無門関とデカルト
禅宗の書物『無門関』(岩波文庫)を少し読んだ。
坂本龍一の最晩年のドキュメンタリー(NHK)で、たしか本棚に置かれていた。
また、三島由紀夫『金閣寺』にも登場する。
「趙州狗子」という節では、「無」を重んじる思想が説かれている。
「妙悟要窮心路絶」(素晴らしい悟りは一度徹底的に意識を無くすることが必要である)。
デカルトの「我惟(おも)う故に我あり」(『方法序説』)とは、正反対に見える。
また、「[…]意識も絶滅できないようなのは、すべて草木に憑りつく精霊のようなものだ」とある。
これは、『方法序説』に出てくる悪霊の話と対照的だ。
悪霊は人間に幻を見せる存在であり、明証的な認識を目指すデカルトにとって脅威となる。
しかし「趙州狗子」では、アニミズム的な「草木に憑りつく精霊」しか登場しない。しかも、それらは悟りに至る可能性がない点で、人間より劣っているらしい。
それから本節における「無」は、「虚無」とか「有無」とかいう話ではないという。
「無」とは、「[…]今までの悪知悪覚が洗い落とされて、[…]自然と自分と世界の区別がなくなって一つにな」るような状態である。
この状態を理想として追求せよ、というのが本節の結論だ。そのためには、「[…]からだ全体を疑いの塊りにし」なければならない。
デカルトは方法的懐疑により、あらゆるものの実在性を疑ってみた。その結果、こうして何かを疑っている自分は確かに存在するとした。「趙州狗子」の結論とは、随分と違って見える。
しかしながら『方法序説』では、何かを疑っている自分(=考える主体)は神の存在に裏打ちされている。いわゆる超越論的な構造だ。
そこから翻って、他者や世界の存在が神の全能性によって担保される。
こうして主体は、他者や世界と関われることが約束された。
「趙州狗子」のように一体とはならないが、最終的には他者や世界と繋がれるわけだ。
デカルトは神の存在証明を行い、神の存在を前提とする認識論を樹立した。
一方、「趙州狗子」では、『臨済録』に見られる「逢佛殺佛」(仏に逢うては仏を殺し)が登場する。
「殺佛」は、あくまで比喩とされる。悟りに至るには、仏すら全否定する必要があるという教えだ。いわば「方法的殺仏」である。
神と仏とで、かなり扱いが違うようだ。
ただしデカルトの方法的懐疑は、むしろ無神論と相性が良いとの見方もある。だが当時のヨーロッパでは無神論者は迫害されるので、彼は神の存在を否定しなかった。
だからといって私は、『方法序説』より「趙州狗子」のほうが懐疑精神が徹底しているなどと言いたいのではない。
前者の目標は、客観的実在の証明であり、その手段は推論・論証である。
それに対し後者の目標は、主観と客観の同一化。そして、その手段は修行・自己陶冶なのだ。
両者の方向性が違うので、懐疑の深さは比較しづらい。
同様に、「考える主体」と「意識の絶滅」のどちらが思想的に優れているかなど、決めようがない。