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随筆(2021/11/26):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_6)(献身から両想いまで辿り着くにはどうすればいいのか)

1_6.献身

1_6_1.あの人に好かれたい。じゃあどうするか

「キラキラした背の高いカッコイイトロフィー」
「自分だけはこの人の隠れた魅力が分かる」
という形での
「色恋ロマンティック特大感情」
が高じて来ると、次に、
「そんなあの人に好かれたい」
という気持ちが芽生えてくることがあります。
平たく言えば、「両想いになりたい」。

そのために、何をすべきか。

相手が喜ぶ楽しいことをすれば、相手からの印象はもちろん良くなります。

その好印象が高じてくれば、受容はどんどん大きな水深に達していく。

そのうち相手はあなたをちゃんと見るようになり、理解するようにもなり、何らかの魅力を評価もしてくれる。

魅力を評価してくれるようであれば、相手はあなたに明瞭な好意を示すことすらありうる。

この時点でだいぶ嬉しいですが、先があります。
天の時(印象深い特別な日)、地の利(自分と相手の心が開く場の雰囲気)、人の和(お互いの好意)が整った時。
想いを明示的に宣言、つまりは「告白」して、応じられる。
そうなると、自分の中でも、相手の中でも、誰がどう見ても、いわゆる「両想い」になる訳です。
こうなるとメチャクチャ嬉しくなって来ますね。

***

じゃあ、そのための最初の、そしてそれ以降当面続く実践として、
「相手のために何かしてあげたい、捧げたい。
その行為は、相手がちゃんと喜ぶものでありたい」

という、
「両想いの第一歩としての、好印象のための献身」
動機が出て来る(この献身は、親が子にする献身とは若干違う。そちらは子に好印象を持たれようとはそもそも思ってすらいないことが多い。後述)
それがあって初めて、自然と「相手が喜ぶ、楽しいこと」をしようという気になる。
ここには
「相手が喜ばない、ためにならないことをやっても、それは自分だけの思い入れなんで、献身としては空振りにしかなんないんだよな」
と言う、相手の主体性への敬意が、絶対に要る。ここまでは前回までにお話しした通りです。

***

そして、この記事では、それから先の話に入ります。
矢印にすると、ざっくりと、こんなことを想定しています。

色恋ロマンティック特大感情
→自分が相手から好かれたい
→相手の不正規行動への不安
→何かしてあげたい
→相手の主体性への敬意
(ここから今回の記事)
→相手の好き嫌いを見る
(and想像力メンタライゼーション
→相手が喜ぶ楽しいことをする(献身)
→相手が喜ぶ楽しいように振る舞う(パフォーマンス)
→言動一致の誠実さ
→心からのサービス精神
→相手の喜び
→相手からの好印象
→相手からの受容
→相手からちゃんと見てもらえる
→相手からより深く理解してもらえる
→相手からより深く自分の魅力を評価してもらえる
→相手からはっきりと好意を持たれる
→告白してちゃんと想いを伝え合う
→実際の両想いの恋愛関係

「なーがーいー。こんなにもやらなならんのか?」
特に、献身やパフォーマンスは、何度も何度もやることになるものです。
「何でもしてあげたい」と言うのが「一回やったらもうやりたくない」と言うものだったら、じゃあ「そこまで物凄い熱意はない」と言う話でしかあり得ません。
そうなら、「その辺で、関わり合いになるの、やめときな。面倒っちいだろうし、お互い不幸でしょ?」と言う話にしかなり得ないんですよね。

1_6_2.ここでの発達段階も、やはり人によってはジャンプできる

ちなみに、この一連の矢印は、前にも書きましたが、ジャンプ出来ます。
「好印象」が達成されていれば両想いになる場合もあれば、「受容」がポイントの場合もあるし、「注目」がポイントだったり、「理解」がポイントだったり、「評価」がポイントだったりします。
人によって重要なポイントは違うので、こうなるんですね。
だから、上のやつは「全段階を踏まなければならない」という話ではありません。
むしろ、このルートは、一番迂遠な道を行く場合の道標として想定したものです。ふつうはもっと早いでしょう。

1_6_3.告白はしばしば色恋沙汰中間面接試験である。それまでの構築が問われるし、そういう意味では確認行動だ

よく、「告白は確認行動だ」と言われることがあります。
これはそうで、告白の成否にはそれまでに構築したものが効いて来るのであり、それがあったら告白は通るし、構築が足りてないのにギャンブルめいてやったら、そりゃあ失敗するでしょうね。

ここで相手が
「はぁ~?
こちらがお前のことをそんなに好きじゃないのに、その程度の関係で告白されても、ちっとも色恋ロマンティック特大感情は駆動されねえんだよ」

となったら、
「色恋沙汰中間面接試験、判定F。不合格。GAME OVER」
で、それっきりになるでしょう。

それが嫌なら、構築、ちゃんとしましょう。

1_6_4.好印象を達成するために、風格のための才能のリソースが流用出来る

「好意」のだいぶ手前になりますが、「好印象」を達成するには、以前書いた「承認されるための風格」のためのリソースが流用出来ます。
「遊んでて楽しい」「陽気で面白い」とかは非常に効果のあるツールですね。楽しくない、面白くない関係なんか、維持する気になれないしな。
「カッコイイ」はさらに効果があり、これも以前書いた「キラキラした背の高いカッコイイトロフィー」としての効果も兼ねるので、たいへんうまい。
色恋ロマンティック特大感情に火をくべねばならないのだが、楽しさ面白さカッコよさは、色恋ロマンティック特大感情をしばらく燃え立たせ続けてくれるでしょう。
(つくづくひっでえことばっか言ってんなコイツ)

1_6_5.「どう振る舞うと相手にキラキラと映るか。あるいは少なくとも世間的にはキラキラしているか」ということは、ちゃんと意識して振る舞った方がいい

「どう振る舞うと相手にキラキラと映るか」をやるためには、相手の感性、好きなことや嫌がることが何なのかを、ちゃんと「見る」ことは、当然必要になってくる。

そりゃそうだ。相手と恋愛しようとしているんだから、相手を見ないでやっていこうとしても、上手く行く訳がない。

だが、ここの調査が、たいていすっ飛ばされている。良くない傾向だ。

ちゃんと相手の求めているものをあげて、相手が目を輝かせることをやってみせるべきだ。

他にも、
「相手はどうすれば目を輝かせるか、部分的に相手の気持ちになって考える」
という、想像力とか、相手の思考回路の近似的な模倣メンタライジングとかメンタライゼーションとか呼ばれるもの)とか、いろいろなものが必要ですが、まあ大体そんな感じ。

1_6_6.キラキラしたところを、もっと見えやすい形で示すことで、相手は喜ぶ。これはパフォーマンスであろうが、内実が伴う以上は、言行一致であり、何とこれは誠実の一種である

もし、実際に誰かから熱視線をもらっているのなら。
自分が誰かにとって、キラキラして見えているらしいのだとしたら。
どうすればいいのか?

(贅沢な悩みだが、ここをクリア出来なければ、人と色恋沙汰をやっていくことなど、まあ無理な話だろう。先に進めないんだから

***

とはいえ、やれることなんてほとんどないんですよね。

相手は自分の「どこ」にキラキラした輝きを感じているか、これも「見る」。
(ここでもやはりそうだが、「見る」プロセスは、いつだってとても重要だ。言わば所作の初手、あるいは対応時の二の矢だ)

相手が魅了されているのが、自分にとって理解可能な価値観やセールスポイントであれば、そこを補強すればいい。
自分がそのセールスポイントを自らアピールした覚えがあるかどうかは、全く別の話とします。
しばしば、化粧や衣装抜きの容貌は、アピールしたくてしている訳ではないものだ
「世間的にはこういう価値観は、他人のこういう振る舞いによって刺激され満足するものである」
というのが、世間的にはあるものなので(世間に詳しくないなら周囲に、あるいは当の相手に訊きましょう)、それをやりましょう。
こう言う時にどうすれば相手は嬉しいものか。そこが分からないうちは、どうすれば一般に、人は嬉しいものか。
相手は、春は桜とか見にいくと楽しいものか。夏は水族館とか行くと楽しいものか。秋は枯れ葉の散る公園をぶらつくと楽しいものか。冬はイルミネーションのある街の大通りを歩くと楽しいものか。(このうちのいくつかは「相手は別にそう言うのは楽しく感じない」と言うことも多々あるだろうし、だったら避けた方が賢い)
そう言うことを考えながら、動くことになると思います。

***

これを「見せかけのパフォーマンス」忌み嫌っている硬派の人も、見ない訳ではないが、これは必要なパフォーマンスですよ。
それに、ちゃんとやったことを見せているし、見せたものはちゃんとやっているのだから、言動一致、内実がある。
言動一致とか、言行一致とか、有言実行とかが、誠実でなくて、一体何であろうか?

もちろん、
「何も言わずにやる、動だけあるのが誠実だ」
という美意識は、まあ分かる。だが、これはそれとは別の形の、ちゃんとした誠実だ。
そこは、認めた方がいいと思いますよ。そうしなきゃ、失礼じゃないですか。
硬派であることは、無礼であることと、別に同義ではないだろう。

いけないのは、言や示だけがあって、行や動を最終的にもたらさなかった上で、責任を取らず誤魔化してケツまくるだけまくること。これに尽きるので…

動をもたらせないこと自体は、「責任を認めてテキパキと正面から謝ればよい」のです。これも別種の誠実というやつです。

何かやる以上、失敗自体は常にあるものであり、ここの覚悟を決めておくことは避けられない。

ここで謝れない、恥を偲べないやつの硬派、メチャクチャ「自意識」って感じで、みっともないですね。 腹を切らない。指を詰めない。そこはいいし、誰も望んでないだろうが、謝れない? へえ。そう。どういう自尊心なんだよそれは

1_6_7.相手の物足りなさそうな顔に気づき、確認して埋めていく。ここで以心伝心などというコミュニケーションコストのフリーライドを強いるんじゃない

また、そのうち、相手が物足りなさそうな顔をしていたら、それには絶対に気づかなければならない。
「見ている」のなら、これに気づくのは、そう難しいことではないでしょう。

そして、何が出来ていないのかは、出来るだけ早く、相手の周囲か、あるいは当の相手に確認して、可能な範囲内でそれを埋めていくことです。

***

ここで確認に答えず、
「そこは以心伝心出来ていろよ。ここでいちいち言わんと分からんアホは、察しの悪い失格人間なので、どうしようもない」
というツラで去っていく相手、います。
そういうエスパー気取りの無礼者はほっときましょう。
自分の違和感や不快感、そして更には相手にどうして欲しいかを言明しない人、不誠実
もいいところです。これで信頼関係なんて構築出来る訳がない。
また、実際の言動だけで見ても、誤解されがちな仕草に頼っており、そのことに慣れてて疑問にすら思っておらず、言明を蔑んですらいる。そういうムーブしかとっていない。
これでは、「伝える」「教える」という能力が一般にない。としか言えない。
「見てもらう」ことに甘えているということは、コミュニケーション達者とは、一般におよそ逆の在り方でしょう。
だからそのうち、パートナーシップ役割分担育児の時に、激烈にトラブルになります。
相手がクソみたいなツラを見せて去っていったのは、だからこれはちょうどいい、損切りです。
(ひどいこと言ってるなあ)
(ナンデ? ひどいことされてるよなあ、困ったなあ、という話をしているだけであるが…?

1_6_8.言行一致の誠実であることは、存在否定の誠実まで行き着くことがある。それは、全部磨り潰す絶滅戦争の時のムーブであり、何かを育む色恋沙汰の時にこれをやったら全部磨り潰しておしまいになるだけだ

また、「相手が何を言ってほしいか、何を言ってほしくないか」の配慮は、なまじの「本当のことを言う」誠実さより、この場合優先されます。
***

「そんなの、嘘じゃん。
本当のことをバシバシ言ってあげなきゃ。
そこで誤魔化すなんて、そんなのは相手への侮辱にしかならないだろ」

ある程度はそうです。

***

しかし、より大きく見ると、言動一致よりもっと大事な誠実さが見えてくるはずです。
目の前の存在を肯定しないか、肯定するか。
つまり、
「お前は破壊されて書き換えられるべきであり、いずれそのような力学に晒されても、何ら文句は言えない。
コストを吐き出して書き換えるしかないし、失敗して人生が爆発四散する可能性もある。
その辺、今のうちに、覚悟を決めろ」

とするか、
「人格書き換えの力学に、外から晒されなくても良い程度には、そのままで良い。
もちろんこれは自分が自分を良くしたいと願うことを排除しないし、それがアカン方向性だったら後で言う。
ともかく、今はそうではない。コストの吐き出しも、爆発四散のリスクもない。安心せよ」

とするかです。

もちろん、前者は、全部磨り潰す、絶滅戦争のムーブだ。
色恋沙汰何かを育もうとする時に、こんなことしたら、ダメに決まっとるやろ。
「今のお前は存在しなくなれ」
と色恋沙汰で言って、当然通ると思っているやつ、相手を否定した上で、自分と相手の残骸とで色恋沙汰がしたいんだから、端的に、モラハラ人間だよ。

***

「君なら出来るからあえてお願いをしているんだ」?
自分が血を流す覚悟のないやつ、しょっちゅうそういうことを言うよな。
「君なら出来る」
と言う見立てに、最後まで責任を負えるんだろうな?
そうでなきゃ、そんなのは他人を破滅に導く、クソッタレの大放言だろ。
その覚悟もないのに、
「今のお前は存在しなくなれ」
じゃあないんだよな。
そのそれは、コストとリスクを、言う側もやる側も負えないのなら、有言実行した、させたあかつきには、見るも無残な失敗に終わる。
天の時、地の利、人の和、そしてやる気がないなら、そんな時に、そんな場で、そんな仲で、そんな相手に、やらせるんじゃねえ。
***
そういうことをしたいのでないのに、なぜ言う?
これはお前が始めた宣戦布告(ものがたり)だろ。

宣戦布告したつもりがない? じゃあ宣戦布告をするな。
なぜこの程度の話すら分からん? シャバいこと言ってんじゃねーぞ。
言行一致、あったもんじゃねーな。そんなやつの言葉も、行動も、何ら誠実ではないし、信頼に値しねーよ。
ちゃんと「やるならやる、やらないならやらない」ことを徹底しろ。それが自分の誠実と信頼の、数少ない担保だろ。じゃあそこは突っ張れよ。覚悟を決めろ。

1_6_9.ともあれ、己の輝きに、濁りはないようにしておきたい。みっともない真似をするな。それが、サービス精神ということだ

ともあれ、己の輝きに、濁りはないようにしておきたい。
当面は、みっともない真似をするな。
ということだ。
これはまだ、内面を開示しない上っ面の話だ。とはいえ、必要なことだ。
まだ内面を開示するほどの信頼関係を(少なくとも自分がちゃんと「これこれこういうことをやった」と言い張れるほどには構築していないのであれば、そこで内面を開示するのは、順番のすっ飛ばし、忌むべき抜け駆け、ズルだ。
見えてないところを、いきなりお出ししないようにしよう。ビビるから。
そうではなく、まずは相手から見えている自分のところを、きちんとやろう。

これは「サービス精神」です。
これを「媚」と言って蔑む硬派、気をつけた方がいい。
「やりとりがある際に、他人が喜ばないものをくれてやったり、他人に何もくれてやらないことにしよう」

これ、だいぶ失礼なことをしている。
そう言うのが良いのですか? まるで良くないと思うが…

***

ここまでくると、
「この人はマジで心からサービス精神を捧げてくれるのだな」
と言うことは、概ね納得してもらえるようになります。
そうなると、相手は安心して「喜ぶ」ようになる。良かった良かった。
何なら、比較的良い印象まで抱いてくれていることでしょう。
相手からの接し方が、だいぶ良くなってきたら、それはそういう大事なシグナルです。
流れ、だいぶ良くなってきてます。

1_6_10.相手に好かれたい気持ちが欠如したままで、好印象のための献身を行うの、正気の沙汰じゃないぞ。どういう了見なんだ(もちろん下心です)

逆に、そういうマインドでなかった場合、面倒なことになります。

「相手に好かれたい気持ち」
「好印象のための献身」は、特にジャンプしていない、直結しているものなので、そういう動機がなければ、そこから生じた形ばかりの「献身」もどきは、やることなすことほぼ全部デタラメになる。
その形ばかりの「献身」もどきは、何ら「両想いの第一歩としての、好印象のための献身」の動機に基づいていない。
「動機が違うが実践としては同じものになる」という話、確率としてはゼロではないが、ふつう、どこか、決定的なところで、ズレる。
動機の正誤は、まずは、表情や態度などに現れて来る。これらは自分でコントロール出来ないし、自分には見えないが、相手には見える。相手にとってはもちろん重要な指標だ。

相手は当然考える。
「じゃあ何でこいつはこんなことやっているんだ」
そもそも「両想いになりたい、好印象を持って欲しい」という自覚がないのに、何で形ばかりの「献身」もどきをする?

そして、相手は当然思う。
「別の動機では?」
平たく言えば、
「自分の色恋ロマンティック特大感情を満足させたい。だが、好かれたいとは思っていない」
ということです。

これを、一般に、「下心」と言う。

まあ、「下心」による献身が、成り立って相手にそれなりに受け入れられる状況もあるかもしれませんが、少なくともこれは、「両想いの第一歩としての、好印象のための献身」としては、全然成り立っていない。そんな動機を持ち合わせていないのに、形だけやってるんだから。
「両想いの第一歩としての、好印象のための献身」に、動機も含めて良さを見出している人は、そんな動機のバグった「下心」のやつは、そりゃあ嫌でしょう。おぞましいと言ってもいい。
テーブルについてすらいないくせに、キッチンの前で待ち構えて、料理を分捕ってありつこうとしているやつ、ふつうに背後からウェイターに首根っこ掴まれて、ボコボコにされて勝手口から蹴り出されるだろう。
そりゃあ、そんなの、ごく当たり前の話だろう、とふつうに思う。

1_6_11.献身は、不平等な権力勾配関係を、かなり避けがたく生じさせる。いつかは「お互いがお互いのためにする」ようにしたい

そして、またここから地獄の話をします(地獄の話をやめろ)(嫌です)

「相手のために何かしてあげたい、捧げたい」という気持ちは、本当に尊い。

が、そこから生じる関係は、たいてい平等な関係ではない。

献身する側も、献身される側も、こういう不平等な権力勾配関係が、そもそも好きだったりする。

が、俺は大嫌いだ。

公正取引をしていない、相互の献身でもない、一方的な献身。
それはしばしば「盗人猛々しい人に搾取されている」ということであって、それは美しいかもしれないが、要するに悲劇的なことだ。
「肯定しろ」と言われても、あのう、そのう、嫌なこったですよ。

***

もちろん、そういう気持ちに一度でもなったことがあると、その手の「献身したい」気持ちを一概には否定出来なくなるよ。
それはそうだよ。もちろん。

***

その上で言うが、「俺は彼女のために心を込めて色々なことをした」し、「彼女は俺にたくさんの思い出をくれた」からな。「お互いがお互いのためにする」ということをしていた。少なくとも俺の認識ではそうだ。おそらく、俺の側の方が「もらっているもの」は大きいが。
なー。ステラちゃんよー。ありがとなー(隙あらばカワイイカワイイ元飼い猫をズイズイと推していく元飼い主スタイル)

さて、そういう、「お互いがお互いのためにする」ということをしていると、「片方が片方のためにして、相手はそれに報いない」というのを、「美しい」と諸手挙げては言えなくなる。
それは、やはり、悲劇であろう、と思いますよ。

単なる献身ではなく、「お互いがお互いのためにする」ということで、初めて自分のやっている献身に納得の行く人も、世の中には多いんですよね。
そして、相互の献身の中には、それなりの量的な含みを持つ、「公正取引」のような在り方も含まれている。ということで、次は公正取引の話をしたいと思います。ご期待ください。

(続く)

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