います。
背理法とは、
「この文を直接証明する代わりに、今回これを否定する文を証明したら矛盾したので、これをもって結論としてこの文が直接証明されたのと同じ効果があるとみなす」
証明の手法なのでした。
見る限り、これは間接的な正当化であって、直接構成しているという言い方はできないように見えます。
そうなると、背理法を使っている高度な論理体系や高度な集合論を、メタ理論と呼ぶのは、だいぶ難しくなってきます。
そして、このように間接的な正当化を行って得られる体系や概念については、
「メタ理論として真であるものから直接的に構成されたわけではない。
間接的な正当化を受け入れて、留保つきになるが、真であるものの一部と認めるかどうか、という姿勢が問われる」
という、2段階の扱いが要請されます。
要するに、「どれだけ確実に真だと言えるか」の度合いが、直接的な構成と間接的な正当化とで、違うのですね。
1_2.様々なメタ理論とその射程(2)
1_2_1.(緩い)構成主義的数学によって次に遺伝的有限集合全体の集合を目指す
この先、メタ理論としては『(緩い)構成主義的数学』と言うものを採用します。
「有限な対象が、全てこれに所属するか、包含されるような、有限な対象たちのための世界を構築したい」
と言う路線です。
この路線で暫定目標として目指す数学的対象は『遺伝的有限集合全体の集合』と呼ばれるものです。
1_2_2.有限な対象は全て遺伝的有限集合全体の集合に所属するか包含されるものとして構築される
平たく言うと、有限な対象は、全て『遺伝的有限集合全体の集合』に所属するか、包含されます。
一つ、気を付けねばならないことがあります。
何か。
それは、こうした有限な対象たちのための世界を構築する際には、実際には無限の概念は持ち込まれている、ということです。
要するに、全ての有限な対象を扱うために無限の対象に頼らざるを得ない訳です。
奇妙に思われるかもしれませんが、これはそういうものだと思って、吞み込んでください。
***
これはたとえば自然数の時もそうで、全ての自然数は自然数全体の集合に所属することになりますが、自然数はある種の有限の対象であっても、自然数全体の集合はある種の無限の対象だったりします。
人によっては割り切れないところかもしれません。
***
それでも、自然数を縦横無尽に扱いたいのなら、どうしても自然数全体の集合は想定されなければなりません。
そうでないなら、扱える自然数たちはごく一部にとどまりますし、それらをかきあつめたものは要するに全体の集合でないので、自然数において何らかの仲間はずれがいます。
それはおかしい。
そんな理論は、全ての自然数に対しては、使い物にならない。
***
そして遺伝的有限集合全体の集合は自然数全体の集合よりはるかに高度な数学的対象であり、やはりある種の無限の対象です。
そして、(緩い)数学的構成主義者にとって、『自然数』から後の数学的対象、例えば『自然数全体の集合』や『遺伝的有限集合全体の集合』は、
「便利な道具かもしれないが、存在はしていない架空のもの」
として捉えられます。
これらは「集合として都合良く扱えない、大きすぎるクラス」、『真クラス』ではなく、集合には違いないのですが、「ある種の無限の対象」、『無限集合』というものです。
(緩い)数学的構成主義者は、『真クラス』のみならず、『無限集合』も、架空のものとしてしか認めていません。
これはそういうものだと思って、吞み込んでください。
1_2_3.(厳格な)構成主義的数学から(緩い)構成主義的数学等を正当化するために無限公理が役立つ
(厳格な)構成主義的数学では、自然数などの有限な対象しか扱えないのでした。
それを使って、ある種の無限の対象を許容せざるを得ない、(緩い)構成主義的数学等を正当化する? どうやって?
この時に、後で説明しますが、ZFC集合論の公理の1つ、無限公理が役に立ちます。
先に説明しますと、無限公理の記述のために、自然数が要請されます。
また、今までの説明に鑑みて、特段未知の概念は使っておりません。
が、無限公理は
「数学的対象を作るための手続きが書いてある」
のですが、
「これを止める制約条件がない」
ので、結果として
「果てしなく数学的対象が作られる」
のです。
無限公理そのものの素材は全部有限の対象ですが、作られるのは無限の対象なのです。
そんなことが可能なのか!?
可能なのですね。
具体的な考え方については後で説明します。
そして、『無限公理』で無限の対象を作るプロセスや、その他のプロセスで、いよいよ『背理法』や『古典論理』が使われるのです。
「メタ理論の姿勢として、これで本当に良いのか?」
と引っかかる人もいるかもしれません。
が、とりあえずこれを通す『(緩い)構成主義的数学』を、これからしばらく採用する、ということです。よろしく。
1_2_4.自然数以後自然数全体の集合以前の集合論の世界のロードマップ
さて、『自然数全体の集合』については、以下のように構築します。
順序数としての自然数全体の集合、”omega-0” と呼ばれるもの
基数としての自然数全体の集合、”aleph-0” と呼ばれるもの
今回この記事で扱うのは、順序数としての自然数全体の集合、”omega-0” と呼ばれるものです。
これについては、論点が4つあります。
***
まず、既に作っておいた
「空集合を順序数と見立てたもの」、『順序数0』
「「次の」順序数を求める機能」、『後者函数』
そして「「次の」順序数」、『後続順序数』
つまりは『自然数』を用いて、新たなZFC集合論の公理、『無限公理』というものを導入します。
名前から何となく予想されると思いますが、
「こういう条件を満たすと、ある数学的対象において「(ある種の)無限である」という性質が保証できる」
というものです。
これで『順序数としての自然数全体の集合』を構築した後で、いろいろあって『基数としての自然数全体の集合』を構築し、それを数えると、(ある種の)無限個であることが発覚します。
(実は、『基数としての自然数全体の集合』の構築はものすごく長くなるので、次回以降数回にわたって行います。
ちなみに個々の『自然数』の基数を数えると、これは有限個です。ここは我々の常識と一致するところですし、前回述べた通りのところです)
***
次に、『順序数全体の真クラス』というものを用意します。
自然数より根本的な、またより広い概念である(極限順序数も扱う)順序数も、全体のクラスを作れそうに思えます。
結果として作られたそのクラスは、後で「集合の一種とみなすには大きすぎる集まり」、『真クラス』として扱うべきものであることが分かります。
(ZFC集合論で実際に使うのは、これに所属している順序数だけなのですが、「順序数であること」を「仮定された順序数全体の真クラスに所属していること」と言い換えることで、以後の議論がやや円滑になります。だからこれは記法上のテクニックだと思って下さい。
あるいは、真クラスを「存在するもの」として扱う集合論の流儀もあります。これについては後で『NBG集合論』として説明します。)
その中の一部を、あるやり方で刈り取ると、後で集合の一種として扱える、『自然数全体の集合』になります。
***
また、以前触れたが説明しなかった『極限順序数』の説明をします。
『自然数全体の集合』は『極限順序数』です。
つまり、『後者函数』による『後続順序数』「ではない」数学的対象になります。
『後続順序数』を使って『後続順序数』「ではない」数学的対象を構成する。
そんなことが可能なのか?
可能です。
それをこれから見ていきましょう。
***
最後に、『整列可能集合と同型である一意的に存在する順序数』の話をします。
「整列順序と、所属による整列順序が、全単射で照らし合わせると完全に対応する」
し、この所属による整列順序における整列可能集合こそが順序数なのでした。
と言うものの、「全単射で照らし合わせると完全に対応する」以上の要求をしたくなります。
つまり、
「整列順序は、ある順序数とのみ完全に対応するのであって、他の順序数と完全に対応することはない」
という、一意的存在まで要求したくなります。
順序数としての自然数は、具体的に構成されるからまだいいのです。
順序数としての自然数全体の集合は、極限順序数であるので、実は順序数としての自然数と同じ手で構成することはできない。という話をしたのでした。
こうなると、
「もし順序数としての自然数全体の集合を構築しても、それは本当に他にない順序数としての自然数全体の集合なのか?
他のものがあったら、どちらを参照すればいいのか分からない。そんなのでは利用の際に困る。信頼に値しない」
と言いたくもなります。
そういう一意的存在まで要求する場合、ここでもやはり『背理法』を使う『古典論理』が出てくるのです。
***
さて、今回の記事のテーマは、「(ある種の)無限」です。『自然数』や、『(証明によって正当化された)自然数』は、何らかの形で、一個一個手に取れそうですが、『自然数全体の集合』は(ある種の)無限にまつわる概念の、その始まりです。感覚的にも、大きな飛躍が待ち構えているな、というところです。注意深く、やってみましょう。
1_3.無限公理
「全ての「後者函数を適用する前の順序数」およびその「後者函数を適用した後の後続順序数」を所属させる集合が存在する」
「なおこの集合は空集合すなわち「順序数0」も所属させている」
無限公理は、ZFC集合論におけるシンプルな他の公理、例えば外延性公理や対公理と違い、高度な数学的対象を使っています。と言っても、使うのは、既に前回説明を済ませた、
「空集合を順序数と見立てたもの」、『順序数0』
「「次の」順序数を求める機能」、『後者函数』
「「次の」順序数」、『後続順序数』
です。つまりは、既に説明されている、『順序数としての自然数』ですね。そこまで恐れるに足りません。
さて、これを見ても
「これが「無限」公理?
「順序数0」と、「後者函数を適用する前の順序数」と、「後者函数を適用した後の後続順序数」しかないではないか?
それは確かにたくさんあるだろうが、別に「無限」であるようには見えないが…?」
となるかもしれません。
「後者函数を適用する前の順序数」を、仮に『後続順序数の前者』と呼ぶことにします。
ポイントは
「この集合の中では、「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」には必ずそれに対応する「後者函数を適用した後の後続順序数」が存在する」
ということです。
前回書いた通りに考えると、0には1が、1には2が、2には3が対応するのです。
そして、この定義だと、
「なんか順序数があったら、次の後続順序数が必ずある」
「その後続順序数にはさらに次の後続順序数が必ずある」
「そのまた次も当然ある」
「これを止める適用除外要件は設定されていないから、どこまでも続く」
のです。
『無限公理』によって正当化される、
「後者函数で、0から1を、1から2を、2から3を作る、どこまでも続けられるプロセス」
のことを、一般に『数学的帰納法』と呼びます。
***
キューネン基礎論では『通常帰納法』と書かれます。
わざわざ「通常」と呼ぶのは、キューネン基礎論ではそうでない、「整列順序における弱い数学的帰納法」、『超限帰納法』も出てくるからです。
ちなみに『通常帰納法』や『超限帰納法』には背理法を使います。
つまり、もう今までのような『直観主義論理』ではなく、論理学のデファクトスタンダードである『古典論理』を使うフェーズに入ったということです。
『通常帰納法』や『超限帰納法』は順序数としての自然数までの構築の段階では使わなくても済むので、『(厳格な)構成主義的数学』の観点からは無害である、と言っても差し支えないでしょう。
ですが、順序数としての自然数全体の集合を構築するには必要です。
そして、ここからは古典論理はしょっちゅう出て来るので、もう『(緩い)構成主義的数学』を採用せざるを得ません。
(なお、『超限帰納法』については別の記事で使います。)
***
また、知っている人は、哲学の歴史で出てくる「帰納と演繹」を思い出すかもしれません。
しかし、これの
「実例から法則を抽出する」『帰納』と、
「0から1以上を構成する」上記の『数学的帰納法』は、
用語は同じでも、実用的にはほぼ関係がないものとして扱って良いです。
***
この数学的帰納法をやって生じる自然数は、「どこまでも続く」ことになりますし、これらの自然数を含む集合は当然「どこまでも続く」(『無限』の)「大きさ」(『基数』)を持つことになります。
『基数』についての話は次回やるので、今はやめておきます。
が、結果的には『無限基数』をもたらすこの公理を、『無限公理』と呼んでも、そこまでおかしくはないというか、むしろ相応しいと言えるでしょう。
1_3_A(成果物).順序数としての自然数全体の集合
で、こうして作られるものが『順序数としての自然数全体の集合』に他ならないのです。
だって、さっきも書いた通り、「順序数0」と、「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」と、「後者函数を適用した後の後続順序数」の全てが、正に順序数としての自然数の定義そのものなのだから。
だったら、これらの集合は、「全ての順序数としての自然数の集合」、『順序数としての自然数全体の集合』に他ならない訳です。
***
この『自然数全体の集合』の構成については、もうちょっと細部を詰められますので、その話をしましょう。
1_3_A_1(NBG集合論).述語クラス内包公理図式
「ある変数がある論理式の条件に従い、その変数が複数の集合で使われるものである場合、その変数全体のクラスを存在するものとして扱う。(これは『真クラス』の存在を保証するものである)」
***
さて、ZFC集合論は、いくつか制約があり、その制約があると矛盾は避けられるものの、時々不自由な事態になるのです。
具体的には、集合の条件を破る、より大きいクラス、『真クラス』があったとき(いくつも考えられます)、ZFC集合論はこれらを直接は扱えないのでした。
これに窮屈さを感じる人たちはもちろんいて、数学者フォン・ノイマン、ベルナイス、ゲーデルは、真クラスを存在するものとして扱う集合論、『NBG集合論』を構築しました。
発想は簡単です。
「ある論理式に従う変数全体の集まり」、『クラス』の話は、かなり初期の段階でしました。
これのうち、『内包』は初歩的な『集合』として認められますが、そうでないものは『集合』として認めないし、ZFC集合論では扱えないので、直接は扱わないのでした。
ならば、期待される「『真クラス』も扱える集合論」では、「『真クラス』は扱う」と言うことを、公理で保証すればいいのです。
上の公理は正にそう言うものです。
この結果、NBG集合論は、真クラスを扱えます。
***
なお、これは以前述べた、全てのクラスを認める集合論、『MK集合論』ほど野放図ではありません。
ZFC集合論はあくまで集合しか扱わない。
NBG集合論は集合と真クラスしか扱わない。
MK集合論は集合と真クラスとクラスを扱う。
そのような違いがあり、下に行けば行くほど扱える範囲が増えます。
ただし、実際には真クラスを扱いたい向きはNBG集合論を使い(説明しませんが、『圏論』というジャンルの教科書的存在、数学者マックレーンは、圏論の前提としてNBG集合論を置いています)、MK集合論を使っているジャンルは私はあまり聞きません。
おそらく何らかの強力な応用があるのだと思いますが…
1_3_A_2(成果物の下準備a-1).真クラス
かつて、集合以外のクラスというものももちろん存在する、という話をしました。
要は、集合存在公理・内包公理図式・外延性公理を用いた結果、
「そのような集まりは集合の条件を満たさない。
つまりは「何らかの性質を持つ要素しかない集まり」(『内包』)あるいは「要素を列挙したもの」(『外延』)として「同一視できる、つまり1つのものとみなせるもの」が「ない」」
ということです。
詳しくは説明しませんが、例えば
「論理的に矛盾する論理式に基づく」素朴内包公理図式によるクラスや、
「集合より弱い」内包公理図式によるクラスや、
「集合として扱うと大きすぎる」内包公理図式によるクラスを作ろうとすると、
自動的にこの問題に抵触してしまいます。
ふつう、後者の「集合として扱うと大きすぎるクラス」のことを、『真クラス』と呼ぶのでした。
NBG集合論の話をしたのは、正にこの真クラスを正当化するためです。
ただし、何度も繰り返しますが、
「本質的に利用しないが、あたかも利用しているように見える、単なる記法、言い回し」
としてなら、ZFC集合論でも実質的には真クラスを扱うことができます。
ここではZFC集合論は真クラスを正当化してはいませんし、そうであろうが何だろうが、本質的には使っていないので、大勢に影響はありません。
だから、
「真クラスを正当化しようが、すまいが、以降の議論は全く変わらない」
ということだけご理解ください。
1_3_A_3(成果物の下準備にして中間成果物a).順序数全体の真クラス
「全ての順序数の集まり」、『順序数全体の真クラス』について考えます。
前回、
「必ず何らかの一里塚が設定されている(狭義の)全順序関係」、『整列順序』に組み込まれており
かつ「要素が集まりであり、その要素も集まりであり、それらのうちで集まりでないものはない」、『(所属による)推移的集合』であるようなものが
すなわち「順番を数えられる、最も原始的な数」、『順序数』である
という話が出てきました。
全ての順序数を集めた集まりについて考えると、なんとこれも『整列順序』で位置づけられるし、その推移性は所属によるものなので『(所属による)推移的集合』でもある、ということが分かります。
要は、『順序数全体の真クラス』は、それ自体が『順序数』の性質を満たします。
これら順序数全体の真クラスの諸性質の証明は、キューネン基礎論でもそれなりに長い部分ですので、省略します。
(数学寄りでない人向けの記事なのに、そんなことしたら、想定している読者の方々は、ふつう嫌になるでしょう)
ただし、これらの証明には、背理法が使われる、という話はしておきます。
前回触れた、『(厳格な)構成主義的数学』の立場だと、ここから先の議論は、おそらくもはや受け入れられないところでしょう。
***
ただし、『順序数全体の真クラス』をふつうの『順序数』として扱うことには、実は問題があります。
『整列順序』は『(狭義の)全順序関係』でもあるので、その条件の一つに、「自分自身を持たない約束の下では、超過未満めいた関係が作れる」、『非反射性』というものがあったのでした。
自分自身を持たない約束なので、『順序数全体の真クラス』は『順序数全体の真クラス』そのものを『順序数』として所属させることができません。
だから、『順序数全体の真クラス』が所属させうる『順序数』と、『順序数全体の真クラス』そのものは、何らかの意味でレベルが違うはずです。
そのため、『順序数全体の真クラス』はたとえ『順序数』であったとしても『順序数全体の真クラス』そのものを所属させられない。と考えるしかありません。
『順序数』はふつうは『集合』として扱えるのですが、『順序数全体の真クラス』は「集合として都合良く扱えない、大きすぎるクラス」、『真クラス』として扱わないといけなくなるのです。
1_3_B(成果物の下準備b).極限順序数
「順序数0」でも、「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」でも、「後者函数を適用した後の後続順序数」でもない。つまりは『自然数』ではない。が、順序数の一般的な定義は満たす。そうした順序数のことを、『極限順序数』と呼びます。
後続順序数と極限順序数を見分ける手段は、「要素の和集合を取る」というものです。
面白いことに、後続順序数の場合は「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」が得られます。
(後続順序数は、実際には「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」とその単元集合の和集合なので、和集合の中で潰せば、「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」だけが残る。という寸法です)
ところが、極限順序数の場合は、自らと同じ値になります。
ここで、極限順序数は後続順序数とは異なることが分かります。
つまり、このような極限順序数は、一般的な定義では問題なく可能ですが、後続順序数の構成法では構成できないことに注意が必要です。
妙な話ですが、要素の和集合を取って同じ値になるのは、順序数0も同じです。
順序数0は空集合であるので、要素に順序数どころか何も入っていないのです。
だから、その和集合を取るなら、それは空集合、要するに順序数0になる訳です。
(もちろん、極限順序数は順序数0とは異なるのであり、何しろ『空集合ではない集合』なので、これらはそこで見分けられます)
「なぜこのような順序数を考えねばならないのか? 実用性はあるのか?」
あります。
実は、順序数としての自然数全体の集合は、最小の極限順序数です。
その話は後でします。
1_3_C(成果物の下準備c).整列可能集合と同型である一意的に存在する順序数
さて、『整列可能集合と同型である一意的に存在する順序数』を保証することで、『順序数としての自然数全体の集合』の『一意的存在』、「ある」し「他にはない」ことまでも保証したい訳です。
こうしなければ、せっかく構成しようとしている順序数としての自然数全体の集合が、信頼ならないものになってしまいます。
順序数としての自然数全体の集合が複数あったりしたら、どちらを採用すればいいのか分からなくなる。これでは困ります。
さて、『整列可能集合と同型である一意的に存在する順序数』を言いたいのなら、要するに「整列可能集合と順序型が同型である順序数の一意的存在」を言わなければなりません。
このために、背理法を、つまりは古典論理を多用することになります。
論点はいくつかありますが、触れる程度にします。
順序数の同型写像は恒等函数に限られる補題
一意的に存在してほしいのなら、他の順序数と『順序同型』、つまり「順序的構造を含めて考えても同じものである」と言えるほどの、ある種の高度な全単射を持つようであっては困る訳です。
そういう関係は自分自身とだけ持っていればいい。そういうことを言っています。
当然、恒等函数以外の順序数の同型写像の存在が証明されたら、この主張は成り立たないのです。
が、幸いこれは矛盾しますので(長いし煩雑なので書きません)、
「この文を直接証明する代わりに、今回これを否定する文を証明したら矛盾したので、これをもって結論としてこの文が直接証明されたのと同じ効果があるとみなす」
という、古典論理の背理法の手法で、「順序数の同型写像は恒等函数に限られる補題」が成り立つということにします。
(『直観主義論理』しか認めないであろう『(厳格な)数学的構成主義者』が見たら、
「それは間接的な正当化に過ぎない」
と苦言を呈するかもしれません。)
ある集合が良性要素の集合と同等であること
キューネン基礎論で言う『良性要素』とは何かというと、「ある順序数と順序同型である整列可能集合の要素」のことです。
つまり、『良性要素の集合』とは「ある順序数と順序同型である整列可能集合」のことです。
元々の集合の要素の中で、良性要素「でないもの」があったら、元々の集合は良性要素の集合と同等でなくなります。同等でなかったら全単射になりえません。
が、幸いこれは矛盾しますので(長いし煩雑なので書きません)、「ある集合が良性要素の集合と同等であること」が成り立つということにできます。
こうして、ところどころで古典論理の証明を借りて、「整列可能集合と順序型が同型である順序数の一意的存在」は最終的に成り立ちます。
『整列可能集合と同型である一意的に存在する順序数』は、実際に一意的に存在します。
1_3_X(成果物).順序数としての自然数全体の集合(再掲)
さて、最初に言った、『順序数全体の真クラス』から『自然数全体の集合』を切り出す方法を考えましょう。
ある順序数の集合を考えます。
「その順序数の集合の要素である順序数を考える。
これら全てについて、その順序数未満の順序数が考えられる。
そして、それらも全て、この順序数の集合の要素である」
これをキューネン基礎論では『(順序数全体の真クラスの)始切片』と呼びます。
そしてこれは順序数全体の真クラスに所属する順序数です。
順序数である、すなわち、整列順序であり(所属による)推移的集合でもあるということは、
「ある順序数は集合である」
「それに要素があれば、それはまた全て順序数である」
「残った要素が空集合すなわち順序数0になるまで以下同文とする」
「ある順序数は「「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」とその単元集合の和集合である」ので、これを全部解体すると、実は「0から後者函数を適用する前の後続順序数の前者までの全ての順序数の集合」とみなすことも可能である」
ということを保証します。
特に最後はなかなか面白い性質です。例えば 5 は、実際には {0, 1, 2, 3, 4} でもあるのですね。
上のような(順序数全体の真クラスの)始切片は、丁寧に調べると、確かにこれらの性質を備える順序数であることが分かります。
***
そして、自然数、つまり「順序数0」と、「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」と、「後者函数を適用した後の後続順序数」の全ての、集合を考えてみます。
丹念に見ると、これは(順序数全体の真クラスの)始切片の一種であることが分かります。
妙な話ですが、(順序数全体の真クラスの)始切片の定義では「何か大きいものから刈り込んでいく」ようなやり方をするのですが、数学的帰納法による自然数全体の集合の構成では「0から作る」という違いがあります。
とはいえ、「何か大きいもの」がどんな順序数なのかについては設定されていないので、設定しない場合、「どこまでも続く」自然数と相容れますし、最終的には同じものができます。
つまり、(順序数全体の真クラスの)始切片と、順序数としての自然数全体の集合は、最終的には同等となります。
***
順序数全体の真クラスと同じ論法により、順序数としての自然数全体の集合もまた、ある種の順序数です。
そして、順序数は非反射性により自分自身を持たない約束になっているので、『順序数としての自然数全体の集合』は『順序数としての自然数全体の集合』そのものを『順序数としての自然数』として持つことができません。
今回は『順序数全体の真クラス』と『順序数』のときより話は簡単です。
『順序数全体の真クラス』は『順序数』の性質を持つので、取り扱い注意だったのです。
が、今回の
「『順序数としての自然数全体の集合』は『順序数としての自然数全体の集合』そのものを『順序数としての自然数』として持つことができない」
ということを素直に読むと、
「それでは、『順序数としての自然数全体の集合』そのものは『順序数としての自然数』の性質を持たないと考えるべきである」
という話になります。
極限順序数とは、(「順序数0」と、「後者函数を適用する前の後続順序数の前者」と、「後者函数を適用した後の後続順序数」、要するに)順序数としての自然数、「ではない」順序数のことでした。
つまり、順序数であり、かつ順序数としての自然数でないという性質を持つ順序数としての自然数全体の集合は、極限順序数の性質を満たします。
しかも、順序数としての自然数全体の集合の要素は順序数としての自然数であり、順序数としての自然数全体の集合より小さい極限順序数などというものは、順序数としての自然数全体の集合には所属していません。
順序数としての自然数全体の集合より小さい極限順序数というものがもしあるのなら、順序数としての自然数全体の集合は推移的集合なので、必ずその中に所属しているし包含されているはずです。
そこにないなら、ないですね。
だから、先ほど書いたように、
「実は、順序数としての自然数全体の集合は、最小の極限順序数である」
ということが証明されるのです。
***
別の話として、後続順序数のみに話を限り、後続順序数全体の集合を考えてみます。
これは整列可能集合でもありますので、整列可能集合と同型である一意的に存在する順序数に適用することができます。
これで出力されたものが、実は上で述べてきた順序数としての自然数全体の集合と一致してくれます。
しかもこれは一意的に存在します。あるものだし、外にありません。
だから今後は、順序数としての自然数全体の集合について論じる場合、外ならぬこれを参照すればよいのです。
***
さて、こうして、一応の納得のいく『順序数としての自然数全体の集合』が構成されました。
『順序数としての自然数全体の集合』の場合、『順序数としての自然数』、ひいては『基数としての自然数』までの話と違い、無限公理と背理法(ひいては古典論理)を受け入れられるか、という話はあります。
が、そこさえ呑み込めば、恐るるに足りません。
2.次回予告
さて、ここから気が遠くなるような話をします。
何か。
順序数としての自然数から順序数としての自然数全体の集合を構築したように、順序数としての自然数全体の集合から基数としての自然数を、そして基数としての自然数から基数としての自然数全体の集合を作ろうと思います。
そして、順序数としての自然数から基数としての自然数を構築し、これらが揃った時点で自然数ができたとみなし、同様に順序数としての自然数全体の集合から基数としての自然数全体の集合を構築し、これらが揃った時点で自然数全体の集合ができたとみなします。
***
とはいえ、この「基数としての自然数から基数としての自然数全体の集合を作ろう」というところが、実はかなり長いのです。
先に書きますと、基数としての自然数は、特に順序数における基数を構築し、順序数としての自然数をこれに適用すればできるものです。
まず、そこまでたどり着かねばなりません。
次に、基数としての自然数から基数としての自然数全体の集合を作らねばなりません。
そしてこのプロセスがとんでもなく長いのです。
「順序数としての自然数全体の集合も順序数だろう。ならば同じ方法ですぐにできるのではないか?」
と思われるかもしれませんが、ある一つの性質を保証するために、どうしてもさらに長い手間がかかります。
何か。
「基数としての自然数全体の集合は、基数としての自然数より大きい」
ということです。
一見拍子抜けするかもしれませんが、実はこれが面倒なのです。
これが言えるようになるには、基数における狭義全順序関係(超過未満)が定義できなければなりません。
この基数における狭義全順序関係は、「特に順序数における基数」であろうと、「集合一般における基数」であろうと、一貫して通用しているべきです。
そのためには、「集合一般における基数」の話は、やはり避けられません。
実は、「集合一般における基数」の構成には、ZFC集合論の公理の1つ、『選択公理』の等価なバリエーション、『整列可能定理』を使います。
(後々のことを考えて、『選択公理』と等価である命題全般まで構成して、それを使ってしまいます。)
あるいは、やはりZFC集合論の公理の1つ、『基礎公理』とそのバリエーション、『数学上は万有クラスが整礎的集合一般全体の真クラスに等しいとする主張』を使う手法もあります。
(後々のことを考えて、『基礎公理』と等価である命題全般まで構成して、それを使ってしまいます。)
さらに、それらとは別に、『基礎公理』と等価である命題全般の構成の前段階として、『記号論理学』の世界の産物、『形式言語』というものも使います。
どうしてもこれらに記事一つずつを割かねばなりません。
***
もちろん、「集合一般における基数」を構成すれば話は終わり、というものでもありません。
『集合一般における基数』とあといろいろを使うと、ようやく基数としての自然数全体の集合、"aleph-0" と呼ばれるものが構築できるようになります。
***
なので、こういうロードマップになります。
(ちなみにBから始まりますが、Aはこの記事で言う「順序数としての自然数全体の集合」、”omega-0”に他なりません。)
B-1-a.選択公理(とそのバリエーション、『整列可能定理』と、『選択公理』と等価である命題全般)
B-1-b-1,『記号論理学』の世界
B-1-b-2.基礎公理(とそのバリエーション、『数学上は万有クラスが整礎的集合一般全体の真クラスに等しいとする主張』と、『基礎公理』と等価である命題全般)
B-1.集合一般における濃度
B-2-a.『記号論理学』の世界以降の展開(帰納的函数など)
B-2.濃度における超過
B-3.集合一般における基数
B-4.基数における超過
B-5.有限基数より大きい基数
X.基数としての自然数全体の集合、"aleph-0" と呼ばれるもの(実質的に自然数全体の集合そのもの)
本当に? ここだけでこんなに長いのですか?
長いのですね。やるしかありません。
できるだけテキパキと終わらせてしまいましょう。よろしく。
(続く)
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