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随筆(2020/11/13):「リソースがないから幸せになっている余裕がない。幸せにならない方がいい」という自縄自縛(下)

4.「幸せにならなくていい」という姿勢の人に、チャンスは来ないし、周囲もチャンスを与えなくなる

恐ろしい話はまだあります。

「リソースがないから幸せになっている余裕がない。幸せにならない方がいい」

というのを貫徹すると、もちろん本人は幸せになれなくなります。

自分で拒絶して、受け入れないんだから、そりゃそうなる。

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そして、それ以上に恐ろしいことに、リソースを増やすための手段を講じる動機がなくなるんですよ。

例えば、生活のための設備に投資をする動機が。

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だって、

「少ないリソースで生きていくことが最重要だ。

幸せになるためにリソースが要る?

リソースを膨らませて幸せになることを諦めてこの生活を得ているのだ。

幸せになった瞬間、生活のためのリソースは枯渇するんだよ。分かってねえな。

は?

より豊かになって生活を安定させるための投資?

種火を燃やして種火を増やすという博打を採用して、生活を回すリソースが確保できるとは到底信じがたいが?

そもそもリソースは常にギリギリであるという話をしている。何で他のことに割いて、リソースが残るなどと、うかうかと考えた?

今ギリギリで生活するためなら、投資などということをせずに済む。

それをぶち壊しにして、投資だと? 明後日のために明日死ねば明後日は浮く、みたいなクソ下らない話を直ちにやめろ」

という話にしかならないんだもの。

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ちなみにこれは短期的にはそうですが、長期的には正しくありません。

投資はふつう後になると、それまでに損なわれた損を取り返せるほど大きいからこそ、投資話として意味があるのです。

そう期待できるのなら、その投資話には、我慢してやってみるだけの価値はある。泣いても笑っても得をするのだから。

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だが、もちろん、「損なわれた損を取り返す前に、餓死する」という疑いがあまりにも強いから、こんな話には乗れないんだよな。

現にある真実と、伝えられて信じられる真実の間には、広くて深い崖がある。

リスクに晒されて何もかも疑って何も信じられなくなっている人に、現にある真実を、伝えて信じさせる? 無理では?

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また、ひどく哀しい話であるが、周囲から幸せや金やチャンスもらえる可能性も減る。

「この人は、生き延びるためなら、幸せや金やチャンスが要らない側の人なんだな」

と思われてしまうからだ。

だって、そりゃあそうだろう。自分で、そういうことを、その通りに公言しているのだから。

5.金をくれないせいで幸せになれなかったのに、金を払わせたにもかかわらず幸せになれないとなると、どうすればいいのか

あと、もう一個、地獄の話をします。

「金をくれないせいで幸せになれなかった」

という恨み言を抱えている人は、たくさんいます。

ですが、いったん金が手に入ったらどうなるか。

実は、しばしば、

「金を払わせたにもかかわらず幸せになれない」

ということが起こり得るのです。

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この問題と戦わねばならない。誰しもそうだ。

だが、これを解決出来る勝率は、決して高くはないように見える。

「金を払わせたにもかかわらず幸せになれない」

のまま、終わることもかなりある。

何が問題なのか。どうすればいいのか。

6.復讐の公正ではリソースは払わせられるが、問題の飼い馴らしの和解をしないと、リスクはなくならないし、傷も癒えない

良くある話ですが、

「金をくれないせいで幸せになれなかった」

というのは、恨みをもたらします。そりゃあそうだろう。

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そして、人の脳髄には倫理が埋まっており、その一つに

「何かのために費やされたリソースはノシつけて返ってきて欲しいし、誰かのために費やされたリソースノシつけて返されるべきだ

という公正の価値があります。

ついでに言うと、綺麗事しか見たくない人ふつう認めない、醜悪な真実なのですが、

自分のために費やされた誰かのリソースを、ノシつけて返さないやつは、そういう盗人であり、野放しにすると取引というものは広範に成り立たなくなる。

だから、制裁として、賠償を払わせるか、そうでなくても損をさせるかすることで、間接的に取引の安全を担保する

という、復讐の公正があります。

これは、断固として、公正の価値のバリエーションです。

これがあるから人は、公正取引綻びとしての、搾取的な盗人猛々しい不公正取引に、抗って行けるのだから。

公正の価値ということに、綺麗事しか見ていない人もいるが、ここは厳粛に受け入れなければならない。

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「金をくれないせいで幸せになれなかった」

という恨みに、復讐の公正が絡むと、

「あいつらに金をノシつけて払わせる」

か、

「あいつらに損をさせてやる」

という形に、ふつうはなる。

前者得の経済後者損の経済であり、得をしたいのなら前者は避けられない。だから、話を前者に限ります。

で、前者をやったら、金をノシつけて払わせる、非常に強い動機になる訳です。

これはとてつもない力で、こういう社長、しばしば類型として散見されるでしょう。

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だが、

「金を払わせても幸せになれない」

ことはよくある。

もちろんこれは、損をさせられたダメージが大きすぎて取り返せていない。という理由が大半を占めています。

しばしば、ダメージは得によって癒される。これはこれで、めでたしめでたし。という話です。

だが、ここから恐ろしい話をしますが、ダメージが得によって癒されても、

「えっ、今までダメージしか与えられてこなかったのに、何で俺得になっているの? おかしやないかい」

脳がバグってしまうことがあるのです。

で、そんなメンタリティでは、得によって得られる癒しの効果限りなく薄味になる。

結果として、ダメージは癒えない。

むしろ、今までのパターンに反する事態が起きて、脳が不安でバグり続ける。という、この世の地獄が起こり得ます。

勘弁してくれ。幸せになるためにやっていくのは、日本国憲法の考える人権の中でも、だろう。(第13条幸福追求権

そこを、何が哀しゅうて、幸せの回路を破壊されて、それでもやっていかなならんねん。

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じゃあ、どうすればいいのか。

この前から何度か書いている、「問題を飼いならすために呑み込む、和解する」ということが、どうしても必要になるんです。

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これは、憎くて憎くてたまらない、盗人猛々しい厄ネタを、心から受け入れよう。などという寝言みたいな話ではありません。

憎くて憎くてたまらない、盗人猛々しい厄ネタが、なぜ厄ネタなのか。

それは、自分の手に負えないし、しかも害をもたらすからです。

自分の見えない後頭部から、フォークを突き刺してきた、クソみたいに邪悪な厄ネタに復讐したい。それはそう。当たり前。

で、自分に扱えるようにして、賠償をノシつけて払わせて、原状回復+αかそれに準じるようにさせよう。

それでこそ、償われた。ということになる。

目指すべきはこれです。「飼いならして食っちまえば一番だ」という話です。(えげつねーこと言ってやがるな)

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十分な賠償が得られて、こちらが相手にネチネチとこだわることに飽きて、どうでも良くなって来て忘れ去るまで、人の許せない気持ちはたいてい終わらないで続く。

逆に、ここが終わったら、割と片付くことも多いのです。(片付かないこともあるが)

これは大事なことなので、ぜひ覚えておいて下さい。

***

「そんなことはいいからぶっ殺す」?

何で?

そいつが死のうが、それで気は晴れるかもしれないが、心の痛みも癒されるかもしれないが、損害、現に、何一つ賠償されてなくない? 依然として傷つけられたままじゃん。治療費の足しにもならん。

死んで誤魔化すな。そいつが破滅しようが何にもならん。知らん。どーでもいー。きたねー小指も生首も要らん。そんなこっちゃねーんだよ。

***

え?

「こんなこと考えている人と和解したくない」?

うん。だから、

「そんな恨みを抱かれる前に、そもそも自分が人の見えない後頭部にフォークを突き刺してないか、一度はまずは心配してみてはどうだ?

こんなことしてたら、そりゃあ恨まれるに決まっているし、挙げ句の果てにこれに文句をつけるなど、盗人猛々しさの極みではないか…?」

という話にしかならねーのよね。

そもそも後頭部にフォークを突き刺してないなら、こんな話にすらなり得なくて、最初からふつうにまともに扱ってもらえるでしょう。

人と和解しようとするほどの人なんだ。そもそも、人当たりはかなり柔らかいはずだ。

そこに、相手から何か屈託が感じられるとしたら、それは自分が相手の後頭部にフォークを突き刺して、しかも顧みてないからである可能性がそこそこ高い。

これは、実は、割と真面目に疑ってみるべきポイントだ。もしそうなら、ノー会話で復讐されてても、何もおかしくないのだから。そうなってないだけマシよ。マジで。

ノー会話で復讐されるか、生殺与奪の権を他人に握られるか、そもそも復讐も支配もされる謂れのないように振る舞うか。

ふつうに考えたら最後しかないと思うし、それがイヤとはふつう言わないだろう。

それを、「そんな配慮を余儀なくされたくない、イヤだ」と思いたがる人、気を付けた方がいいですよ。

他人の後頭部にフォークを突き刺す自由が、社会で何の対策も取られなくて当然、対策されないのが自由権の在るべき在り方、とか思っちゃいまいな。

突き刺す側の都合だけで他人は動かない訳です。というか、かなり多くの他人は、ふつうに対策する。ごく当たり前のことでしょう。

後頭部からフォークを突き刺されて、自由意志のある他者に対して、備えるな、という…? 何…その要求…要求? 通る訳なくない…?

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まずは、他人の後頭部にフォークを突き刺すのを、最初からするな。

そういうことをしてるから、和解の人にすら「屈託のある和解」をされるのだ。

「屈託のある和解」を非難する人が、実は他人の後頭部にフォークを突き刺しておいて、しかもそれに対する他人の屈託「に」文句を言っていた。

となれば、これは突き刺す方が悪いし、挙句文句を言うなどさらに五割増し悪い。という話にしかなり得ないと思う。

こんなことされておいて、なおも手打ちにしてくれようとする向こうの方がよっぽど大人(ターレン)で、手打ちに難癖をつける襲撃者の方が圧倒的にチンピラですよ。

そうなっていないか? よく気を付けた方がよいでしょう。

***

復讐がしたい公正感覚から、反省とともに生えてきた和解とは、

「とにかく復讐などという哀れむべきおぞましいことはやめよう」

などという反動的なものなどではない。

それは、ただの、逆張りという。そんなことして何になる?

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そうではなく、

「損害に対して復讐するなら、損ではないようにしよう。得に寄与するようにしよう。

そのためにはこいつを単に吐き捨てるのではなく、呑み込んで噛み砕かねばならない。

克服して、二度と心煩わされないで済むようにしような

というのが、いろんな意味で、落としどころでしょう。

***

「最高の復讐とは幸福になること」ではない。そんな、意趣返しのような幸福、果たして幸福と呼びたいか? 少なくとも俺は嫌だ。

そうではなく、単なる復讐を越えて、幸福のために相手を咀嚼する。

そうすれば、相手も、復讐という事柄も、己の中の煮えたぎる、苦痛を伴う復讐心も、自分の幸福のための素材でしかなくなる。

少なくとも彼らやそれらは、あなたに対する有害な脅威としての偉そうな在り方を、あなたの態度一つで奪われたことになるのだ。

そして、それが一番大事。

***

相手復讐も、公正の価値観も、酒の肴にして、自分は幸福に生きてやろうな。

いじょうです。やっていきましょう。

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